小説

2008年8月24日 (日)

やさぐれ勝の恋 十八

      十八

「見える、見えるぞ」
 巫女が纏《まと》う白装《しろしょうぞく》姿の岩淵克子《いわぶちかつこ》は狂ったように立ち上がった。
 これでもかというぐらいに眼《まなこ》をカット見開き、赤い鉢巻に灯が点いたままの百目蝋燭が暗闇の中で揺れていた。口角に溢《あふ》れた唾《つば》か涎《よだれ》か区別のつかない液体がゆっくりと下へ垂れ続けていた。
 彼女の放つ狂気が八十畳の大広間を埋め尽くした人々にどよめきを促《うなが》した。
 もっともここでは克子という名では呼ばれてはいない。
『瑞人《みずと》の巫女《みこ》』と信者から呼ばれていた。
『瑞人とは瑞穂《みずほ》國の人を意味する。瑞穂とは古来日本の旧称だ』
 説明するまでもない、勝の直ぐ下の長女が克子である。
         *
 生まれ育った土地を離れ兄弟八人が保護された宮城県内の児童養護施設で克子は朝から晩まで兄弟妹の面倒を見て暮らした。
 施設は敗戦後、戦中兵舎だった建物の払い下げを受けた山本園長一家によって始められた。元々農家であった園長一家は農地改革で僅かな荒れ果てた農地を国から払い下げを受けたが、それだけで腹いっぱいにならなかった。そんな時、戦後繁華街を徘徊し窃盗や暴力を行う少年達の愚連隊が問題化した。ほとんどの少年は戦災孤児であった。彼らを保護し一箇所に押し込め更生する施設の整備が求められた。どういわけか山本の元へ施設の管理人の話が転げ込んできた。県からかなりの援助が出ると担当者から聞いたとき、山本はひとつ返事で答えた。山本は幼い時に脚気を患い長い闘病生活を余儀なくされた。性格に問題を生じた。鬱屈した心が表情に表れ、自らの子供を殴ったり蹴ったりするような男だった。警察に逮捕監禁された少年が次々と園へ連れられてきた。どの少年も一筋縄でいかぬ者達だった。山本は鼠をじりじりと甚振《いたぶ》る方法を用いた。一人づつ個室に閉じ込め、性格の矯正をする事を始めた。水以外いっさい彼らには与えない。二三日はそれでもなんとかなる。口も利けぬ衰弱した身体になったところで大部屋に引き連れてくる。そこで先に入園している少年達に命じて暴行を加えさせる。死なぬ程度と命じたが数人が命を落とした。もちろん外に口外することはご法度だ。この方法は彼らを恐怖で支配するのに成功した。
 山本が数十人の愚連隊を制するにはこれ以外になかった。自らの陰湿な性格が成せる技だったかもしれない。
 そんな園へ勝兄弟姉妹8人が連れられて来た。児童福祉法では乳幼児(一歳未満)は乳幼児院に預けられる事になる、実際は行政への報告だけで済んだ。
「お前たちは今日からここにお世話になるんだ」と母方の叔父が勝達へまるで自分の手柄でもあるかのように話した。
 山本は十二歳という勝の身体に驚いた。どうみても六尺はあろう身体をしている。腕の筋力は山本やこの園に入所している者達の比ではない。
 克子は勝の二つ離れた長女になる。
 さらに次男の光男が二つ下。それ以下の兄弟妹は何れも五歳以下でそれも年子という年端もいかぬものばかりだった。
「お前はこの園の農場で働いてもらう」と山本はすぐに決めた。
 勝は中学校へ通いながら園の農場で馬車馬の如く働いた。克子も同じように園から小学校へ通ったが、ほとんど通うどころではなかった。彼女は専《もっぱ》ら小さな兄弟の母親役である。食事の後片付け、洗濯と休まる暇もない。背中に美智子、胸に平助を縛り着けたまま朝から晩まで忙しく立ち働いた。
 兄弟全員の朝食の後始末を終えると、勝の元へ朝食と昼の弁当を届ける。克子も自分の朝食を下げ勝を訪なう。
 何も話す事はない、ただ弁当を畦《あぜ》で広げ、麦飯に僅《わず》かな野菜と干魚の弁当を食すだけで克子は幸せだった。
 弁当を運ぶ途中で出会う少年がいた。
 いつも少年は土手に寝転がって空を眺めている。克子はこの辺の農家の子供だと思っていた。
 克子はたまに目が合うと会釈する。小学校の高学年、そう克子よりは年上に思えた。
        *
 夏の嵐の夜に事件は起きた。
 その日の朝、山本園長は新しく入所した少年を折檻部屋と呼ばれる納戸に押し込めた。
 年長の者にいたずらされて廊下で喧嘩をしていた所を山本に見つかった。なぜか山本は一方的にその少年を折檻部屋に押し込めた。
 夕方になり夕食の時間にその少年が欠けている事に克子が気がついた。
  年長の者が手分けして園を探して回ったが見当たらない、山本園長に問うたところ折檻部屋に押し込めたと説明した。
 勝に従って克子も折檻部屋に向かった。
 折檻部屋の鍵は掛かっていた。
 後に従っていた園長が腰にぶら下げていた錠前の束を取り出し鍵を開けた。
 部屋に少年の姿形は無かった。
 真っ暗部屋に唯一ある天窓から弱い月明と激しい風が発《た》てる音が狭い部屋にあるだけだった。
「おかしい、だれもいない」
 園長の容貌が見る見る変わるのを克子は見逃さなかった。何かに囚われている奇妙な輝きが両眼にあった。
 誰にも言われずとも勝と克子は園内を探し回った。
 廊下の向こうに仄《ほの》かな明かりがあった。
 その光が偶然屋内に紛れ込んだ蛍の放つ弱弱しいものだと克子は黙って見つめていた。
「かつ、この蛍は何かを現している」
 と勝《まさ》が言ったが、その意味する事は克子《かつこ》には分からなかった。
 さらに強くなった風雨が今にも窓ガラスを破って廊下に侵入しようとしていた。
 その時、克子はあのいつも弁当を届ける途中で出会う少年が園の庭を駆けて行く姿を偶然捕らえた。
「まさ、今いつも話してるあの男の子が庭にいた」
「どうやら行方不明の者は外へ出たらしい」
 と勝は玄関へ向かい、玄関先の物いれから雨合羽と長靴を取り出すともう一組を克子に手渡した。
 叩きつける雨の中を勝の広い背中に隠れるように克子は後に付いていった。
 時々身体を押し返そうとする強風で一歩も前に進めなくなった。
 園の畑に向かうのに林を抜ける近道がある。
 朽ち果てた人家の横を流れる川に粉引きの水車小屋があり、川の水が増したためいつものゆっくりとした水車の動きではなかった。
 暗天に向かって帯びただし川の水を噴き上げていた。林の中を抜ける強い風が『ぴゅー、ぴゅー』とまるで笛をこれでもか、これでもかと無茶苦茶に吹き続けていた。
「まさ、あそこ」と克子は急に立ち止まり風雨の真っ暗な闇を切り裂くように人差し指を真っ直ぐに指し示していた。
 一段高くなった丘の下に何かが立っていた。
 その立っている・・・その姿を際立てせるかのように何か無数の光の群れが乱雑な動きで回りを覆っていた。
 克子は急にそこへ駆け出したい衝動に襲われた。
「お前はここに」と勝は光の正体を確かめるため丘の下へ急いだ。
 酷い腐乱臭が辺りに充満していた。
 夏の高温が腐敗を早めたのは明らかだった。
 すでに眼窩は落ち窪みその周りを丸々と肥えた蝿の幼虫が動き回っていた。その蛆《うじ》を狙って死出虫《しでむし》の夥《おびただ》しい数が蠢《うごめ》いていた。
 勝はその虫達の餌食になっている正体がまだ背丈の揃《とと》わない少年である事を確認した。下半身は一糸纏わず、むき出しの未熟な陰茎を無数の蛆が白々とのたうつ。
 勝は後ろの克子が気になって振り返った。
 強風と雨の中に合羽姿の克子の横に光の渦が見えていた。克子は誰かと話していた。
 勝には見えない何者かと・・・
『男が子供と遣《や》ってきた・・ベルトで子供の首を締め上げた・・』
 蛍が飛び交っているのでは無かった。
 克子は小さい時から突然独り言を話した。
 みな兄弟はそれを知っている。
「まさ、この男子の話から園長が・・」
「かつ、園に戻って警察に連絡しよう」
 と勝は克子の手を確りと握り締めた。
「まさ、どうしたの」
「ああ、俺はおかしくなりそうだ」
 確かに狂った夏の夜だ。
 宮城県警に連絡が入ったのは午後八時を回っていた。連絡を受け取った係りの者の話では、大人からの電話ではなく少年からだったという。非番の村末和正《むらすえかずまさ》警部補が現場に到着したのはすでに午後十時を回っていた。先に現場に到着していた部下の話から、ホトケは成和園の園児、戦災孤児、氏家清直《うじいえきよなお》八歳。
 園長の山本からの聞き取りで子供同士の喧嘩があり、以前から氏家の粗暴が激しいため、鍵の掛かる部屋に閉じ込めたが夕食時に部屋に行ったところもぬけの空だったという。山本は閉じ込めてから一切部屋には行っていないとの話だった。
「その園長と、そうだ連絡を入れた少年を連れてきて欲しいのだが・・」
 と村末は電話を掛けて来た少年に興味を持った。
 狐目の男だと村末は山本の第一印象で感じた。
「あの氏家は乱暴でよく年少の者を殴る蹴るような子供でした・・」
『そんな言い訳じみた事は聞いていない・・・』
「園長はその後一度もその少年を閉じ込めた部屋に行かなかった」
『この猛暑の中で水も与えず、年端もいかぬ者を』
「ええ」と言ったきり山本は所在無いように下を向いていた。
 はっきりとは断定できないがこの男は何かを知っていると村末は直感した。この場で詰問しても証拠が少なかった。
『どこから落とすか』と村末は激しく叩きつける風雨が窓ガラスを突き破ってくるのではないかと思った。
 山本の聞き取りを終え、身体のがっちりした少年が部屋に通された。
 園の教室の一つを借りうけて聞き取りを行っていた。
「そこに座りなさい」
 少年の肩越しに雷《いかづち》が走ったように村末は錯覚した。次の瞬間教室の裸電球の明りが一瞬で失われた。実際は園のごく近くに雷が落ちた。翌朝、送電線の鉄塔に雷が落ちたために停電になった事が判明している。
 蝋燭《ろうそく》が用意され、わずかな明りの中で村末は少年の話に聞き入った。
「俺の妹のかつと発見した」
 と勝と名乗った少年は淡々と事実を語った。
 村末はその話に事実と一点の相違も無いと確信した。
 村末は遺体のあった場所を確認していた。すでに遺体は片付けられていた。園から数キロは離れている。この嵐の中でまして大人でさえ探すのは困難な状況でよく発見できたと村末は感心していた。あの場所へ行くには何かが必要だと思っていた。
「君はどうして氏家君があの場所にいると思ったのか教えてくれないか」
 少年の顔の丁度真下に蝋燭台があり、少年の顔を下から仄かな明りが照らす恰好になっていた。
「見ました」
『何を・・』と言葉にしなかったが、そう言ったとでもいうように少年は答えた。
「蛍が飛び回っていました」
「蛍・・」
「はい、蛍です」
 なぜこんな嵐の夜に蛍が飛び回る。
 村末は蛍の習性をよく知っていた。
 彼自身生まれ育った宮城の山や川で繰り返し繰り返し夏になると蛍狩をやった。
 その経験から蛍は風の少ない夜飛び回ると知っていた。
 雄は雌を求め精一杯に腹部後方の発光器から発光する。雌はじっと雄の求愛行動を草むらで待ち受ける。とても雨や風が強い夜は飛び立つ事もままならない。
 だから嵐の夜はじっとどこかで雨風を凌いでいる。
「蛍に導かれて氏家君を発見した・・」
 また雷鳴が窓ガラスを通して教室を白日のように照らした。
 大人と寸分変わらぬ体躯を持つ少年が窮屈そうに教室の椅子に座っていた。
「かつが丘を指して教えてくれました」
 と勝はつい口を滑った事を後悔した。
「かつ・・克子さんが見つけた・・」
 村末の脳裏にある興味深い記憶が蘇りつつあった。
「克子さんは目が悪いのでは・・」と村末は言ってから、恐山でのイタコを巻き込んだ残忍な殺人事件を思い出していた。
 イタコとは生まれながらに盲目もしくは半盲目の幼い少女が恐山のイタコへ弟子入りしそこで修行することで、死んだ者の霊と会話する能力『口寄せ』を得た者をそう呼ぶ。職業かと問われれば、それで生活の糧を得るのであるから仕事には違いない。
 克子は生まれながらに全盲であった。
 だが家人はだれも気がつかなかった。
 克子が話しが出来るようになって、初めて克子が違う物を見ている事、そしてあらゆる物の色が目の見える者と違いがあることがわかった。だが克子は物が見えてる者と寸分違わぬように歩く事もなんでもやる事ができた。
 だれも盲目とは気がつかなかった。
「克子さんは、その・・」
 村末は一度言いよどんだ。
 村末はイタコが人知を超えた能力を持っている事を誰よりも知っていた。
『克子は蛍に導かれて少年の元へ辿り着いた』
 勝の真剣な眼差しがそう語っていた。
 山本園長の聞き取りで村末はこう聞いていた。
『勝とめくら[#「めくら」に傍点]の克子が見つけました』
 目が見えない者が見つけたという事に引っかかっていた。だがその答えを村末は漸《ようや》く見つけたのだ。
『克子さんは人は違う物を見たり、感じたりできるに違いない・・』
 村末は思い直したように、
「勝君、もし君さえよければ、克子さんからも話を聞きたいのだが、よいかな」と村末は丁寧に勝の同意を求めた。
「おれはかまわねえ、かつを呼んで来る、ちょっと待っててくれ」
 勝が教室を飛び出していった。
 勝は兄弟が寝る二階へと駆け上がっていくと部屋の前に克子がじっと立っていた。
「かつ、どうした」
「まさ、またあの少年が庭に来ているの・・」
 勝は廊下の庭に面した窓から暴風の漆黒の闇をじっと目を凝らして見たが、何もそれらしき姿を捉える事はできなかった。
「何かを話たいと思うの、まさ、いっしょに付いて来てくれる」
「その前に、警察がかつの話を聞きてえと」
「そう、でも・・」
 克子は嵐の中を遣ってきた少年が気がかりだった。
 村末は勝に伴われて遣ってきた少女に稀有な物を感じ取った。線の細い顔立ち、目がとても見えないと思えない円《つぶ》らな瞳、勝と兄妹と感じられないほどほっそりとした身体付き。
「あの、刑事さん」と克子は困ったように、村末に話した。
 克子の透き通った声がまるでひばりのさえずりのように心にじっと染み入った。
「なんだね」
「庭に・・」
 克子も話してはいけない物を感じたが、話せずいられなかった。
 村末も克子が何かを話したがっている事を感ぜずにいられなかった。
「誰かが来ている・・」村末の直感だった。
 だが、克子はそれに答えるようにこう話した。
「氏家君のところまで連れててくれた男の子が、また園の庭にいるの・・」
 村末はあの時と同じだと思った。
『死人に口なし』という言葉がある。
 だがイタコの前では無意味だという事をいやというほど思い知らされた。
 彼女等は死人と会話できる。
 死人を見る事ができる。
 それが事実以外にありえない事を村末は過去の事件で経験した。
         *
 雷鳴と風が弱まり、雨がしとしととまだ降り続いていた。
 克子を先頭に、勝、村末警部補、山本園長、そして三名の警官が同行する奇妙な一行が深夜の森を進んでいた。いづれも雨合羽に長靴という出で立ちだ。
 山本園長を同行させたのは村末の考えだった。
「もうしわけないが保護者として来ていただきたい」と山本に村末は同意を求めた。
 激しい雨の後なので、酷い泥濘《ぬかるみ》を長靴を両手で引き抜きながら進むような状態だった。
 克子にしか見えない少年をたよりに一行は川沿いを進み、それに平行するように続く雑木林の切れ目で漸く林へと方向を変えた。
 勝は時々克子の先に何かの光が見えるような気がしたが、それをはっきりと確認する事はできなかった。
 克子は少年と一緒に歩いていた。
 それは克子だけが持つ能力だ。
 少年は時々後ろを振り返り何かに怯えた。
『だいじょうぶ』と何度か克子は少年の心に訴えた。
『うん、だいじょうぶだね、警察がいる』
 林の中にぽっかりと穴の開いた空間があった。
 笹が鬱蒼と処狭しと埋め尽くされていた。
 少年が笹を掻き分けて進みだした。
 誰の目にも笹を掻き分けて進むのは克子しか写らない。
 ダケカンバの幼木が一本だけ、あたかも誰かに植えられたまま忘すれさられたように笹から顔を出していた。
 少年は下を向いたままじっと動かなくなった。
『ここにいる』と克子は聞こえた。
 何度も何度も、少年と田んぼの畦道で出あったのだろう、一度でもちゃんと話を聞いてあげればよかったと克子は思った。
 少年は克子に何かを話したかった。
 聞いてあげられなかった・・
 克子は人差し指で真っ直ぐにダケカンバの幼木を指し示した。
「ああ」と突然声が響いた。
 勝が振り返ると笹薮《ささやぶ》を一目散に駆け出した者がいた。
「捕まえろ」村末の声が漆黒の闇に鳴り響いた。三名の警官は泥の中で転げまわる山本園長を難なく取り押さえた。
 少年が手を振りながら笹薮を掻き分けてさらに林の中に消えていこうとしていた。
 一度軽く頭を下げるとそのまま姿を消した。
 勝にもはっきりと聞き取れた。
『ありがとう』   
         *
 村末の取調べで、山本園長は自白した。
 二人の少年を殺害した事実を認めた。
 山本が小児性愛者(ペドフィリア)であることが後でわかった。養護施設を始めてから目を付けた少年を折檻部屋なる部屋に監禁し、異常な行為を行っていた挙句に殺害した事を認めた。
 笹薮で発見された少年は宇津木和ということが分った。山本から県への報告書には脱走して行方不明となっていた。
 その後、山本園長の死刑が確定する。
         *
 小さい時はそれでもよかった。
 彼女が成人してから、日常当たり前にある事が人と違う事に対し、克子は長い間固い殻で自らの心を閉じてしまった。
 誰にも自分の能力について語らない、そう心に誓った。
 だが、いつも耳から微かな雑音が聞こえる。
 特に意識していない時に、人の話声が聞こえる事がある。意識していない時の方が多い。
『私は井波和義と申します』
  克子がいくら辺りを探してもその声の主はいない事が多い、しかしはっきりと姿を現す者もいる・・あの少年がその例になる。
『やはり、貴女は聞くことができるのですね、私の仲間が話していた記憶があります。現世にいる者でたまに私達と会話ができるものがいると・・・』
 それが日常茶飯事であった。
 銀蔵の宿舎で飯炊きや雑事をやって一生を過ごす、そして勝と一緒にいる。
 と自分で決めてきた。
 だがある時人生が変わった。
         *
 岩淵道三《いわぶちどうさん》というひとりの政治家と彼女は出会ってしまった。
 人がどのような人生を歩むかなど誰も分らない、しかし人は人に出会う事によって確実に運命が変わる。
 土建屋を一代で一流企業に築き上げた岩淵は銀蔵の賭場の常連であった。彼は五十歳で家督を息子に譲り政界へ打ってでるという野望を持っていた。
「人生五十年、後は御国のために身を粉にするだけ」と岩淵は事ある毎にそう言い続けてきた。この海千山千の叩きあげの男はよく宿舎の食堂にひっょこりと現れた。
「ねえさん、あのうまい水を一杯くだせえ」
 克子は水道水をガラスコップに注ぎ入れて出すだけだ。
 どっぷりとした体格の岩淵は身体全体で水を飲み干すようにコップから水を並々と喉へ注ぎ入れた。
『なんて水をおしそうに飲む男なのかしら』
 もちろん全盲の克子にはその姿は見えない、だがはっきりと岩淵の一挙一動が手に取るように分る。
「入れる人が入れるとただの水もこんなにうめえや」と岩淵は豪快に笑い飛ばす。
「ねえさん、失礼だがあんた独身なんだってな」と急に岩淵の声のトーンがダウンした。
「はい」
「世の中は本当にあきめくらばかりだ、おっといけない、すまん」
 岩淵が何を言いたかったのか克子には手に取るように分った。おかしくて噴出しそうになった。
 急に岩淵が床にひれ伏した。
「何も言わないで、聞いてください・・」
「俺は十年前女房を失った・・俺は見ての通り男ぷっりはまったくだめだ、だが人一倍、女を大事にする・・」
 食堂に現場から帰った労務者が固唾《かたず》を呑んで見守っていた。
「一緒になるにははずいぶんと歳が離れているが、あんたの生涯、生活に不自由は一切させない・・」
 丁度裏から賭場の仕度を終えて銀蔵と勝が食堂に現れた。
 克子の前で頭を床に擦り付ける岩淵を認めた。
「えい、めんどっちい、克子、俺のかかあになっちめえ」
 誰が最初に話すのか銀蔵も固唾を呑んだ。
 静けさを破ったのは克子だった。
「私は目が見えないのよ・・」
 岩淵が政界に打って出れたのは実はしゃべりが達者だったからかもしれない。
「克子さん、俺はずっとあんたという人を見守ってきた。銀蔵の賭場のアイドルが綾子さんなら、あんたは女神だ。俺にはそうとしか考えられない、あんたの一挙一動の寸分の狂いのない所作は目の見える者でもかなわぬ正確な動きだ。俺の考え違いでなければ、あんたは心眼というやつですべてを見ている。と俺は確信している」
 克子は無言だった。
「俺のために一生を仕えてとは言えない、だが俺はあんたの入れるその一杯の水に惚れた。惚れて、惚れ抜いた。こんなうめえ水など飲んだ試がねえ」
 最後は岩淵の声は涙声になっていた。
「条件があります」と克子は答えた。
 誰もその意味を理解するのに少し時間が必要だった。
「私はここ以外の世の中を知りません、わがままを許していただけるのなら、私は仕事というものをしたいと思います」
 岩淵は不思議な顔で克子の目をじっと見た。
「仕事といっても私ができる事は限られています」
「何をする」
 銀蔵や勝も興味深く成り行きを静観していた。
「私は小さい時から、将来何かになるのなら、これをやってみたいとずっと思ってきました」
「なんだ」岩淵は再び口を開いた。
「占いで生計《たっき》を立てます」
「占い・・」
 勝にはその答えが実に克子らしいと思った。
 克子が小さい時から繰り返し繰り返し読んできた擦り切れた点字の本を思い出していた。「易経」だ。中国の四書五経の一冊である。克子が諳《そら》んじている事も知っていた。
「私を信じていただけなら、私は貴方に仕えましょう」と克子は言い切った。
「ああ、お前のいいようにしな」と岩淵は言った。
 そこで今現れたとでもいうように銀蔵が、「さて俺がお前たちを添い遂げさせよう・・」とその場をどうにか納めた。
 その晩、宿舎の食堂で岩淵と克子の簡単な祝言を銀蔵が取り持った。その子が昔着たという着物を克子に着せさせ、どこからか調達した羽織袴を岩淵に着けさせ、賭場の客や労務者の見守る中で三々九度の固めの盃を銀蔵が取り仕切った。実に見事な式であった。勝の兄弟妹全員が末席を占めていた。
「かつは綺麗だね」と次女の美智子が涙声で勝に言った。
「ああ、綺麗だ」
 その子が克子に白粉と紅を指し化粧を施していた。
「ねえちぇん、どこかいくのか」何も知らない平助が今にも眠り落ちそうな顔でぼーっと克子の花嫁姿を見ていた。
 初夜の床で岩淵はとんでもないすばらしい女房を手に入れたのを実感した。
「俺は政治家になろうと思う、お前が占いというものをやるのであれば、占ってくれないか」
「はい、あなた」と克子は床に三つ指を突いて頭を傾《かしが》せた。
「先達より貴方に近づいている男と縁を切りなさい、その者の心が金に執着するあまり膿んでいます」
 克子は岩淵の後ろに立つ老女をじっと見ていた。そう話してくれたのはその老女であった。だが、岩淵にはその老女の事は話さなかった。
「あなたの母上はご存命で」と克子は問うた。
「俺の母か、ああ、俺が小さい時に生き別れてしまった」
「生き別れ・・」
 その一言で克子は岩淵の傍を離れずにいる老女が誰なのか納得した。
『お母様、克子は今日から岩淵の妻に成らせて頂きたいと思います』
『願ってもない、そなたのような娘を貰う、こいつこそ果報者だ』
『そんなめっそうもない』
『お前の性根はあいわかっておる、どうかこの馬鹿者を守っておくれ、わしからの願いじゃ』
「かつ、なにをぶつぶつと言っておる」
『せっかくの初夜じゃ、野暮はしない、克子殿頼んだぞ』といい終えると老女はすーっと障子の外へ消え入った。
         *
 あれから幾年《いくとせ》が過ぎ、岩淵道三は与党の中核議員として内閣入りを果たしていた。
 これもすべて克子の占いによるおかげであった。
 今、この大広間を埋め尽くした信者はすべて克子の占いでなんらかの恩恵に預かった者ばかりだ。彼女の占いは一度も彼らの期待を裏切った事はない。誰も彼女の持つ本当の力を知らなかった。
 克子は月に一度信者を集め祈祷会を開催していた。彼らの安寧を祈るという名目を掲げていたが実際は寄付集めを行っていた。岩淵のブレーンの勧めもあり、数年前に組織を宗教法人化した。集めた金の大部分は岩淵の選挙資金や活動に資された。
 克子はそれでいいと思った。自分の能力の一部を使って夫を助ける。こんな恵まれた人生は無いと思ってきた。
 祈祷会が始まってすぐに克子は異様な光景を見た。 
『あ、勝』と勝が兵隊のような恰好をした者達と戦っている場面が一瞬浮かんだ。
 何かあったとすぐに克子は勝の周りで異変が起きたのを感じ取った。
 祈祷会を終えると取る物もとらず、克子は次女の美智子が運転するベンツで川崎へ向った。
「ねえちゃん何かあった」
「勝の身に何か異変が・・」
「勝に・・」
         *
 陽が完全に上がった海原を一隻の巨大なフェリーがゆっくりと切先で波をかき分け進んでいた。激しい銃声が船内全体を覆っていた。
 瞬間、克子の脳裏にその光景が浮かんだ。
 カーラジオからアナウンサーが臨時ニュースを読上げていた。
「本日未明、北海道へ向っていたカーフェリーがシージャックされました。船には核物質が搭載されている事が犯人側から通告されています。船員ならびに乗客が約百名ほどが人質になっている模様・・、繰り返します。本日未明・・」

 作者注:
 文章中に現在では差別用語として扱われる不適切な語を用いた箇所が数箇所あります。作品の趣旨と意図は決して差別としてその語を用いたつもりがない事を断っておきます。これに対してなんらかの不愉快な思いをされる方にこの場をお借りしてお詫び申し上げます。

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2008年6月 1日 (日)

やさぐれ勝の恋 十七

      十七

 「・・・ひとりぐらいは 
  こういう馬鹿が 居なきゃ世間の 目はさめぬ・・・」

 『兄弟仁義』(昭和四十年)作詞:星野哲郎 作曲:北原じゅん 
   唄:北島三郎

 今岡隆二は一人ぼっちだった。
 生まれて物覚えがあるくらいから一度として人に愛された記憶がない。
 もし勝に会わなければ・・と時々思う事がある。どこかの道端で喧嘩の末に野垂れ死にしていただろう。
 それがどういう風が吹いたのか、今や西岡組の跡継ぎに推挙される運命が訪れていた。
 川縁の掘っ立て小屋に生まれた。
 母の顔も名も知らない。
 もちろん父も同じだ。
 いわゆる父無し子。
 その日暮らしの祖父だと名乗る老人に拾われた。それ以外の生い立ちはわからない。
 歩けるようになった頃から、店先に並ぶ菓子や食料を盗み始めた。大人に追いかけられ路地裏に逃げ込む。毎日それを繰り返した。
 ある日、社会福祉士が現れた。
『お宅のお子さんは犯罪を犯している』
と寝たきりになった老人を責めた。

 少年法の第二章第一節第三条にこの下りがある。
 次に掲げる少年は,これを家庭裁判所の審判に付する。
 1 罪を犯した少年
 2 十四歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年
 3 次に掲げる事由があって,その性格又は環境に照して,将来,罪を犯し,又は刑罰法令に触れる行為をする虞のある少年
 イ 保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。
 ロ 正当の理由がなく家庭に寄り附かないこと。
 ハ 犯罪性のある人若しくは不道徳な人と交際し,又はいかがわしい場所に出入すること。
 ニ 自己又は他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。

 罪を犯した少年・・誰も彼の生い立ちを聞き同情はすれども救ってはくれない。
 それが世間と言う奴だと隆二は冷たいコンクリートの壁に囲まれた少年院に収監されて感じた。
 一際背が高かった。だから目立った。すぐに年長の者の目に留まった。
 収監される前の隆二を知る者はモヤシのような身体をした子供だったという。
 二年後、川縁の老人が逝去したとあの社会福祉士が遣ってきた。

 獣の子供を獣たちの中で育てるとどうなるか、その答えがそこにあった。

 十歳の少年の姿形はそこには無かった。
 研ぎ澄まされた刃物が剥き出しで向けられている。社会福祉士はそう感じた。ギラギラとした眼差しで彼は座っていた。
 隆二の少年院での二年間はある意味生活が保障された暮らしだったかもしれない。
 
 集団生活をするのは初めてだった。
 隆二にとってすべてが物珍しく新鮮であったが、彼を待っていたのは暴力という試練であった。
 口に堅く絞った手拭を詰め込まれ、次々に部屋にいた少年達が隆二を殴りつけて来た。
 人生のなんたるかなど知らない。
 殴られ蹴られる度に立ち上がった。
 命の危険さもあった。
 だが、隆二は挫《くじ》けなかった。
 独居房に放り込まれる度に隆二は素手ゴロに磨きをかけた。
 相手の動きを目だけで追っていては後ろにいる敵に対応できない。
 前後左右同時に攻撃される危惧もある。
 いかに相手にダメージを与え反撃にでるか・・
 効果的なのは相手の目を狙う、また足の動きを止める事だ。それが、できればこちらの思うまま殴り放題になる。
 ああそうかそんな簡単な事と思える。
 だが喧嘩はどんな場所でもどんな時にも対応できなければ勝てない。
 廊下を歩いている時、入浴中、就寝中、いついかなる時も気を休めない。
 腕力があるだけはもちろん勝てない、武器を持つ者にも対応できなければいとも簡単に遣られる。武器というものはそこいらじゅうに転がっている。なんでも凶器になりえる。堅い灰皿で頭に打撃を受ければ昏倒する。箒《ほうき》の柄《え》を折、そのささくれた木の先で目を突かれれば、視力を失う。
 一瞬で勝敗が決する恐れがある。
 やるからには必ず勝、そう自分に言い聞かせ、鼓舞しなければ、戦う前にすでに滅んでいる。
『攻撃は最大の防御なり』という言葉さえ知らなかった。
 弱い者は大声を上げ掛かって来る。
 相手を怯まさせるためだろうが、その時点で襲ってくる方向を特定できる。後ろで大声が上がれば後ろに私がいますと宣言しているようなものだ。素手ゴロは必ず無言で相手と対峙する。大声をだせばそれだけ体力が奪われる。
 たった三分ほどでも死闘を行った者だけが知る。恐ろしいほどの酸素不足に陥り、肩で息をつくどころか、呼吸困難にさえなる。
 負ければ死が待つ可能性がある。
 喧嘩とういものは常にそういうものだ。
 十歳に満たない少年は自らの経験を通じ、そして体得した。
 相手の身体を捕まえて取っ組み合うのはこちらもダメージを受ける可能性がある。ましてたっぱや腕力に違いがありすぎる。
 蝶のように跳ね回り、そして相手の急所に的確に突きや蹴りを入れる。一撃必倒、素手ゴロの極意を身に着けたとき、隆二に歯向かう者は居なくなった。暴力が支配する世界。上は十四歳から下は八歳が押し込まれれた少年鑑別所、そこでわずか十歳二ヶ月の少年が数百人の頂点に辿り着いた。
 やりたい放題・・世界は隆二のためにあるとさえ思えた。

「隆二、君はここを来月出所する」
 会話を記録する刑務官が隆二の後ろで筆記をするためにペンを走らせていた。
 ガラス越しの向こうに、眼鏡顔の草臥れた中年の社会福祉士が座っている。隆二は出所する必要が無かった。ここは俺の王国。またあの暮らしが待っている。
「そうか」とだけ隆二は答えた。
 前とは違う、隆二は考えた。少年院に入る前は大人に歯向かうなど考えられなかった。
 今は違う、自分がとてつもなく大きく感じる。この素手ゴロで俺は世間というやつを渡ってやろうと決めた。
 膝の上に揃えられた両拳を隆二は振り上げたい衝動をぐっと押さえつけた。
『この俺を生んだ世界を滅茶苦茶にしてやる・・』

 春の陽射しが眩しい朝に隆二は社会福祉士の出迎えで退院した。
 バスと電車に揺られ川崎駅に降り立った。
 華やかな景色に思えた。毎晩、グレーと暗褐色の院の壁に向かい正拳を突いた。半年で厚さ二十センチのコンクリートの壁に穴が開いた。刑務官は見て見ぬ振りをした。
 幸せ顔の若いやつ、背を丸め早足で歩く中年の男、厚く塗りたくった化粧の顔を歪め大笑いをしている中年の女達、華美な服装の若い女、こいつ等、全部をこの場で殴り倒したい衝動が襲った。馬乗りになり衆人監視の中で拳が潰れるぐらい殴ったら、笑うことや呆けた顔など二度とできなる。

「ここだ、隆二が働く工場だ」
 嗅いだ事の無い匂いが充満していた。
 恰幅のよい禿げあがった頭にわずかに残った幾本かの髪を撫で付けた作業服の男が現れた。
 自ら自分はここの工場長でお前の面倒を今日から見るからと隆二を睨み付けた。
 それが灯油ということをその工場長から教えられた。クリーニングという言葉さえ知らなかった。人様の衣類を洗濯してアイロンを掛ける商売がある事も初めて知った。まして石油で衣類を洗うことに驚いた。
「親方の言う事をしっかり聞いて働くんだ」
 と社会福祉士の何某がそういい捨てると隆二を一人その工場に置いていった。
 隆二は工場長と名乗った男に連れられ裏手にある木造二階建の瓦屋根のアパートの一室に案内された。
「お前は今日からここで寝泊りする。明日の朝五時に工場に来い、今日はどこかで飯を食って来い」と男は懐から札入れを取り出すと聖徳太子の札を二枚隆二に押し付けた。
「当座の生活費だ、大切に使うんだ」
 金など持ったのは初めてだった。
 後でその金の出どころが実は隆二が鑑別所の作業の報酬として本来受け取るものだったと知った。
 つまり金のほとんどはその工場長にせしめられた。
 四畳半一間、そこが隆二の出発点であった。一人手に握り締められた聖徳太子に頬伝う涙が零《こぼ》れた。誰にも涙など見せた事などない・・自分の部屋、生まれてこの方、自分のやさなど持った事はなかった。咽び泣いた。気がついたら夕暮れになり、窓ガラスを通してしゃ婆の街灯が部屋に差していた。
『ああ、俺は何者だ・・』
 少年院へ入る前と後で隆二は明らかに世界感に変化があった。
 何かに怯え、道の端を人目を避け歩いた。
 だがどうしたことだろう、部屋から出た隆二は道の真ん中を堂々と歩き、道を譲らない、地元の高校生が隆二の前に立ちはだかった。
 彼らに災いした事が二つあった。夕闇の中で、隆二は小学生ぐらいにしか見えなかった。実際年齢は小学校四年生でしかない。そして、彼らは十人という大人数で柔道部の練習帰りだった。
 一人が足払いで目の前の少年を投げようとした。明らかに驕《おご》った気持ちがあった。少年が彼の身長より高く飛翔した。肩透かしを食らった高校生は目の前の少年を見失った。だが次の瞬間、顔面に強烈な蹴りが決まった。隆二は高校生の顔を滅茶苦茶に殴り始めた。異常な光景だった。今にも崩れ落ちそうな高校生を下段の突きで上へ跳ね上げる。微妙なバランスでどうにか高校生は立っていた。他の柔道部の部員が止めに入ろうとした。目の前の少年が軽く脚を胸に引き寄せた瞬間、脚がすばやく繰り出された。ほぼ同時に四人の高校生の鳩尾《みぞおち》に突きが決まった。一瞬で四名が気を失い歩道に倒れた。いつのまにか人だかりができた。
 隆二は確信した。
『俺は強い』
 止まったような動きで残った高校生が殺到した。問題では無かった。
 命のやり取りをした者と中途半パンな武道をかじった者、その違いは明らかに天と地の差があった。誰か十歳の少年が人間凶器という事を知ろう、彼の拳をよく見ろとは誰も言わない。まだあどけなさが残る頬と裏腹な拳を見たものは驚愕する。身体を鍛える場合、拳を鍛えるほど難しいものはない、硬い石を叩けば、皮膚が撚れ、すぐに骨がむき出しになる。何度皮が剥けたら隆二のような硬質化した拳になるのか、達人のみが知る領域に十歳の少年が達していた。
 クリーニングの工場で勤まるはずが無かった。二日目に隆二は工場を滅茶苦茶にした。あのわずかの髪を撫で付けた工場長の顔を殴り続けた。
 彼は許しを請った。
「金は返す・・」
 そんなものなど問題ではない。
『俺は世界を征服する・・』とさえ思えた。
 夜の川崎の街に出向く。
 喧嘩をする相手など枚挙に暇が無い。
 次々に大人達を半殺しにした。
 警官が駆けつける前にやさに戻る。
 クリーニング工場からは何も言っては来ない。なぜならそこに恐怖が住んでいる。
やられた大人達は口を揃えて子供にやられたとは言わない、中には地回りもいた、彼らの沽券にかかわる。
 さすがに一週間目に隆二の前に金バッジが現れた。
「あんちゃん、名前は・・」と磨き上げられた黒革をこれ見よがしにした老人だった。
 背後に二人の長身の背広姿のボディガードが付いていた。
 隆二にルールなど無い。生まれた時からだ。
 老人はあっと言った。
 隆二が老人の目を指で突いた。
 血飛沫が飛んだ。
 慌てたボディガードが隆二を捕まえようとした。空中に高く飛翔した。両足で二人の背広の男の鼻をこれでもかという力で潰した。
 毎日が流血の日々。
 誰も俺を止められる奴はいない。
  何度か弾丸が頬をかすめた。
 その度に弾いた相手の歯という歯が折れるほど殴りつけた。
「さあ、殺してみやがれ」
 露明けに、川崎駅前のロータリーで地回りのチンピラに囲まれた。
 隆二も何かにウンザリしていた。
 やってもやっても限《きり》が無い。

「おいお前たち、俺をやるには人数がたりねぇ・・」
 いつもと違う事が起きた。
 そこに勝がいた。
 人呼んで『やさぐれ勝《まさ》』
 もちろん隆二の与り知らぬ事であった。
 不思議だった。
 自分の動きが手に取るように分かるのか、その男は隆二の蹴り、正拳、いづれもまったく簡単に受けられた。
 隆二は何かとてつもなく巨大な怪物と戦っているような錯覚に陥《おちい》った。
 肩透かしを食らった隆二はアスファルトに自ら転げまわった。

 世の中に『極道』という生き方がある事など知らなかった。
 所詮《しょせん》、この世は仮のやさ《宿》。
 どんな生き方があろうと自らを曲げない、そんな生き方があるはずはないと諦《あきら》めていた。
 行くあての無い隆二は勝に従い、銀蔵の元にやってきた。
 銀蔵はこう言った。
「俺達ゃ血の繋《つな》がりなんか一切無い、しかしそれ以上の物で結ばれている・・」
 隆二には全く見当が付かなかった。
「なんだ」
「心てやつだ」
 と白髪を短く刈り込んだ目つきの妙にきつい男が自らの胸を人差し指で指した。
「心・・」
「人は心が離れれば、必ず去っていく、だが心と心が繋がっていればこんな強い絆はない」
「お前が父親無子《ててなしご》で親や兄弟というものを知らないというが、血を分けた親子、兄弟で諍《いさか》いが絶えないのは、悲しいかなこの心の結びつきが切れた結果にしか過ぎない」
 夏が近づこうとしていた。
 宿舎の庭に一本の老梅がある。
 いつ倒れてもおかしくない老梅が一輪だけ花を咲かせていた。
「あの梅をよく覚えておくんだ」
「人の一生がどうなるなんか誰にもわからない、いつまで待っても花を咲かせる事無く終わるかも知れない、それでも今日を精一杯生き抜く事で明日が遣って来る、その結果、きっとあの老梅のように季節違いでも花を咲かせられる」
「俺はお前に何もして遣れねぇ、でもほんのちょっと背中を押す事ができる」
「今日から、こいつぁ、勝てぇやつだが、お前の兄と思い、面倒をみてもらえ」
 その日から隆二は銀蔵の若衆になった。
 一般の家庭や学校とはかなり違いがある。
 理不尽があれば一切の容赦がない。
 一晩中麻縄で締め上げられ、軒下に吊るされる事もある。
 世間から後ろ指を指される社会だからこそ行儀作法というものに実は厳しい。
 便所を清掃するのにさえ心構えがある。
 便所を『ご不浄』とよく言ったものと隆二は関心した。戦後進駐軍が本土にやってきた時、農作物の肥料に下肥を使用しているのを知って驚いたという。不浄なるものは土に還り、そして自然の浄化作用で作物の栄養となり、再び人様の口に納まる。
「不浄なる物を収めるからこそ一点の汚れがあってもいけない」
 この一見矛盾した言葉を聞いた時、隆二は身体に稲妻が走った。
 隆二は銀蔵に拾われて自分がいかに『無知』であったかに気が付いた。
 いつのまにか勝をほんとうの兄のように慕った。いつも勝ならどうする、どうやる、と自分でも知らず知らず内に勝を手本にするようになった。
 なぜ勝があれほど腕力があるのか隆二がそれを知った時、涙が止まらなかった。
 
 早朝床にあった隆二は宿舎の庭で何かが風を切る音を聞いた。まだ夜が明け切らぬ庭の片隅で黒い棒のようなものを懸命に振り回している勝の姿を見出した。
 呆然と立ち尽くす隆二は時を忘れてその姿を眺めた。その動きに一糸乱れがない。田や畑に鍬《くわ》を入れる時、力加減を入れるタイミングが重要になる。隆二にもその動作が、鍬を入れる動きそのものであることがわかった。
黒光りする鋼鉄の柄だけの棒がまるで竹のようにしなやかに頭上から振り下ろされ地面すれすれでぴたっと止まる。それを片手だけの素振りで左右と交互に繰り返す単純なものだ。
 勝は汗ひとつ掻く事がない。
 勝は素振りを終えると納屋に鋼鉄の棒を仕舞い入れた。その様子をじっと伺っていた隆二は納屋へ駆け足で向かった。隆二は片手で棒を持とうとした。だが持ち上がるどころか納屋の中に引き込まれそうになった。
「八貫(30Kg)ある」
 勝が立っていた。
「お前が覗いていたのに気が付いていた」
「これで喧嘩に備え鍛えているのか」
「たしかに鍛錬をしている、だがちょっと意味が違う、兄弟を守るためだ」
「俺は田や畑を耕す事しか出来なかった。それが出来なくなったら俺達は立ち行かなくなる。その思いから俺はいつでも鍬を振り続けてきた。今は鍬を振る田畑は無くなった、だが俺はいつまでも振り続ける。お前も守る」
 勝は洗面所へ向かう道すがらこんな事を言った。
「生きるて事は一人だけで生き抜ける奴なんてまずいない・・銀シャリを食べられるのは銀シャリを作る百姓が命を掛けて田に鍬を入れ、稲を植え、夏の炎天下も丹精に育て、そして刈り取る。どの作業を端折っても俺達が銀シャリを食べられないどころか自らが飢える」
『ああ・・』いつしか隆二の頬を涙が伝っていた。
 喧嘩をして殴られようが泣いた事などない。
 東北の田舎から上京したと聞いた。
 兄弟姉妹八人の長男、勝の人生すべてがわかったような気がした。勝が望んで得た腕力ではない幼い兄弟姉妹を守るため、そして生きるため・・
 無知を自覚する隆二にさえわかった。
 声を出しておいおいと泣きたい気持ちだった。学校へ行く前に勝の兄弟が朝餉の手伝いをしていた。この家に無駄飯を食う奴は一人としていない。
「隆、そこの薬缶もっておいで」勝のすぐ下の克子だ。気性の激しい克子は隆二を平気で怒鳴りつける。姐さんのその子が忙しく立ち働いている。朝餉の味噌汁の香ばしい匂いとまな板を叩く包丁の音、それに連れられ労務者が食堂を埋め尽くす。
「お前か喧嘩チャンピオンは」と言いがかりを付けられた。
「まだ子供だぜ」
「お前達、隆に手だしたらあたいが承知しないぜ」克子だ。その一言で誰も文句は言わない。肥満気味の克子は食堂の主だった。彼女の機嫌を損ねると疲れて帰って来た労務者のどんぶりの盛りに直接影響が出る事を彼らは痛いほど知っていた。だから逆らわない。
 銀蔵一家に溶け込むのに時間は掛からなかった。賭場の下足番から合力になるまで隆二は渡世の修行を怠らなかった。
 人に土下座しても信念を曲げない。
 隆二は任侠道というものがすーと身体に染み込むように身に付いた。
 自覚した時、銀蔵に旅の願いをした。
「間違っても人を殺めちゃいけねぇ、そんな事はお前がよく知っているだろうが」
 と銀蔵は快く旅出させてくれた。
 三年間旅の空にあった。
 どういう因果か旅で知り合った男から川崎の西岡組を聞いた。勝の傍にいたいと考えたからかもしれない。

『勝兄ぃ・・お前さんの人生はそれでいいのかい・・』
 隆二は誰にも言ってはいけない勝の秘密を知っていた。どんなに鈍い隆二にさえわかった事だ。
 あの日、隆二は銀蔵の使いで真由美の入院先へ向かった。勝が朝から工事現場で事故騒ぎがあってその手伝いに出ていた。勝に変わって真由美の元へ荷物を届けるように命を受けた隆二は入院先の病院へ着いた。
 真由美という妾《めかけ》が銀蔵にできてから何度か隆二も会う機会があった。線の細い色白の女だ。
 看護婦から個室の番号を聞き部屋まで近づいた時、部屋から会話が聞こえた。
 小さい声だがはっきと女の声がした。
『まあ、ねえどうして私達・・最初から出会わなかったの・・』
 それは真由美の声だった。
 隆二にもその会話の意味する事がわかった。
『あやは私達の子供・・』
 動けなかった。
 親分の女と・・
 永遠の秘密にするつもりなのか・・隆二には勝の気持ちがわからなかった。綾子をまるで自分の子供のように育てながらも、銀蔵の子供として育て上げた。
 川崎の西岡組組事務所に隆二は戻った。
 事務所には各地からの電話がひっきりなしに入り電話番の組員が忙しく立ち回っていた。
「お帰りなさい、本家から兄貴に連絡が欲しいと」若衆の一人が告げた。
 隆二はたぶんあの件だろうと思った。
 事務所脇の応接の横にある据え置きテレビを入れた。
 どのチャンネルを回しても日本海を航行するカーフェリーがシージャックされたニュースを報道していた。
『シージャックか・・』と隆二は一瞬ブラウン管を眺めたが意識は他にあった。
『葬儀を滞りなくおこなう』と隆二は考えた。
 その後は盃事が待っている。
『俺が組長・・』
 自分でも何がおかしいのかわからずに笑みが零れた。
 シージャックされたフェリーに勝、そして綾子が乗船している事はまだ隆二は知らなかった。

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2008年4月13日 (日)

やさぐれ勝の恋 十六

      十六

「俺が組継がしてもらいます」
 今岡隆二は藤本巌の屋敷を訪れていた。
 関東一円はおろか全国に縄張りを持つ組の組長宅である。今岡は射殺された西岡組長から盃は貰っていた。藤本と西岡は兄弟盃を交わしている。つまり、隆二から藤本は親の兄弟であるから『おじ貴《おじき》』に当たる。
「俺が仇取ります」
 藤本は笑いが込み上げたが、ぐっと呑み込みこう話した。
「隆二、話はもう付いた」
「話が付いた」
「お前がわざわざ出向くまでも無い」
 一瞬藤本は范享の陰鬱な表情が頭を過《よ》ぎった。関西を〆る組へ電報を送ったばかりだ。
『事の始末、つけさせていただきました。
 昭和○△年十一月  吉日
 安川組組長代行 藤本 巌』
 藤本はつまらないと思った。
 象牙細工で龍をあしらったダンヒルの特注ライターを手の中で弄《もてあそ》んでいた。
 縄張りを治める者が遣られたら、代わりを立てなければならない、この世界の掟だ。
 早朝から現れた隆二を哀れにも思えた。
「西岡の跡継ぎは俺一人では決められない」
 と藤本は言ったが、ゴリ押しすればそれもできない訳ではない。この組内ですら一本ではない。藤本の親藩組長は少ない、大阪を含む西日本一帯は依然盃事だけの舎弟組長ばかりだ。五分の組長すらいる。いつ寝返ってもおかしくない。武闘派の組長は姿を消し、金融屋、不動産屋ばかりだ。つまり極道で看板を挙げる者はいない。闇の世界の者が表の家業をメインにするようになって久しい。
 だが・・人間の欲望がある限り、俺たちの世界は安泰だ。酒、女・・性風俗、人間の心が求めている。歓楽街は人間の心の隙間を埋める。この世界でしか生きられない男や女がいる。彼らの生きる糧を得る唯一の場所なのだ。当然トラブルが起きる。いざこざは警察には通報されない。闇の世界に仲裁を求める。
 こっそりと始末されどこか人里離れた冷たい地面の下に埋められる。やさぐればかりだ。一人、二人突然居なくなっても誰も不審には思われない。
 藤本も何人かそういう行方不明者を知っている。
  藤本はふと隆二の顔を眺めていて思い出した事があった。
「お前の兄貴分に勝という奴がいたと思うが」
 と藤本は言った。
 隆二は不思議な顔で下を向いていた顔を上げた。
「ああ、俺の兄貴だ」
「そうか」
 藤本は川崎を隆二に任せようと急に思い返した。将来あの勝はきっと台頭するだろう、藤本は予感めいたものを感じた。その時この男は利用できる。ただの直感でしかない。白いダブルのスーツを着たヤクザ、隆二の恰好にロートルな過去の遺物を眺めるようにじっと藤本は隆二を眺めていた。
「緊急で会を持つ、お前は西岡を一つに纒《まとめ》、代行として出席する。話《なし》を俺が付けよう」
 隆二は急に藤本の態度が軟化した事に不審に思ったが、それ以上の詮索《せんさく》は止《や》めた。どうせ何か腹に一物があるぐらいは分った。隆二は小学校しかでていない、中学校で中退した。学業などこれっぽちもないが社会でいやになるほど揉まれた。人間の感情の機微を捉える事は誰よりも長《た》けている。
「お願いしやす」
 滅多に頭を下げた事のない隆二が額を応接テーブルに着くまで下げた。
「その前にお前と盃を交わす必要がありそうだ」と藤本は目の前にいる隆二と勝を重ね合わせていた。

 橋本純《はしもとじゅん》は防衛庁書記官をしていた。まだ三十を少し出た青年である。
 仕事の内容は名ばかりで実際は陸で政府要人と防衛庁幹部連中の調整を行う仕事がメインであった。防衛庁と政府機関の打ち合わせは全て書記官を通して行われる。当然、政府要人と民間企業のトップが集う密会にも同席する。聞きたくもない話を聞かなければならない。国家予算の数パーセントを消費する軍事費の決済の全てを知る立場にもある。だから二十四時間いつでも、どこからでも庁に駆けつけられるように四谷近くの官舎を住まいと定めていた。
 真夜中、1DKの部屋にようやく戻ってシャワーを浴びていた。けたたましく電話の呼び鈴が鳴った。来年度の予算編成が固まりつつあった。次期防衛構想に国民が与り知らぬ『イージス艦』の調達へ向けた予算が計上されようとしていた。すでに米国の太平洋に配備されているイージスシステムという途轍もなく電子制御化された軍事の近未来を予想させる艦船・・複数の敵機を同時に遊撃できるその能力は半径五百キロメートルを優に超える。
「A号が発令された」
 A号召集の事である。これ以上の召集命令はない。理由の遺憾に関わらずシビリアンコントロールでは武官は文民の配下にあり指示に従う。身体に熱いシャワーの熱の余韻に浸る時間はない。大学の同級生、蓬祐子《よもぎゆうこ》に連絡を入れるべきか躊躇《ちゅうちょ》した。彼女は卒業後、民間企業に就職した。それ以来会う事は無かった。最近偶然電車で再会した。再び会う約束して別れた。その後何度か食事を共にした。明日から二人で二泊三日で信州へ温泉旅行へ行く予定だった。
 前もって話をしていた。緊急事態の場合、連絡を入れられない場合もあると・・
 橋本は防衛大学を卒業してこの世界に入った。女子の少ない職場である。結婚相手に事欠く、若い者は誰もが配属先で夜の世界に入り浸り、女子を物色する。橋本は興味が無かった。幾つか上司から縁談を勧《すす》められた。いずれも断ってきた。川崎にいる兄が嫁を貰うまで自分は貰わないと決めていた。
 しかしいつしか適齢を迎えつつあった、一人で生きるのにも限界はある。
 橋本純の兄は銀蔵一家、合力四人衆、人呼んで『やさぐれ勝』であった。中学に入学する時、橋本家の養子として迎い入れられた。
 都内で個人経営の内科医院を経営する夫婦であった。既に還暦を迎える二人に子供は授からなかった。義父は川崎の銀蔵の賭場に出入りしていた。そこで純を知った。勝の実弟と知りますます養子として欲しいと懇願したと聞く、儀母の芳江《よしえ》が義父と勝に会いに来た。後になって芳江は一目見て我息子と思ったと言う。
『純、こちらがお前の新しい、おとうさんとおかあさんだ』と勝が紹介した。
 夏の日差しが部屋をこれでもかというように眩しく輝かせていた。
 純は勝の八人兄弟の下から二番である。勝とは歳が十五も離れている。実の父母の顔は記憶が無い。川崎の銀蔵の家に遣ってきた時まだ二歳に満たなかった。銀蔵とその子が両親のようなものだ。
 幼い時から純は身体がひ弱だった。勝のような頑丈な身体に産まれ付かなかったらしい。苗字の『はが』のがの濁点を『は』に移動すれば、『ばか』だとよくからかわれた。その度に年上の者でも向っていった。だが、喧嘩は辛喫しだめであった。いつも青タンをどこかに作っていた。俺は喧嘩ではだめだ、勉強で人の上に立ってやると子供心にも思う事があったが、銀蔵の子分の隆二に付きまとい、『俺は兄のような合力になる』と嘯《うそぶ》いてきた。
 何だ簡単なものだと純は思った。いままでもいつも一緒に暮らすのが当たり前だと思ってきた。犬や猫の子を遣るのとは違う。血を分けた弟を他家に出すのだとその時は思った。まだ世の中の事など一切分らなかった。
 義父母は大学はどこでもいいと言った。
『お前の好きなようにするがいい』と言った。
 本心は医院を継ぐ為に医科大学へ行って欲しいと思っていると純は思った。
 それに答えるために勉強第一で学生時代を過ごした。
 私立の有名医科大学を受験した。
 一次試験はトップで合格した。
 面接があった。
『貴方は兄弟がいますか』と試験官に問われた。
『はい、上に兄が四人と姉が二人、下に弟が一人おります』と答えた。
『お兄さんが・・』と試験官は純の身上書に改めて視線を落とした。
『養子として橋本の家に入りました』とさらに純は付け加えた。
『なるほど、兄上はやはり医師ですか』身上書には両親とも医師と記入されている。
 だからそう思ったのだろう。
 純は悪びれるつもりは無かった。
『極道です』と何も隠す事はないと思ったからそう言った。
『極道・・』数人いた試験官達の顔が強張ったのを純は見逃さなかった。
 その後は当たり障りない質問があったが、明らかに緊張した声が続いた。
 結果など聞くつもりは無かった。
 数日して勝から電報があり、中にお前の事を根堀葉堀聞いていった者がある。何か厄介ごとあれば兄を頼れ・・うんぬんと打電されていた。
 面接を受け大学が純の身上調査に探偵を雇ったらしいとだけ分った。
 涙を止められなかった。
『極道』は犯罪者ですか?
兄弟に『極道』がいれば私も罪人《つみびと》ですか?
『どうしたの純』部屋の入口に義母の芳江が佇んでいた。正直に先日の面接の顛末を語った。
 夕餉の時に義父が義母から聞いたのだろう、
『お前と俺は勿論《もちろん》血は繋がっていない、お前の兄が極道かどうかといことは一切関係無いと思う、だが世間というものはそういう目では見てはくれない』義母がそっと涙を拭《ぬぐ》う仕草をした。
『お前を我息子に迎えた時から、そいう目で見る者がいるかもしれないと思った事がある。だが、それは俺自身が間違っていた、お前は躊躇無く、試験官の前で兄が極道であると語ったと芳江から聞いた、その時初めて分った事があった。お前の兄弟誰一人、勝さんを人に隠さず、それこそ正々堂々と話す。それはその人が何であるかということが問題ではなく、何を遣ってきたか、たったその一点こそが地位や名誉よりも大切と思い知らされた』
 夕餉は静かに芳江の心が篭った料理で進んだ。
『これからどうする』と義父は尋ねた。
 その顔は純に喜びと勇気を与える愛情そのもので溢れていた。
『俺等二人などどうにでもなる。たいした財産はないが、お前の好きに使うがよい』
『たった一つだけ、芳江の願いだけ叶えたい』
 純には分っていた。義母はこの手で孫を取り上げたいのだ。
 受験雑誌に掲載されていた防衛大学へ願書を提出した。
 面接でやはり兄弟の質問がされた。
 同じように答えた。
 髭を蓄えた老年の試験官だった。
『ほう任侠道の兄を持つと』
 不思議と試験に合格した。
 後にあの試験官が経済学担当の教官であること事を知った。学生街の居酒屋で席を同じにした。あの面接の事を尋ねた。
『国を守る者になるかもしれない人間を選ぶのであって、その人の姻戚に何か支障があろうかなかろうが問わないのが筋で、私は君を選んだつもりだが』と答えてくれた。
『君は言わなくてもよい事を正直に答えてくれた。国を守るものが嘘吐《うそつ》きであって欲しくない』
 色んな思いがあった。
 官給のコートを羽織《まとい》、まだ秋の冷たい雨がひたひたとする夜へ歩み出た。
 純はまだ勝が日本海でシージャックされたフェリーに乗船していることを知る由もなかった。

 青き海原を朝陽が真っ赤に染め上げていた。ゆっくりと波頭を立てレインボーまりもは北へ向かう進路を西へ変えようとしていた。
 爆音を立てた一機のヘリコプターがレインボーまりもの船尾に近づきつつあった。
 日本電源開発の五十嵐光男、本村警部補、そして銀蔵が後部貨物室の壁にシートベルトで結わえられるような恰好で座っていた。
「じいちゃん、あれだ」隣に同じように壁に背をしっかりと押さえつけられた五十嵐がどなった。
「ああ、あれか」
 眼下に鮮やかな白亜の巨船があった。
 マクドネル・ダグラス社製のAH-64が日本で正式に採用されるのは平成になってからだ。銀蔵一行は武装解除されたアッパチと呼ばれる人類が作り出した最高の戦闘ヘリコプターの中にあった。時速300キロメートルで6時間も飛び続ける事ができる。まさにモンスター級のヘリコプターは新幹線より速く飛び続ける事が可能だ。もし、完全武装した状態であれば、30mmバルカン砲から無限に機銃掃射がおこなわれ、ウイングの牽下パイロンに釣られたハイドラロケット弾、またヘルファイア空対地ミサイル、スタブウイング両端の空対空用ロケットランチャーが用意されている。空飛ぶ戦車と呼ばれることもある。なぜ電源開発にそのようなヘリコプターがあるのか、その答えは非常事態に備えて密かに購入準備された一機だった。五十嵐は、この機の選定に当たって政治家が動いたと聞いた記憶があった。ライセンス生産を前提にテスト販売があった。一機50億で契約したと聞く。ずっと千葉外房の山奥深く格納庫で待機してきた。
 電話で五十嵐は二十四時間待機しているパイロット宿舎へ連絡を入れた。
『緊急発進準備せよ、Aの貨物を追跡する。警視庁のヘリポートまで・・我々と合流せよ』
  Aとは放射能物質を意味する。
 原子力発電は一歩間違いを起こせば周辺地域数十キロものすべての生物を死滅させる。緊急避難、あるいはそれに伴う緊急事態のシュミレーションから電源開発は自ら地上最強のヘリコプターを用意してきた。
 本村は不思議な物を見るようように銀蔵を眺めた。
「銀さんあんたは何者だ」とふと口から出た。
 それもそうだ。
 警視庁で打ち合わせを終えた本村に銀蔵はこう言った。
「警部補さん、足を見つけました。一緒に行きますか」
 本村は意味が分らなかった。
 五十嵐を先頭に本村、銀蔵が警視庁の屋上へリポートまで階段を駆け上がった。
 上がった途端に爆音と暴風がヘリポート上空を覆った。警視庁の持つ柔なヘリコプターではない、どうみても米国の戦闘機ヘリコプターが三人を拾い上げた。二時間ちょっとの飛行で迷走するフェリーに追いついた。驚くのも無理は無い。
 朝焼けの中に確かに白き波頭を立てる白亜の巨船に追いついた。
「俺たちは銀蔵一家よ」
 と銀蔵が逸《はや》る気持ちをぐっと呑み込んで言った。
 五十嵐も心の中でこう言った。
『銀蔵一家推参《ぎんぞういっかすいさん》』

 東京駅、朝靄《あさもや》の中、長野新幹線のホーム、ガラスで覆われた休憩所に蓬祐子《よもぎゆうこ》は座り込んでいた。橋本純はついに現れなかった。『緊急招集の場合、家族にすらその所在を教えられない・・』
 頭では理解していた。祐子は防衛大学で情報分析、いわゆるインテリジェンスを学んだ。あらゆる情報網から得られた情報を分析しそして戦略を立てる。
 恋愛について祐子は奥手だ。
 習性が男の仕草、態度を情報として認識して分析を立てる。つまり男の一挙手一投足をインテリジェンスしてしまう。これでは結婚などできるわけがない。
 民間の調査機関で流通業の商品情報分析システムに携わって八年の歳月が流れた。
 いいよる男はたくさんいた。
 容姿には少し自身がある。
 双子の姉が銀幕を飾る女優業をやるほどだ。
 祐子は髪を短髪に刈り上げ、度の入らぬセル眼鏡で容貌を隠してきた。化粧もせず通勤電車で揺られ通勤し続けてきた。それでも時時、『女優の○○○子さんですよね』と尋ねられる。その度にウンザリと怒り顔で睨み返してきた。

 その日の偶然さを彼女は一つも疑わなかった。
『祐子だよね』終電車の椅子に座り祐子は下を向いたままじっと何を考える訳でもなく、何かに少しいらいらしていた。
 吊革に『僕のうさぎちゃん』と学生時代、祐子を呼んだ橋本純が見下ろしていた。
 学生時代、同じサークルに所属していた。
 古いアイテムを探し求めて活動するサークルだった。色々な町を訪ね、その町にしかない珍しい物を探し、所有者からインタビューや写真を取り手作りの雑誌を出す。幾度とも無く取材旅行の旅の空の下に共にあった。
 不思議な親近感があった。
 親や姉とは違う。
『純ちゃん』と祐子はつい口を滑った。
『純ちゃんはないぜ』と白い歯を見せて橋本純は笑顔を見せた。
 誘われるまま電車を降り、居酒屋で学生時代の思い出話で盛り上がった。
 その後、流しのタクシーを拾い、モーテルの一室に二人は納まった。
『また会おう』と帰り際に橋本は電話番号が書かれたメモを渡してくれた。
 まるで夢のような一夜だった。
 男とこんな風に接する自分を分析できなかった。居酒屋まではまるで同じようなインテリジェンスをしていたような気がする。

 蓬祐子は橋本純が東京駅に来れない理由を求めた。
『非常事態・・』だが、日本がそのような状態になるはずがないという考えが支配的でそれ以上の答を見出せなかった。祐子に与えられた情報が少なすぎると思った。
 今日から三日間休みを取った。
 いまさら自宅に帰る気もない。両親宅に居候《いそうろう》する身としては、友人と信州へ旅行に行くと言って戻るほうがよっぽど気が重い。
『祐子さんはいつ嫁にいくのやら』と母が口から出る言葉をつい思い出した。
 なぜかその時、蓬祐子は防衛庁へ行こうと思った。それが後で大変重要な判断になるのだが・・

 橋本純は警視庁から派遣された担当の係官と面談して事の内容を知った。
 日本電源開発が北海道電力用に調達した原子燃料が北朝鮮のスパイと疑われる者の手に落ちた。それも日本海を航行するフェリーごと、すでに日本政府は米政府関係筋に応援要請を出した。政治家にとって、防衛庁など蚊帳の外らしい。
 防衛庁の地下深くに設置された情報戦略室に橋本純が到着してすぐに彼当てに内線電話が鳴った。
「橋本一佐、ゲートに親類の方が到着しております」
 橋本は誰だろうと思った。
 薄暗い戦略室の壁一面のモニターに日本全体がすっぽり納まる地図が映し出され、その周りを蜘蛛の子のように船舶が航行する様子がモニターされていた。
「橋本一佐、七のイージス艦が派遣された」
 戦略室の江戸大佐《えどたいさ》が叫んだ。
『どういう事だ』橋本は鼻の中がきゅーんときな臭いがした気がする。『七とは米海軍の第七艦隊・・』
「我々は最悪の事態を想定し戦略を立てる」
 江戸の怒鳴り声が戦略室を覆った。
 階段室を駆け上がり防衛庁の受付まで橋本は辿り着いた。
 応接室に橋本と同期の木村一佐と女性がテーブルを挟んで談笑していた。
「祐子」と橋本は叫んだ。
「お前たちいつから付き合っているんだ」
 と制服組の木村が笑い転げたが、橋本はとてもそんな気になる事は出来なかった。
『今、日本海に米国の戦艦がフェリーを奪還するために急行した。最悪、フェリーは海の藻屑になる。米国とはそういう国だ。自由を守るとは一切の権力と戦う・・日本人には分らない』
 蓬祐子がとても素敵な女性に見えた。
『彼女を守るために・・』
 橋本純はそう思った。
 庁内で働いた事のない祐子にとって制服姿の橋本は卒業式以来だった。
 応接室に差し込む強烈な朝陽の中でさらに凛々しさが増した純が立っていた。
『私の大切な人なのね』
 と祐子は思った。

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2008年3月 2日 (日)

やさぐれ勝の恋 十五

      十五

 真っ暗な廊下の先にぼんやりとした明りが灯《とも》っている。いくら歩き続けても、手を伸ばしても廊下の先には辿り着けない。
『あや、あや』と懐かしい声が後ろから聞こえた。誰だろう・・女性の声だわ・・
 目の前に白い天井が迫っていた。
 とっさに自分がどこにいるのか思い出せない。
 綾子は船室の二段ベットの上で紺色のスーツのまま仮眠していた。
 夢で聞いた声を思い出そうと目覚めてからもしばらく微睡《まどろ》んでいた。
 ふと反対側のベットに視線の焦点が合って初めて船室の異変に気が付いた。
 慌てて下の段にいるはずの勝を探した。
 あ、誰かが通路を歩いて近づく音が聞こえる。それは一人以上だ。部屋の前で止まった。 船室のドアが行き成り開いた。
「@@@《誰もいない》」男の声だった。
 綾子はすぐに男の言葉が朝鮮語であることを認識できた。だが意味は解らない。
 この時、綾子は不思議な力に導かれた。
 ドアが開く前にベッドから飛び降りるとベッドの下に潜り込んだ。
 二人分のブーツが確認できた。
 しかし、ベッドの僅《わず》かの隙間《すきま》から二人が完全武装した男達である事は気が付かなかった。
 AK47を腰に構えたソルジャーは部屋を一度だけ見回し、胸にぶら下げたハンドレシーバーから状況を報告した。
「@@@《部屋には誰もいない》」
 レシーバーのスピーカーから無線の相手側の声が流れた。
「@@@《いないはずはない、紺のスーツの若い女がいる、すぐに確保せよ》」
「@@@《了解》」
 ブーツが部屋から入口へ向うのを綾子は見ると、ベッドの隙間から少しだけ顔を覗《のぞ》かせた。
 戦闘服にヘルメット、腰のベルトには何本もの手榴弾が括《くく》りつけられていた。
『あの声は泉署長・・』
 綾子は何かとんでもない事が進行している予感があった。
『勝と三治は・・』綾子はベッドの下から這いずり出ると、船室のドアに耳を押し当てた。
 船のエンジンからの振動だけが伝わってくる。
 選択は二つしかない、このままじっと部屋に隠れているか、もう一方は勝を探す事。
『勝がいれば・・』という思いが勝った。
 部屋のドアをそっと開けた。
 照度を落とした明りが真っ直ぐな通路を照らしていた。人影は無い。
『しかし、身を隠す場所がどこにもない』
 先ほどのソルジャーに見つかれば、命の危険がある。
「勝・・」と口から綾子は自分でも気が付かないうちに叫んでいた。

 Cデッキの勝と范享は倒したソルジャーを仮眠室の大広間に運び、毛布で覆《おお》った。
 范享はソルジャーの腰から拳銃を取り上げた。見た記憶がある。享は拳銃には興味がない、それは拳銃が弾丸を発射するために爆音を発するからだ。暗殺者に銃は不要だ。享の記憶に盲目の暗殺者が一人いる。奴は微かな音を捉《とら》え相手の位置を特定する。工事現場の騒音の中で相手の息遣いを聞き分ける。だから銃から爆音を発せば、発射した弾が的確に命中しない限り、己《おのれ》の完全な死が待つだけだ。
 68式拳銃・・握ってみて享は確信した。
『俺はこの銃を明けても暮れてもぶっ放し続けた』
「それは北朝鮮の軍用銃だ」勝は商売柄、賭博の借金の肩に拳銃を持ち込む者がいる。銀蔵は拳銃が大嫌いだったから、よく勝に預かっておけなど言いい、自分では決して触れないようにしていた。拳銃など預かったところで、再び金を積んで取り返すような輩《やから》はまずいない。
「北朝鮮」と享は繰り返した。
「ああ、形はソ連のトカレフのコピーだ。だが、どちらかといえばブローニングの系統だ」
「お前は軍人か」
 勝の拳銃の薀蓄《うんちく》をして享にそう思わせたのかもしれない。
 闇の世界に足を踏み入れた者はその世界で使われる道具を覚えない限り、自らの命を守るのは少し難しいかもしれない。それはお天道様が煌々と照らす表の世界でも学歴や職歴という人間の本来持ってない能力を磨く事で獲得できるすばらしい世界と同じ理由に発している。
「いや違う、極道だ」
「極道、ヤクザ」
「ああそうだ、なんの役にも立たないヤクザだ」
 勝はかって人に面と向って、自ら『ヤクザ』と名乗った事はない。
 勝は眼前の長髪、紅顔の美青年の向こうに荒波で揺れる海の潮の香を感じ取った。
「俺はいい、お前がこれを持っていれ」
 享は人の事を気にしない。
 生きようが死のうが興味が無い。
 だが目の前にいるジャージ姿の男に興味を持った。ずっと昔から知っていたとさえ思えた。どっしりとした気が流れている。
 享の脳裏に『王の気』という言葉が浮かぶ。
 その意味する事は思い出せなかったが、大変重要な事柄に思えた。
 勝は享から銃を受け取るとさらにソルジャーの胸から銃弾の詰まったカートリッジを取り出した。
「武装した男達、AK-47マシンガン、考えられる事は一つ、この船はテロリストの襲撃を受けた」
 勝は綾子の安否が気がかりだった。
「俺は船室へ戻る」と勝はデッキの出入り口へ向った。
「俺も付いて行く」と享は勝に従った。

 甲板にいた三治は武装した集団が操舵室を襲うのを目撃した。銃撃戦が起こる予感があったが、物音一つ起きなかった。
 三治の怖い物見たさが恐怖心に勝のは訳がなかった。
『よし、何が起きているかこの眼で見てやる』
 と勇気を振り絞ると一気に階段を駆け上がった。
 操舵室はマシンガンを構えたヘルメット姿の東洋人八名によって占拠されていた。
 三治は身体を蓮《はす》に構えそっとガラス越しに様子を伺った。見つかれば一巻の終わりに違いない。
『無線で連絡を取れ』
 白髭を立てた船員、三治の知識では、その船員は『宇宙戦艦ヤマトの沖田艦長』その者に思えたのだが、真鍋船長にAK-47を向けていたのは、李克己《いこっき》分隊長だった。隻眼《せきがん》の李隊長は黒革のアイパッチを斜めに掛けていた。頬が扱け顔色がどす黒く、病人のようにも思えた。
『どこに連絡を取るのだ』
 椅子にどっしりとした風貌で腰を下ろす『沖田艦長』は瞬《まばた》き一つせず、マシンガンを構えるソルジャーを睨み据え《にらみすえて》ていた。
『日本国政府へだ』
『なにゆえ』
『我々はこの船を占拠した、それだけで充分、政府は理解できる』
『私にはちっともお前たちのやる事が理解できないが』
 三治はなんと肝の据わった船員だと舌を巻いていた。
『お前はこの船に何を積んでいるかを知らない』
 もちろん三治などカーフェリーぐらいにしか思っていなかったから、すぐ『車』と連想したのだが、さすがに『沖田艦長』は違った。『国家の明暗を分ける積荷を奪取したという意味か』
『そのとうりだ』
 三治にはその意味することを理解するのは難しかった。
『なにを要求する』
 白髭の船員は残り二人の片方のマイクとヘッドホーンがセットになったものを装着した船員からマイクに似た装置を受け取った。
 日本の緊急無線は電波法第52条に規定されている。世界的にはIMO(国際海事機関)の定める海賊行為等に対応する船舶の規定が定まられている。けだし、日本海においては海賊行為による海難事件は稀有に等しい。MSCには海賊及び船舶に対する武装強盗に対応するように次のように定められている。これは日本においても同じような規定として存在する。
『襲撃が発生し、船舶又は乗組員が直ちに援助を要請すべき重大かつ切迫した危険のある状況にあると船長が判断した場合、船長は、直ちに、使用可能な全ての無線通信手段を使用して、適当な遭難警報に引き続き遭難通信を行わせる』とある。-海賊インフォーメーション
 真鍋船長は一息入れてから、
『メーデー、メーデー、こちらレインボーまりも、粟島の北西2マイルを北へ航行中、北緯38度48分58、東経139度102分70を航行中、武装した集団に船を占拠、乗組員並びに旅客の人命が危機状態、関係機関の迅速的な対応を要請、メーデー、メーデー、こちらレインボーまりも・・』
 三治は身体を低くして操舵室を離れようとした。
 丁度その時、船内からマシンガンの銃声が轟いた。思わず首をすぼめたまま三治は尻餅を付いてしまった。
 操舵室から無線の音が漏れてきた。
『@@@《Cデッキの部隊が全滅、応援を・・》』と三治はその内容を理解できた。
 朝鮮語だ。
 三治はいわゆる三国人を両親に持つ、だから朝鮮語を完璧に話せる。
 アイパッチの男の声がそれに答えた。
『@@@《Bデッキ、直ちに応援に向かへ》』
 と三治は聞き取れた。
 相手の反応が無い。
『@@@《Bデッキ応答せよ》』
『@@@《お前とそこの二人、Bデッキへ向かへ》』
 三治の横のハッチが行き成り開き、三名のソルジャーが恐ろしい勢いで飛び出して行った。
 三治はすぐに階下で何が起こっているのか理解できた。
「勝、兄貴・・」

 勝と范享はCデッキの階段室で金龍《キムロン》と三名のソルジャーと遭遇した。
 金は日本語が達者だ。
「お前たち、大人しく両手を挙げろ」
 もちろん金は一人が極道者で、もう一人の少年のような男が暗殺者《アサシン》を生業《なりわい》にしている者とは知る由もない。
「そこをどいてもらいたい」と勝は金を睨み返した。
「お前はこれが見えないのか」金はこれ見よがしにAK-47を振り回した。
 と次の瞬間、その回転が不思議にも止まった。金と勝の間合いは優に3メートルはあった。剣の達人が踏み込んだとしても、二歩以上は必要なはずだ。
 しかし、次の瞬間AK-47は空中高く弾かれ、無常にも無意味な方向へその銃弾を発射する羽目になった。
 もちろん金は理解できなかった。身体が妙に骨太気味の男が目の前にいる。自分の前にもう一人いたはずの少年の姿が忽然と消えていた。金の後ろから呻き声《うめきごえ》が揚がった。振り向く事はできない、流石に幾度となく死地を掻い潜ってきた金はすぐにアミーナイフを取り出した。まずこの骨太を遣ると思った。がそれはいままで対峙した敵が弱すぎただけと言う事に納得ができなかっただけである。
 ナイフを持つ手がとてつもなく恐ろしい力で捻り挙げられた。それを防ぐためにブーツの先で骨太男を蹴り上げようと思った。蹴り上げようとした足にも恐ろしい力が加わった。
 身体が急にふわりと空中に持ち上げられた。
 ありえない、二メートル近い体躯《たいく》、体重百三十キロもある金をいまだかってこうも軽々と持ち上げた者はいない。
 階段室の天井の高さは優に三メールはある。
 金は天井が迫るがまま何もできないまま、鋼鉄製の天井に叩きつけられた。そのまま気を失った。
 勝の前に享が三人のソルジャーを倒していた。頚部切断。夥しい《おびただしい》血液が床を染め上げていた。『この少年は恐ろしい』と勝は改めて少年をじっと見据えた。
「お前はすごい」と享はあまり見せた事ない笑みを浮かべた。
 三治が聞いたのは金のAK-47から発射された弾丸である。そして生き絶え絶えの金がハンドレシーバーからの無線を聞いた訳である。

 綾子が杖術《じょうじつ》と出会ったのは、勝から母の出所を聞いてからだ。武道といえば、柔道、空手、剣道と連想しがちだ。綾子も知らなかった。
 あまりにも悲しい母の運命を飲み込むためには幼すぎた。何がなんだかわからない、どう生きるとか生きようかなどすら考えられなかった。じっと部屋に一人でいると涙が自然に流れてくる。
 そして杖術に出会った。
 何もかも忘れる事ができた。
 仗術の歴史を紐解けば、明治初年まで闇の中に閉ざされてきた武術、その祖を夢想権之助という。この者、鹿島神流の流祖、松本備前守について鹿島神流の奥義を究め「一の太刀」の極意を授かった。その後、旅を続け各地の剣豪と戦う事幾多、一度も負ける事無く、播州明石にてその当時無敵の二天一流宮本武蔵と合い対峙す。武蔵二天一流の極意である十字留に敗れ、命からがら太宰府天満宮神域に連なる、霊峰宝満山に篭り打倒武蔵を祈願する修練を始める。ある夜夢の中に童子が現れ、御神託を授ける。
「丸木をもって水月を知れ」
 権之助は四尺二寸一分、太さ八分の樫木の太刀を武器としてあらゆる武術を統合する技を会得する。そして終に、宮本武蔵と再び合い対峙し、その二天一流の弱点を逆に武蔵に伝授する。その後、武蔵と権之助は生涯の親交を交わし、武蔵は剣を捨てたと言われる。権之助は黒田藩の師範として召抱えられ生涯を終えた。黒田藩は仗術を藩外不出と定めたため、廃藩置県までこの武術が日の目を得なかったのである。
 第十三代統領、平野吉三能栄はこう詠んだ。
「疵つけず 人をこらして 戒しむる おしえは杖の外にやはある」
 綾子はこれを知った時、心が定まった。
「人をこらして 戒しむる」
『母の思いを私が代わろう、それが私の命を授かったたった一つの理由・・』

 高校生の間、綾子は仗術の道場へ通い続けた。数人の師範代がいたが、誰もが綾子の素質に驚嘆した。
「動きにまったく無駄が無い」と一人の師範代がその素質を直ぐに見抜いた。
 綾子高校二年の夏、福岡から当時の統領が川崎までやって来た。
 作務衣を着た足袋姿の老人は綾子と対峙した。やせ細った身体から想像もできない早い突きを繰り出してきた。綾子は簡単に受ける事ができた。すでに師範代達から学ぶ事が無くなっていた。
「どうして攻めん」としわがれ声で統領が攻撃を止めた。
「突きました」
 統領の作務衣が所々穴が開いていた。
 誰もが驚いた。
 かってこの統領を破った者はいない。
 天才と呼ばれ、四十年近くも仗術界に君臨してきた。
 統領の眼から涙が溢れた
 夏休に綾子は統領と共に北アルプスの山に篭った。
「お主に教える事は既に何も無い」と統領は山伏のような日々を終えるに当たり次のように語った。
「お主の技を恨み事に使うならば、永久に破門しよう」
「ただし我一門の正統な継承者はお前以外にない、今晩、満月、あの丘の上で俺は篝火を焚いて、お前に奥義を伝授する」
 綾子は一糸身に纏わない全裸で丘に向った。
 もちろん仗術の太刀さえ身に着けなかった。
 統領は煌々と篝火の中に、同じように一糸身に纏わない姿で待ち受けていた。
「生きるとは」統領は大声で叫んだ。
 綾子には解っていた。
 答えなど無い。
 人は生まれ死ね。
 そしていつもちょっとした事で悩み、迷う。
 羞恥心など動物にはない。
 そもそも人間も動物に代わりはない。
『生きるとは迷える心を定める事』と叫びたかった。仗術と出会う前の自分がそうであったように。
「我心に従う事」と綾子は叫んだ。
「眼を瞑《つぶ》れ」
 綾子は眼をしっかりと閉じた。
「何が見える」
 暗黒を感じた。
 夜の帳《とばり》、満点の星々、篝火。
 確かあったはずだ。だが、眼から光が失われた時、その姿を全て失い果てた。
「何も見えません」
 突然突風が身体を通り抜けていった。
「これではどうだ」
『あ』と綾子は横を統領がすり抜けた感覚があった。
「今、お主は死んだも同然だった」
「いい直そう、何を感じた」
 そうか、身体が感じる事・・
『勝が言っていた。目は口ほど物を言う、だがもっと不思議なのは人がどういう状態か身体から全て知る事ができる・・』
 急に篝火の向こうに息遣いを感じた。
 耳で聞く事ができない微かなものだ。
「篝火の前に統領が立っています」
 年老いた統領は愛弟子の能力に満足した笑みを浮かべた。
 まったく無音で統領は篝火の台に仕込んでいた鋭利な刃物を愛弟子目掛けて投げ放った。
  真っ暗な闇、空気を凛とした緊張した何かが綾子に向っていた。その先にいる統領の動きを感じた。額すれすれまで近づいた物体を綾子は首を横に僅かに避けることでかわした。
 綾子は空中に飛翔した。殺到した統領は空しく仗術の太刀を空振りした。
 見事と言う他に言葉が無かった。
 師匠を超える弟子が現れた時、師匠は引退する。それが武門の掟だ。

「いたぞ」
 Bデッキの階段室を降りかけた綾子は後ろを振り返った。なぜ気が付かなかったのか、不思議だった。あの『あや、あや』と夢で聞いた声を必死に思い出そうとしていた。自分が今窮地にいる事さえ忘れていた。マシンガンを背に背負ったソルジャーが近づいてきた。
 綾子はスカートのベルトの後ろに伸縮式の警棒を入れたホルダーを下げていた。最小が20cm、伸ばして50cmの長さの警棒である。ソルジャーは女ということで侮《あなど》った。AK-47で威嚇《いかく》すべきであった。ソルジャーの一人が手錠を取り出した。女は直《すなお》に両手を出したように見えた。だが、両手には短い黒いスチールの捧が握られていた。
 ジャキーンと金属の音が階段室に鳴り響いた。それは綾子の両手に握られた伸縮式の警棒を伸ばす音であった。
 手錠を持った男の頚部に目に止まらない速さで警棒が打ち下ろされた。階段を降りかけていた残り三名のソルジャーは女の動きを目で捉えるのがやっとだった。首に警棒を入れたソルジャーの背を蹴って、女が階段の下から飛び上がってきた。二人のソルジャーは眼に警棒を振り落とされた。眼球から内包した液体が飛び散った。残った一人は階段に腰を付いた。目の前に女が立っていた。
 ソルジャーは頚椎に途轍《とてつ》もなく重たい一撃を受けた。
 薄れ行く意識の中で確かに聞き取った。
「戦う事でしかわからない」

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2008年1月 5日 (土)

やさぐれ勝の恋 十四

      十四

『まあ、ねえどうして私達・・最初から出会わなかったの・・』
 秋が過ぎ、やがて冬が来る前の何か静かな空が病室の窓から見えていた。
 か細く痩せ細った指がグローブを思わせるごつい勝の手をこれでもかというふうにぎゅーと握り締めていた。
 勝は全身に酷い汗を掻《か》いていた。
 いつの間にか、うとうととしてしまったらしい。
 船室の窓からわずかに陽の光が入ろうとしている。朝が近づいていた。二段ベッドの上に綾子が静かな寝息を立てていた。
 勝は反対側の下段に寝ていた泉がベッドから抜け出している事に気がついた。
『しまった』と跳ね起きると三治を揺り起こした。
「兄貴どうした」
「奴が逃げた」
 綾子に気が付かれないために密やかな会話をする必要があった。
 泉から室蘭に到着するまで船室から出ないよう指示されていた。しかし、奴は寝静まるのを待って抜け抜けと船室を出て行った。
 勝は身支度を整え三治を伴って船室をそっと抜け出した。
「兄貴どうする」三治はあまり似合うとは思えない背広姿だった。
「お前は上を探せ、武器を持っているかもしれね、見つけたらそのまま張り付け、俺が着くまでじっとしているんだ」
 勝一行は甲板から二番目のBデッキの一室にいた。上にレストランのあるAデッキ、一つ下に二等室があるCデッキ、その下がトラックや乗用車などを格納する貨物室がある。
 勝は泉の気の流れを感じ取っていた。
 人は興奮すると独特な気を発する。
 勝はこれを感ずることができる、だが人にこの能力を話した事はない。
 勝の脳がこれを嗅ぎ分ける、『脳臭』と勝はかってに命名していた。
 階下からだ。
 得たいの知れない興奮状態が伝わってくる。
 深夜運航のフェリーの廊下に人影はない、主な運航目的が大型トレラーを運ぶ事だ。だから観光シーズを外れた時期はほとんど観光目的の旅客は少ない。長距離のトラッカーはそのままトレラーの運転席の裏に設けられたキャビンで休憩を取る事が一般的だ。荷の番と一匹狼の多い彼らはCデッキにある和室で雑魚寝は好まない。だからほとんどが貨物室で一夜を明かす。
 勝はCデッキの入口から通路沿いに和室が面した廊下を進んでいた。
 范享は十二畳ほどの和室のちょうど上がり口付近に用意されていた枕と毛布で横になっていた。完全に熟睡していた訳ではない、近づく者の足音を感じ取った。
 彼の野生が何か妙な気配を嗅ぎ分けた。
 それは勝も同じだった。
 和室はそれぞれ廊下に面して二つに切れた入口を持つ、その間に腰までの高さの物を入れる棚があり、その壁が廊下に面している。
 このため勝は物入れの壁で横になっている范享を直接視線で捉える事は出来なかった。
 しかし、お互いに『嗅いだ』のだ。
 勝、そして范享もまた身動きが出来なかった。
 
 泉は貨物室に降りていた。
 真黒に塗られたトレーラーの前に二人の黒革のジャンバー姿があった。
 一人は黒髪のサングラスの女、片方はレスラーの体躯をした男だ。女は見事に均整のとれた身体をしている。男はスキンヘッドヘッド、鼻の下に髭を蓄えている。二人の肩に掛けれれたものは共にAK-47機関銃であった。いわゆるカラシニコフ突撃銃だ。
 泉は二人の前に向うと軽く敬礼を行った。
 その二人も直立不動で敬礼を返した。
「多少手間取ったが、どうにか乗船できた」泉は妙なくすくすする笑いで二人に答えた。
「それでは作戦を決行する。操舵室を奪取するまで、火器の使用を禁じる。僕はここで待っているから・・」と泉はトレーラーの運手席に攀《よ》じ登るとその中に消えた。
 運転席のキャビンに用意された毛布の中に泉は潜り込むと愉快そうな笑みを浮かべ眠りに付いた。
『首領様万歳』と一言呟《つぶや》いた。
 黒革のスキンヘッドがトレラーの後ろに回った。トレーラーの後部扉のレバーを操作して扉を開いた。
 完全武装した屈強な数十名のソルジャーがトレーラーの箱を背に蹲《うずくまて》っていた。
「この船を制圧せよ」とスキンヘッドの後ろで腕を組むサングラスの女が命令した。
 軽快な動きでソルジャーがトレーラーから貨物室に散った。どのソルジャーも背に通常フル装備の重量と変わらぬ20キロ近い装備を背負っていたにも関わらず難なく駆けていた。彼らは本国から遣ってきた精鋭一個小隊であった。小隊は英国式で言われる事が多く、分隊長を二名配置するのが一般的である。この作戦に遣ってきた人数は40名、分隊長は2名であった。
「みごとな戦闘能力ね」とサングラスの女は次々とトレーラーの運転席の運転手を縛り上げている様子をスキンヘッドとうっとりと見ていた。
「朴《ぱく》、私達はお宝を確保しましょう」
 日本電力機構からの依頼で政府機関が用意したトレーラーが貨物室の片隅にあった。政府機関は特に警備体制を敷いていなかった。これがどのような経緯で計画されたのか、まったくの手落ちとしか言いようがなかった。
 日本の重大機密がいかに簡単に世界に知れ渡っているのか、政府首脳が常に心していればこんな事態はありえなかったかもしれない。
 トレーラーの箱に4名のガードマンがプルトニュームを入れた重金属でできたボックスと共に閉じ込められていた。運転のために雇われた男が一人。ガードマンは定期的に助手席側から出て小用を足しに出た。このトレーラーは運転キャビンとトレーラー部が結合され、行き来できる特殊な造りの車両だった。
 ガードマンの一人がまさに運転席を降りようとして助手席側のドアを開けた。
 丸い巨大な顔が下から現れた。
 ガードマンはドアを閉めようとした。
 下から昇ってきた男は辛うじてドアの隙間に手を入れた。ガードマンはそれ以上ドアが閉まらないので、再びドアを外側に開いた。
 次の瞬間、ガードマンはドアの引き手を掴《つか》んだまま外へ投げ出された。トレーラーのドアが引きちぎられぽっかりと口を開いた。
 運転手は呆然と助手席側のドアが投げ出されたのに気を取られた。
 運転席側のドアが急に開き何者かが堅い物で彼の頭をしこたま殴りつけた。運転手はその理由を理解する前に渾沌とした意識のまま運転席から貨物室の鋼鉄製の床へ滑り落ちた。
 トレーラーの箱に三人のガードマンが床に毛布を敷き仮眠していた。物音で運転席側を振り向いた一人が目の前に黒革ジャンバーの男がいる事に気が付いたが、次の瞬間には自分自身のどこかから妙な音がした。両腕がへし折られていた。声を出そうとしたが急に顔が自らが意識していない90度の方向へ向けられた。かつてそれまで首を回した事はない。意識が途切れた。巨体な体躯の男が運手席から舞い降り、両足で二人のガードマンの胴体を踏みつけた。何か鈍い音がトレーラーに響いた。
「朴、あまり汚さないで」と女の声を聞いたが二人はそのまま意識を失った。
「こちら麗華、お宝確保」
 麗華と名乗った女はハンディトランシーバから報告した。
 一団のトレーラーに納まった泉の枕元に置かれたレシーバーから次々と報告が流れていた。

「俺は人探しをしている」と勝はやっと声を出した。
 剣の達人が戦いの場に臨んで、相手の間合いに入らないように心がけるように、勝はその場から一歩も踏み出せないでいた。
 范享はその声を聞いて初めて、自分を狙った者ではない確信を得た。
「それでは人違いだ」と暗い響きの声音《こわね》だった。
 二人のすれ違いはその時点で完了したかに思えた。
 ソルジャーの第二分隊は貨物室、Cデッキ並びにBデッキ制圧が任務であった。分隊長の金龍《キムロン》は簡単な任務と考えていた。
 全員が階段を駆け上がり、起点になる場所に配置が完了するとそれぞれのデッキにいる人々を縛り上げる。乗員乗客全員を人質とする予定だった。日本は治安が世界一だ。武装している者は一人もいないと聞いていた。完全武装した小隊でこの船など短時間で制圧できる自身があった。
 Cデッキの階は五名のソルジャーが担当した。長い通路が平行に二本あった。その間に和室と海側に二等室がある。通路の両端に昇降用の階段室があり、そこにソルジャーを配置すれば誰もCデッキから出る事はできない。
 Cデッキを担当したソルジャーの一人が通路に立ち尽くしている男を確認した。背中を向けているので顔はわからなかった。
 勝は既に後部から殺気が殺到するのに気が付いていた。しかし、動けなかった。それより凄い者が壁の向こうにいる。動けば確実に攻撃される危惧《きぐ》を感じた。一瞬の気も許さない緊張があった。
 勝の視線に通路の反対側から完全武装したソルジャーの恰好をしたものが現れた。
「お前は後ろをやれ」と壁の向こうの者から聞こえた。
 緊張の糸は緩んだ。
 勝は振り返るとこれ以上ないという速さで駆け出した。
 ソルジャーは急に男が振り向いたのを確認すると背中にあったAK-47を構える動作を行ったが間に合わなかった。
 勝の気は目の間の敵より後ろに集中していた。自分が振り向くと同時に壁の向こうからとんでもない速さで天井へ飛び上がる気を感じた。人間のそれではない。勝はAK-47を片手で鷲掴みでもぎ取るとその銃底でソルジャーの顎を殴りつけた。
 背後から人間の呻《うめ》きがほぼ同時に聞こえた。
 勝はすぐに後ろを振り向き、未知なる攻撃に備えた。
 反対側の通路には喉仏にそれぞれ二尺ほどの短剣が刺さった武装したソルジャーが仰向けで朽ち果てていた。
 黒いジャンプスーツに身を包まれた青年が立っていた。
「お前は誰だ」長髪の精悍な顔立ちの若者だった。勝はその青年の目に湛えられた悲しみを感じた。青年もまた不思議な物を見るように勝を見つめていた。
 范享が『刺客』と一瞬思ったほど、目の前にいる男から今だ過って知らない気の流れを読み取った。その判断が正しかった事は、男の後ろに倒れているソルジャーが証明している。彼らとて過酷な訓練を経て屈強なソルジャーとなった事は一目瞭然である。そのソルジャーを目の前の男は素手で一瞬にして倒した。范享は読めなかった。大抵の人の気は読める。だからどう人が次に行動するか手に取るように判る。しかし、目の前の大男と言っていい体躯から激しくほとばしる気が何を意味するのかわからない。だから固まった。正直なところ動けなかった。
『人間離れしている・・』
 享の得意な剣技でこの男を仕留めたとしても、多分相打ちでこちらもどこかにダメージ・・いやあの時は勝てる気がしなかった。
「お前こそ何者だ」

 三治は甲板から深夜の海を眺めていた。
 星々が散りばめられた夜空、対岸に一本の光の線となった街明り、思えば生まれてこの方、船に乗ったのは初めてだ。船の舳先《へさき》まで歩んだ。もう少しで冬がやって来る。日本海の寒々とした空気が身体を切り刻む厳しい寒気となって襲ってくる。
 自分が甲板に遣ってきた理由を忘れていた。
 振り返ると視線の先に操舵室が夜空に向ってそそり立つ。煌々とした明りが漏れていた。操舵室の横から甲板へ降りる鉄の階段がある。
 背に何かを背負った十人あまりが駆け上っていくのを目撃した。
『あ、やつら機関銃をもってやがる』

 真鍋正興《まなべまさおき》船長は今年勇退が予定されていた。
『後何度この船に乗るのだろうか』と思った。
 特に船長が操船する事はない。
 今のフェリーは行き先さえ入力すれば、自動運航で目的地まで向う。レーダーや陸《おか》からの誘導無線で難所も安全に航行する。
 今の乗組員で海図を広げコンパスや計算尺など昔のローテクを駆使して航行できる者はいない。真鍋は海軍で鍛え上げられた。戦時中は空から飛来するグラマンを掻《か》い潜《くぐ》り食料と弾薬を運ぶ高速船を操舵していた。何度船柱に身体を括り付け嵐の荒海を航行した事だろう・・
『酷い時代だった』
 航海長の井上信二《いのうえしんじ》、無線技師の川村正幸《かわむらまさゆき》が夜の航海担当だった。
 真鍋自ら操舵するつもりはない、だが船乗りとして生きてきた忸怩《じくじ》たる思いがあり、矜持《きょうじ》もある。だからじっと船室に篭《こも》ってなどいられない。
 行き成り操舵室の外側入口のハッチが開いた。日本海の厳しい寒気が操舵室に怒涛《どとう》の勢いで流れ込んだ。次に機関銃を構えた男達が雪崩《なだ》れ込んで来た。
『またドンパチが始まるのか』と真鍋は思った。
 南方の血塗られし海の記憶が蘇《よみがえ》った。

作者註:
 平成2年3月に直江津~博多(箱崎埠頭)間、さらに直江津~室蘭港までを繋ぐ、全長196メートルの豪華フェリー『れいんぼうべる』が就航する。総屯数13,594屯。特等28室、1等室27室、2等寝台2室、2等7室(雑魚寝用)、ドライバー室2室の総定員350名が宿泊できた。その後、後続の船舶に変更され、平成19年1月より現在直江津港~室蘭港間の航路は経営上の問題で休航中となっている。甲板からAデッキがあり順にBデッキ、Cデッキと呼ばれていた。Aデッキには船員室とレストラン、Bデッキに特等室と一等室、そして浴室にカラオケルーム、Cデッキには2等室と雑魚寝するための和室などがあり、その階下に車両を格納する貨物室があった。平成14年の「白い船」のモデルになったのがこの船である。また平成18年の「LIMIT OF LOVE 海猿」でもこの船は登場する。この時は沈められてしまう。「れいんぼうべる」は、その後ギリシャのフェリー会社に譲渡され現在もエーゲ海にて運航されているらしい(未確認)。筆者は残念ながらこの船には乗船していない、「ニューれいんぼうらぶ」の直江津~室蘭間に一度乗船する機会があった。この物語のフェリーのモデルは「れいんぼうべる」としています。もちろん二段ベットの船室はないので悪しからず。

『脳臭』-平成19年8月23日逝去された西村寿行が最初に著作の中で使用されています。

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2007年12月31日 (月)

やさぐれ勝の恋 十三

      十三

「銀さん、人を殺したことはありますか」
 本村警部補は川崎○○警察署の署長宅へ向う車中の中で助手席にひっそりと納まっている銀蔵に問うた。
 銀蔵は目を瞑《つむ》ると走馬灯ように過去の修羅場の一つ一つが次々と浮かんでは消えていった。
「それに近い事は何度かあります、だがこの手で決して人を殺《あや》めた事はございません」
「俺は、どうも損な性分《しょうぶん》に生まれてしまったらしい、毎日必ず腹が立つほど殺したい人間に出会う」と本村はハンドルを握りながら、時折ワイパーのスイッチを入れフロントガラスの雨の雫を払った。
 銀蔵は一息置いてから若い時分の話を始めた。
「私の人生なんてちんけなもんです・・生まれた家が既に博徒という家系でございました。親の背中を見て子供は育つといいやすが、正に任侠一直線、人は助けても権力には迎合しない生き方が染み付いてしまいました。そのために何度も監獄とシャバを出たり入ったりでございます。まあ、人生の半分以上は監獄の中で修行したようなもんです」
「何の罪で・・」本村は一度銀蔵と目を合わせた。
「もちろん賭博が大半の理由です。だが、どれもこれも、すべて人が絡んでいます・・出会わなければ良かった奴も沢山おります。ほんとうに出会って良かった者もおります。それしかない、とこの頃ふと気が付きました」
「出会いか・・」
 本村は夏祭りの夜の銀蔵と勝を思い出していた。

 平屋の古い家屋だった。建物に隣り合う形でスチール製のガレージがあり、跳ね上り式のシャッターが上に上がったままになっていた。中にあるべき車は無かった。
「ここは」と銀蔵は本村に従いパトカーを降りた。
 本村は背広の胸ポケットから携行用の懐中電灯を取り出すと地面に蹲《うずくま》りながら何かを探し始めた。
「ここが行方不明になった警察署長の自宅です」
「銀さん、これを見てください」と本村は懐中電灯で地面を照らした。
 雨で濡れた砂利が轢《ひ》かれている、その脇に僅《わず》かな土が出ていた。そこにはっきりと下駄の歯の跡があった。
 本村は振り返り、「心当たりは・・」
「へい、どうやら私の処の勝らしい」
 まず間違いないと銀蔵は思った。下駄を履く男と謂えば勝以外にいない。
「共同正犯という法律用語があります。二人以上の人間が犯罪を犯す。たとえ片方が人を殺めたとしても共同で行った場合、まったく殺めていない人間も正犯となる・・」
「どういう意味でしょうか」
「ここに遣ってきた人間はまったく争った形跡がない、ここにも靴の跡があります」
 本村が再び懐中電灯で照らした先に女物の靴の踵《かかと》の跡が点々とブロックの石畳にあった。
『綾子・・』
 本村は起き上がると玄関のノブを回した。
 施錠されていなかった。
「挑戦的ですね・・さあ入ってと言っている」
 玄関には木製のサンダルがあるだけで他の靴は無かった。
「これで充分です」と本村は再び玄関からパトカーへ歩き出した。銀蔵は綾子の靴跡を踏まぬために石畳を飛び跳ねなけらばならなかった。
 車は再び二人を乗せて動き出した。
「警察署長の靴跡が常に先頭を歩き、他の三人の人間を案内していました、玄関にあったサンダルのサイズは男にしてずいぶんと小さい物です。どうやらその署長は小柄である事が推測できます。下駄の男、低いパンプス、そして妙な形の靴・・たぶんウェスタンブーツと思われますが、この四名があの家から車に乗って出かけた・・誰が西岡組長を射殺したかという問題より、共同正犯による犯罪とも取られかねない」
 本村はパトカーの無線のマイクを取り上げた。
「こちらはサッチョウの本村警部補、神奈川のカンクキョクどうぞ」
(サッチョウ-警察庁、カンクキョク-管区警察局)
「カンキョクです。本村警部補どうぞ」
 パトカーに無線スピーカーから明瞭な男性の声の反応があった。
「泉のエルワンをお願いしたい」
(エルワン-運転免許証種別照会)
「泉とは・・」
「イチエーの容疑者だ」
(イチエー-一号警戒A態勢)
「少々お待ち下さい」
 銀蔵は助手席で本村の話す警察隠語のほとんどを理解できないままじっとしていた。
「本村警部補応答願います」
「はい」
「泉署長は木村姓の第一種免許です」
「木村姓?」
「は、旧姓のようです、北海道公安委員会から交付されています」
「泉のユーゴウから車種が割り出せるか、それと大洗と直江津にその車を船に載せたか照会を頼む」(ユーゴウ-車輌所有者照会)
「紺の日産セドリックです。今船舶会社へ問い合わせします」
 しばらくして再び同じ男の声が無線から流れた。
「本村警部補、ハムのガイジ第一から連絡を入れて欲しいそうです」(ハム-警視庁公安部、ガイジ第一-外事第一課)
「ガイジ?」
「はい、元角《もとずみ》警視正と連絡をお願いいたします」
「本村警部補、直江津です」
「直江津」
「はい、午後二三時五五分発に出航しています。免許書は木村で記載されていました」
「よしありがとう、泉署長のやさをガサ入れする手配をお願いする」
「はい、了解しました」
 本村はマイクを無線機のフックへ戻すと、
「銀さん、ご自宅まで送るが」
「いいえ、本村さん、決して捜査の足で纏いにならないようにいたします。このまま同行させちゃくれませんか・・」
 本村は銀蔵がそう言うだろうと思った。
 本村はパトカーを公衆電話ボックスで止めた。
 もちろん警察無線から直接、外事まで連絡を繋ぐことができる。だが、外事が出張ってくる場合、間違いなく国家の重大な問題に関わる。だから敢えて警察無線から連絡を止め、公衆電話から連絡する事にした。
「本村君かしばらくだ、元角だ。今どこだ」
「はい、川崎市内です」
 本村は元角が体格のどっしりとした男と記憶していた。
「チョウバが立った。泉は北のスパイだ」
「チョウバ」
(チョウバ-捜査本部)
「今晩、直江津港発室蘭港行きフェリーがシージャックされた。その主犯は泉と推定される」
「本村君、これから合同捜査会議が行われる。後一時間後だ間に合うか」
「本庁ですね」
「ああ、ハムの階だ」
 電話を切ると本村は呆然としていた。
『北のスパイ・・シージャック』
 車に戻った本村は無言だった。
 銀治は本村の変貌に何かとんでもない事が起きた予感があった。
 外事課は公安部の中に置かれた外務と防諜を行う部門である。国外の諜報機関と密接な関係を持ち、テロやゲリラなど国家治安に関わる諸問題に対応する体制ができている。ここに所属する部員の氏名、業務内容は公安の同期すら知りえない。
『外事が動いた。泉とは何者なのだ。外事は北のスパイであることを内定していたらしい』
 一度本村は銀蔵をつくづくと眺めた。
 それに答えるように銀蔵もまたじっと本村を睨み返した。
「銀さん、娘さんと勝さんは直江津港から出航したフェリーに乗船した。そしてそのフェリーはシージャックされた」
「これから本庁へ向う、どこかで待っていてくれ」
「へい、お邪魔にならぬようじっとしておりやす」と銀蔵は言ったが心逸《はや》る気持ちは押さえが利《き》かなかった。

 日本電力開発機構の五十嵐光男は開発機構で打ち合わせを終え、その足で警視庁へ出向くように捜査協力を求められた。
 五十嵐は深夜に関わらず煌々と蛍光燈が点く公安部の事務机が並ぶ大部屋にいた。
 部屋の片隅に簡単なスチール製の衝立《ついたて》がある応接セットで待たされた。
 次々と電話がけたたましく鳴り響き、入れ替わり立ち代り人がやって来る。
 時々酷い睡魔がやってきたが、事が事だけに身体中に緊張があり、それをどうにか堪《こら》えていた。同じようにまた人が入って来たらしい。
「銀さん、すまぬがそこの応接で待っていてくれ」と本村警部補と銀蔵が公安部に入ってきた時は既に夜明けが近かった。
「へいわかりやした」
 五十嵐はどこかで聞いた声だと思った。
 衝立で姿形は見えない。
 着流しの和服姿に雪駄履き、白髪短髪の老人が衝立を回って現れた時、五十嵐は思わず声を上げそうになった。
「じいちゃん」
 五十嵐光男は勝との間に一人姉を置いた血の繋がった実の弟であった。
 銀蔵もまた応接にいる男を見てそれが勝の弟の光男であることにすぐ気が付いた。
「光男、お前どうした」と銀蔵は不思議な顔付きで応接の一人掛けに腰を下ろした。
「じいちゃんこそ、いつ府中から出てきた」
「昨日だ」
 五十嵐光男は成人すると国家公務員の家へ養子として入った。だから勝とは姓が異なる。光男にとって勝が父であり母であるように、銀蔵は祖父と同じだった。
 銀蔵はふと光男を見て思い出した事があった。
「お前の会社にヘリコプターがあったな」
 光男はなぜ銀蔵がそのような事を聞くのか見当が付かなかった。
 銀蔵はかなり慎重な声音《こわね》でここまで来た事の成り行きを光男に語った。
 光男は『勝』と話の中に出てきた時点で睡魔が一瞬で吹っ飛んでいた。『綾子』は勝兄妹の妹と同じで兄妹のようなもんだ。その一大時がそれも自分と関係があったと知って光男の中で眠っていた血が沸き立つ感じがあった。
「ヘリコプターをどうする」
「フェリーまでじいちゃんを運んでくれ」
 光男はその役目を自分が替わりたいと言いたかった。だが、銀蔵という人間を光男はよくわかっていた。
「じいちゃん、俺の用事が済んだら直ぐに出発できるようにする」と光男は応接から飛び出すと、電話を借り会社へ電話を入れた。
「ええ、すぐに警視庁に一機航続距離のあるのを・・」
 銀蔵はその声を聞いてやっと勝や綾子に追いつけると思った。
『そうか、俺はこのために今日まで生かされてきたに違いねえ』とこっそりと腹を押さえた。銀蔵には誰にも話していない秘密があった。府中の長年世話になった勤務医からこう諭《さと》されていた。
『銀蔵さん、もって半年ぐらい、しっかりとした病院に入院して抗がん剤で余命を伸ばす事はできるが・・あんたの命だ。どうするかは自分で決めるしかありませんね』
『先生、はっきりと言って頂き、ありがとうございます。銀蔵は幸せもんです。旨いもん食って、いい女抱いて、そして博打三昧の毎日だ、これで老衰でいっちゃ仲間内にあの世へ逝って笑われやす。ただ、痛てのが勘弁できなくなったら、時々痛みとめを打ってください』
 銀蔵は不思議とこれから来る試練など大した事が無いと思った。
『そうさ俺はこの時のために生を授かったのさ、そして真由美や勝と出会ったのも、全部、全部、神様が仕組んだ事だったんだ』

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2007年12月24日 (月)

やさぐれ勝の恋 十二

      十二

 出所祝の宴を終えた銀治は川崎の街にあった。久しぶりの酒のせいかほろ酔い気分で何か気持ちが高ぶっていた。
 小雨の降りしきる中にぼんやりした月明りが街の喧騒を少し落ち着かさせていた。
『それにしても勝と隆二はどうしちまった』と勝、綾子が直江津港から北を目指し旅だったことなど知る由《よし》もなかった。
 その子はクラブのはねるまで銀治を待つように言ったが、銀治はシャバの、それも繁華街を自分の足で噛み締めるように歩きたかったのだ。
-時代がどう変わろうが、『変わらぬ物がある』と一人で頷《うなずいて》いた。
 色とりどりのネオンが銀治を待っていた。
『やっぱり夜光虫のようなもんだ。ネオンに誘われて、何を求めるでもなく、この悲しい光が俺は好きなんだ・・』
 銀治の足は自然と西岡組の事務所へと向けられた。
『ずいぶんと人だかりじゃねえか』
 銀治は隆二が一悶着を起こした事を確信した。人だかりの中を掻き分けて銀治は警察官が組事務所の警備に当たっているのを確認した。
 野次馬の若者に銀治は問い正した。
「事件ですか」
 野次馬の一人はこう教えてくれた。
「発砲があって、救急車が呼ばれたそうです」
『しまった。命の取り合いになっちまった』
 銀蔵の脳裏を一瞬不吉な予感が過《よ》ぎった。和装姿に雪駄履きの銀蔵はすたすたと警官の前に歩み出た。
 二名の警官は目の前の白髪の老人の姿恰好がいかにも極道と取り違えた。
 不快な表情を浮かべ、
「用向きは」と一人が問質《といただ》した。
 銀蔵は深く頭を下げると、
「へい、あっしはここの関係者でございます」
と説明をした。もちろん西岡組とは一切関係のある者では無かったが、すでにこの事件の当事者の一人には違いなかった。
 一人が入口から退き銀蔵を通した。
 始末係りという警官が出張っていた。
 所謂《いわゆる》、鑑識官達が例によって髪の毛一本も見逃さない動きをしていた。白手袋に庇を逆にして帽子を被《かぶ》っていた。
 事務所の一角で本村警部補は事件発生時に組当番であった若者三人から裏捕を行っていた。
「その化け物みたいな男が飛び込んできた時には既に発砲があったのだな・・」
 髪の毛を複雑に染め上げられた三人の組当番は神妙な顔つきで長椅子に窮屈そうに雁首《がんくび》を並べていた。
 本村は辟易《へきえき》していた。
『なんだこいつらは、組長が取られたと言うのにみすみす犯人に逃げられるとは・・』
 男手によって出された出がらしの茶を口へ運んだ時、組事務所に一人の老人が入ってくるのが目に留まった。
『え』と本村警部補は立ち上がりそうになった。

 本村警部補と銀蔵の歴史的な再会が用意されていた。

『恒《こう》、あれが侠客《きょうきゃく》という生き方をしている者だ。よく見ておくんだ』
『侠客てなんだい』
『ああ、一切の権力に屈しない生き方を選んだ男の事だ』
 ずいぶん幼い頃の記憶だ。父に手を引かれて川崎の街を歩いていた。人込みの中に羽織に袴《はかま》、雪駄履きの屈強な男が肩で風を切って歩いていた。子供心にも何か感じるものがあった。
 二度目に会った時は命を助けられた。
 中学二年の夏だ。
 本村は学校の不良連中に夏祭りの夜呼び出された。何度か学校で衝突があった。本村は理不尽な暴力や大勢で弱いものを嬲《なぶる》彼らの行為を許せなかった。黒袋に納まった木刀を背負い家を出た。母親は黙って見送った。
 夜店が立ち並ぶ賑《にぎ》やかな人通りが絶えた場所に既に十数人の不良達が待っていた。
『逃げなかったな』と番長を名乗る不良が行き成り向ってきた。本村は小学校へ入る前から父に剣道を伝授されてきた。小学校、中学校と剣道を続けてきた。中学校の剣道部の主将でもあった。背から木刀を取ると正剣に構え鳩尾《みぞおち》に突きを入れた。向ってきた不良はそのまま地面に崩れ落ちた。すぐに周りを全員で囲まれた。どの不良の手にも刃物が光っていた。
 一人でこれだけの人数を相手にしたことはなかった。じりじりと不良達の輪が縮み、一人二人倒したところでこの死地を脱《ぬけだ》せそうになかった。
『前に進め』と雷のような轟きがあった。
 本村は言われるまま、木刀で前方の二人を薙《な》ぎ倒し駆け抜けた。
 だがどこか切りつけられたらしく、酷い痛みが彼方此方《あちこち》にあった。
 振り返るとそこには銀治が熊のような身体をした厳《いか》つい男と立っていた。
 不良達はさらにいきり立った。
 本村に殺到しようとした不良の二人が熊男に襟首《えりくび》を捕まれ、そして虚空に投げ捨てらた。
『お前たち、一人にこれだけの人数で喧嘩をするとは男の風上にも置けねえ、通りがかりといえども黙ちゃおれねえ、勝、俺が許す、ちょいと懲《こ》らしめてやれ』
 本村は呆然《ぼうぜん》と半纏《はんてん》を纏《まと》った男が次々と不良達を熨斗《のし》ていく様を眺めていた。男の動きは実に俊敏で刃物の下を掻い潜り不良達を投げ飛ばした。実に鮮やかだった。身体の巨大な人間がこのような俊敏な動きができるとはとても思えなかった。だが一時後《いっときあと》には草むらに不良達はノックアウトされていた。
 銀蔵が本村に駆け寄ってきた、
『お若えの、ちょいっと傷を見せなせえ』
 右腕の一箇所、左脇にかすり傷程度の刃物傷があった。しかし、止め処なく血が滴り落ち服を染めあげていた。銀蔵は腹を強《きつ》く締めていたサラシを外すとそれで本村の簡単な血止めの処置をした。
『傷は浅いが手当てが必要だ』
 本村は銀蔵と熊男に従い銀蔵の知己《ちき》の外科医で手当てを受けた。診療時間を過ぎて一杯遣っていたらしい老医が慣れた手つきで傷を縫合した。麻酔無しだ。
『ちょいと痛いよ』と老医はさも楽しげに傷を縫い上げた。気絶しそうな激痛が走った。油汗《あぶらあせ》が額《ひたい》から滲《にじ》み出た。ざくざくと音を立てて縫い付けた。本村は一言も発せず耐えた。
『銀のとこの若衆かい』と老医は銀蔵に尋ねた。
『いいえ、通りがけにかかわっちまった若者です』
『ほう、こりゃ将来が楽しみだ』
 洗面台で老医は縫合後、手を洗いながらもう用が無いとても言いたげに縫い針や縫合糸を片付け始めた。
『一週間ぐらいで傷は付くだろう、糸を抜くからまたおいで、それと二三日は風呂に入らぬ事、そしてやんちゃはしていけないな』と笑いながら診療室を出て行った。
 医院を出て数歩歩いた処で本村は頭を下げて礼を述べた。
『助けて頂き、ほんとうにありがとございました』とそれだけしか思い浮かばなかった。
 先を歩いていた銀蔵が振り返った。
『若い時は無茶な事をしたがる、だがお前さん、その命はあんたのご両親から頂いた大切なものだ。決して粗末にしちゃいけない、奴等がまた言いがかりを付けたら、川崎の銀蔵一家を尋ねなさい』と銀蔵は勝と呼ばれる男を伴って去っていった。
 あれから十数年の時が経っていった。
 本村は一時も忘れた事は無い。
 本村がもし警官の道を選ばなければ、間違いなく銀蔵を訪ねていただろう。

「お前たちはもういい、そこのご老人、こちらへどうぞ」と本村は事務所入口の銀蔵に声を掛けた。
 様子を伺っていた銀蔵は突然声を掛けられ、事務所隅の応接に座る刑事らしい青年をじっと凝視した。
『どこかで見た顔だ』と思ったが、詳しくは思い出せないまま応接椅子に納まった。
「警視庁の本村と言います」と刑事は懐から名刺入れを取り出し、恭《うやうや》しく名刺を刺し出した。
 『捜査第一課 特殊捜査班担当課長 本村恒孝』と明記されていた。この名前に銀蔵は記憶が無かった。
 青年刑事は気づいたらしく、
「中学生の時、助けられました」と銀蔵に頭を下げた。銀蔵は『本村』という名前の警官を一人知っていた。川崎駅の交番勤務の本村という警官をよく覚えていた。そういえば、どこか面影があると思った。
「どこかでお会いしましたか」と銀蔵は口を切った。
「夏祭りの夜、不良と喧嘩している私を救って頂きました」
 ああと銀蔵は思った。確かにあの時の若者だ。『そうか警官になったのか』と感慨深げに改めて目の前の逞《たくま》しくなった若者を眺めた。
「銀さんとお呼びしてもいいでしょうか」
「ああいいとも」
「ところで、本村さん何があったか教えちゃくれねえか」
「捜査の内容をお知らせすることはできないが、新聞発表程度の内容しか教える事はできません、それでよろしければ」
「ああそれで結構です」
「この西岡組の組長が射殺されました」
「西岡の・・」
「そこには川崎市○○警察署署長がいました」
「で犯人は」
「組事務所の当番の者が言うには、女が一人いたそうです。銃声の後、化け物のような男が事務所に飛び込んできた。その後、署長と女、そして化け物が去っていった・・」
 銀蔵はその『化け物』が勝である事にすぐ気が付いた。
「もう一人、容疑者がいます。なんでもこの組の若衆今岡隆二という者だそうです」本村は銀治にある程度説明をしようと決めた。こんな遅くにこの男がわざわざ遣って来るには何か訳があるに違いないと思ったからだ。
「ただ、救急車で射殺された組長と病院へ向ったそうです。今、病院へ警官を向わせています」
『そうか、勝も隆二も無事だったか』と銀蔵は胸の痞《つか》えを下ろした。
 話をしていて本村はその『化け物』がもしやあの夜の熊男ではないかと推測していた。
『確か、勝と呼ばれていたのでは・・』
「組事務所を出る時に誰か一人外にいた者がこう言ったそうです」
「『あやお嬢さん・・』と聞いた者があります」
 銀蔵に衝撃が走っていた。
『外で待っていたのは三治にちげえねえ、三治がお嬢さんと呼ぶのは、この世にたった一人しかいない・・それもあや・・』
「どうかされましたか」本村は銀蔵の顔が強張《こわば》ったのを見逃さなかった。
「いえちょっと気になる事がありまして」とだけ銀蔵は答えた。
「気になるとは」と本村は続けた。
「その女、ちょいと心当たりがあります」
「誰だ・・」と本村は詰問《きつもん》した。
「へい、間違いであってくれと思います、もしや私の娘ではないか・・」と銀蔵は自分の推測を述べた。
 事務所の電話のベルが二人の会話を中断させた。
 鑑識官の一人が受話器を取った。
「警部補、本庁からです」
 本村は立ち上がり様、銀蔵を上から見下ろした。『ずいぶんと老いたな』と思った。
 第一課課長からだった。
「本村、西の島村が刺客に首を掻《か》っ切られた」
 それだけで充分だった。
 酷い夜だ。なんとか宿酔いが収まりつつあった身体の奥底で別の澱《おり》が生まれてくる感覚があった。どうせお前たちは六出無《ろくでなし》じゃないか、なんでこうも事件を起こしやがる。
 銀治がじっと本村を睨んでいた。
「銀さん一緒に来てくれるかい」と本村は電話を切った。
「へいわかりやした」と銀蔵は本村の後に従った。張り番で付いていたパトーカーに本村は近づくと、
「車を借りる」と運転席にいた警官を下ろした。
 運転席に滑り込むと、「銀さん乗ってくれ」と助手席のドアを開けた。
 車は川崎の悲しい光で覆われた街を抜け出した。
「銀さん、俺はやっぱり道を間違えたらしいや」と本村はぽつりと言った。
「へい、なんの事でしょうか」と銀蔵はガラス越しに遠のくネオンを眺めていた。

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2007年12月15日 (土)

やさぐれ勝の恋 十一

      十一

 関東自動車道から関越自動車道へ道を進めるためには幾つかの検問を抜けなければならなかった。
 パーキングエリアの手前で蛍光塗料が施されている光るパイロンが続き出す。赤色灯が点灯されたパトカーが路肩に止められ、赤い点滅の懐中電灯で警官等が検問の誘導を行っていた。
 泉は慎重に自動車を検問のために駐車している車列の最後尾へ着けた、決して目立たないように車の中で息を潜めた。順番が遣って来ても、泉は決して警察手帳を出さなかった。寧ろ運転免許書を言われるまま提示さえした。
「どこまで行かれますか」と運転席の窓越しからライトを車の中に照らしながら警官が尋ねた。綾子は不思議だった。『もうとっくに広域捜査に切り替わっているはずだ、免許書の名前を確認すれば、すぐに署長であることがわかるはずなのに・・・』
「親族に不幸がありまして、長野まで行く途中です」と泉は説明した。むろん偽りであるが、妙に説得力があった。
『泉とは珍しい苗字だ。一度聞けば、誰でも心に留める。まして職務質問をしている警官は免許書を確認する時、名前と生年月日を必ず確認するように訓練されている・・』
 最初の検問は僅か数分で事なきを得て抜ける事ができた。
 車が加速して検問から遠ざかると泉は免許書を綾子に提示した。
『木村重一《きむらしげかず》』という氏名が記載された運転免許書だった。
「私の元の姓は木村といいます。上京した時、まだ木村でした。運転免許書を書き換え続けてきましたが、姓は変えなかった。本来なら変えるべきなのだが・・こんな場面で役に立つ事もある」
『さすがに名の一致に気が付く者は稀有だろう』と綾子は思った。
 誰でも泉何某と『泉』に気を取られる。
 まして警察署長ともあろう者が姓の異なる運転免許書を持っている事を知る者はいない。
 バックシートには手錠を掛けられた勝、ハンチングを目深に被った三治が占めていた。泉と背格好が近い三治は泉の背広とネクタイを身に着けていた。三治の真っ赤に染め上げられていた髪の毛は途中で購入した白髪染めで黒く染め直された。どうにかそれらしく見えるようになったが、泉から無駄な話をするなと釘を刺されていた。
 泉は函館までの道程《みちのり》を出かけに説明した。
「直江津からフェリーで室蘭に向う、上陸後に函館まで車で移動する」
 車はその後、幾つかの検問で止められたが同じように切り抜け直江津港に到着した。
 綾子がフェリーターミナルで出航時間を確認した。午後二十三時五十五分発と掲示されていた。出航一時間前である。既に車の乗船が始まっていた。泉が全員の乗船券と車のフェリー運賃を支払った。一日一便、翌日の午後五時に室蘭に到着する。十八時間の旅になる。乗り込んでしまえばどこの港にも寄らず唯只管《ただひたすら》、日本海を北へ目指す。泉と綾子はフェリー運営会社の事務所へ出向き容疑者の護送について説明をした。会社側では別に個室を手配してくれる事になった。
 綾子は特に護送の件について明かす必要もないと思った。
 しかし、泉は事務所から船へ乗り込む際にこんな事を付け加えた。
「到着した時に刑事《でか》が出張っている可能性もある。我々は当然、一般客と別の入口から下船が可能でしょう・・」
 確かに警察の特権を逆に利用すればそれができる。
 フェリー会社には既に護送中という任務を遂行している警察官が乗り込んだという先入感が生まれているに違いない。
 泉は事務所で警察手帳を提示しながらこう付け加えた。
「なにぶんその男は他の組から追われている者で極秘裏にお願いいたします」
 当然、フェリーを運航する責任者ぐらいに伝わるかもしれない、しかし、これで間違いなく警察官一行が乗船しているという暗黙の了解が運行担当者へ認識されるはずだ。
 例えフェリー会社へ捜査の手が伸びたとしても警察官一行が乗船しましたとは彼らは伝えない、なぜなら警察官が警察官を追うとは誰も気が付かない。
 確かに盲点が生じる。
 備え付けの二段ベッドが二組あった。
 四人がどうにか仮眠を取れる程度の空間がある部屋だ。船室から外の明り取りのための丸窓があった。そこから僅かに上越市の街の明りが確認できる。
 綾子にはある思いがあった。
『勝と初めて旅に出るのね・・』
 とやっと部屋に着いて勝の手錠を外しながら気が付いた事であった。
 勝は手錠を外され自由になると両腕を手で摩りながら腕時計で時間を確かめた。
 針は午前零時を十分ほど回っていた。 
『長い一日だった』と早朝の銀蔵の出迎えからここまでのなんと色々な出来事があったことだろうとつくづくと思った。
 フェリーは一度船内を轟かせる汽笛を鳴らすと今まで規則的な振動を伝えていたエンジンを更に回転を上げた唸りがより強い振動となって伝わってきた。
 丸窓に見えていた明りがいつの間にか遠ざかると変わりに夜空に瞬く星々が変わりの明りとして船室へと差し込んでいた。

 漆喰《しっくい》で塗り固められた白壁で周りを囲まれた邸宅だった。白壁は瓦葺《かわらぶき》で時代劇の武家屋敷を連想させる。
 范享はドカッティ900MHRのVツインの赤い車体を繰って雨の高速を駆けてきた。
 一度グルリと白壁の周りを回ると900MHRを少し離れた場所に停車させた。このバイクは最近手に入れた。パワーがとてつもなくあるまさにイタリアが生んだスーパーバイクである。しかし惜しいかな、リアブレーキがシングルの280mmのディスクでは雨の中で制動をコントロールするのはかなりテクニックを要する。東京から発って二時間を切る時間で着いていた。新幹線を越える速さではさすがにブレーキは生命線である。レース場を走るのであればブレーキは寧ろこの程度の甘さでも良いかもしれない、しかし街乗りは常にブレーキを掛けながら車体をコントロールする必要がある。
 黒革のジャンプスーツに包まれた黒豹を連想する姿態が一瞬で白壁の瓦まで駆け上がった。夜目を鍛え抜かれた享の目は一瞬にして獲物の存在を捉えた。成金趣味の庭に面した二階のベランダが開け放たれていた。中年の小太りの男が黒のボンデージ姿の女とSMプレーに興じていた。四つん這いになった全裸の男は後ろ手に縛り上げられ、口は革バンドで丸い玉が結わえられていた。
 広大な庭が広がる。
 数匹のドーベルマンが聞き耳を立てている。
 享は犬の発する特殊な気を感じることができる。犬は人間に比べかなり高音サイクルの音を聞き分けられるという。いい例が『犬笛』と呼ばれる笛だ。その笛を吹いても発する音は人間は聞く事ができない。
 だが享は聞き取れる事ができる。
 空を飛翔する鳥が空中から地面に餌となる昆虫を発見した時の微かな叫びを聞き分けることができる。
『キー』という独特の音が空から聞こえる。
 次の瞬間鳥が舞い降りてくる。それに目掛け石礫《いしつぶて》を投げる。普段警戒心が強い鳥が唯一地上に迫り、そして油断する瞬間である。享の記憶に黒服の老人の姿がある。その老人の横で享は懸命に石礫を鳥目掛け投げている。それ以上は判らない、だげ享は自分の持つ能力はその記憶にある老人によって鍛えられたものだと考えていた。
 享は塀から庭に飛び降りるとドーベルマンへ忍寄る。普通の人間がドーベルマンに気づかれずに近寄る事は不可能だ。それを享は事も無げに次々とドーベルマンの首を両手で押さえ一瞬で捻り挙げる。犬は一切吠える事無く息絶えた。
 島村良蔵は神戸に本家を構える日本最大の指定暴力団の直系組長であった。戦後の混乱期を神戸の港湾土木業から一代でここまで登りつめた。ほぼ恐い物の無い男であったが、しかし心が蝕まれていた。何度か懲役を務めた。そこで男色を覚えた。男なしで生きていられなくなっていた。彼の棲む世界にはその手の男はたくさんいた。そこから身体を傷つけあう獣のような性交がいつしか身体を痛めつけられる事でしか喜びを得られないようになった。
 半勃起した男根が股の間に下がっていた。
 享は乳頭を強調する黒いボンデージを身に纏った長身の女の首筋へ真一文字に青龍刀を走らせた。
「うぐ」女は何か起こったか理解できなかった。目の前に真黒なジャンプスーツの男が立っていた。
 島村は四つん這いのまま頭に生ぬるい液体が流れてくるのを感じた。ゆっくりと頭から伝わり目に流れてきた。外の景色が真っ赤に見えた。振り向いた。そこに彼の想像したどの男も敵《かな》わない獣の目をした若者が立っていた。両手の刃物が光り輝いていた。島村はその刃物が自分を責めるためにあるべきだと信じた。そしてゆっくりと身体を切り刻んで頂く・・数年ぶりで股間にぶら下がった物へ大量の血液が流れるのを感じた。玉を咥《くわ》えた口から止めどなく涎《よだれ》が垂れていた。
 島村の希望は叶えられなかった。
 享はボンデージの女をやったのと同じ動作を繰り返し、島村の首筋を断ち切った。
 瞬間、島村は白濁した飛沫を飛翔させ床へ崩れ落ちた。島村の遠のく意識の中にはまだ見ぬ桃源郷があった。
 享は仕事を終えた。
 享は身体に瘧《おこり》が遣って来る感覚があった。仕事を終えると享は動けなくなる事が度々あった。全身を走る震えがあり、激しい発汗がともなう。だから直ちに現場から立ち去る必要がある。享が遣られるとしたらこの瞬間以外にはない。主人を失った白亜の豪邸は享のやって来る前となんら変わらぬ姿を留めていた。
 ドッカティまで戻る途中で享は公衆電話のボックスに立ち寄り二箇所に電話を入れた。
 藤本組長に始末をつけた件を報告した。
「わかった。金をどうする」
「女に渡してください」
「これからどうする」
「暫《しばら》く柄をかわします」
 享は大きい仕事の後は必ず行方を暗《くら》ます。どんな目撃者がいるとも限らない、まして依頼主が裏切る可能性もある。死人にくちなしを狙われる。だから誰にも行き先を告げず旅に出る。
 後の電話は留美の店に電話を入れた。
「享です。留美を呼んで下さい」
 しばらく待ってから、留美が受話器の向こうで咽《むせ》た咳をしていた。どうしたと享は敢えて聞かない。駆けてきた理由《わけ》ではない。留美は風俗店に勤めているのだ。性交中だったのかもしれない。
「しばらく旅に出る。組から金が届くはずだ」
「いつ帰ってくるの」必死の声だ。
「必ず帰ってきて・・」
「ああ」とだけ享は答えた。
 初めの咽び声と違う嗚咽が聞こえた。
 受話器を下ろし電話を切った。
 電話ボックスの窓ガラスには幾分小降りになった雨のため外界の景色がぼんやりと映し出しされていた。
 享は北を回って来るつもりだった。
 具体的な行き先は決めていない。
 奇《く》しくも享は直江津港からフェリーに乗る道を選んだ。脳裏にいつかバイク雑誌で見た深夜に出航する便の記憶があった。ここから三時間以内に到着する自身があった。
 Vツインの奏《かな》でるエギゾーストノーズが神戸の街を出たのは既に九時を回っていた。

 日本電力開発機構の五十嵐光男がその電話を自宅で受け取ったのは深夜零時を回った時刻だった。五十嵐は今年四十を迎える。機構の電力資材調達課の課長であった。大学を卒業するとこの道一筋に仕事に没頭してきた。まだ未婚も仕事優先の人生を送ってきたと人には言い訳程度に話す。実際は大学当時に大恋愛の末、それに敗れた過去を持つ中年男だ。ずっと引きずったまま仕事へ逃げ込んできたと指摘する者がいれば、『その通り』と答えるだろう。
「課長、社へ至急来てください」
 非番の部下からの電話だった。
「何があった」
「船が・・船が、シージャックされました」
 五十嵐はいやな予感めいたものが二週間前にこの輸送の決定が下された時にあった。
 『大洗から陸路を用いて直江津港からプルトニュームを運ぶ』、この決定の時、なぜ直接船で輸送しないのか疑問があった。フランスから再処理されたプルトニュームが横浜港まで船便で到着した。しかし、フランスの報道からのリークでこの輸送を知った原発反対団体のチャーターした漁船が船を取り囲んだ。永久に入港ができない恐れがあった。電力機構が政府に打診した。陸路を使い直江津から日本海で北海道に向へという作戦がその筋から出た。電力機構は急遽記者会見を行った。船はフランスへ戻す。ただし船の補給が必要なため貨物船を横付けにし、補給を完了しだい出航する内容のものだった。これには裏があった。横付けする貨物船の積荷は一般に公開された。クレーン作業がし易いということでコンテナに食料や雑貨が詰め込まれた。貨物船は順調に積み込みを終えコンテナを回収して貨物船の母港大洗に帰港した。
 しかし空のはずのコンテナの一つにプルトニュームが積み込まれていた。極秘だった。
 その積荷を搭載したフェリーがシージャックされた。国家の中枢を握る権力者達の明暗を分ける事件が起きてしまった。
 五十嵐はあの予感が当たった事に驚いていた。
『誰がリークした。いや積荷の事を知ってシージャックしたのか』
 電力開発機構から迎えに来た車中の中で五十嵐はさらに恐ろしい予感を禁じえなかった。

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2007年11月25日 (日)

やさぐれ勝の恋 十

      十

 藤本巌《ふじもといわお》はこの組を継いで間もなかった。前の組長が脳梗塞で倒れ、実質組を仕切っていた藤本が跡目と目されていた。しかし、組長の嫡男《あとつぎ》がいた。もちろんその女房の姐《あね》さんが目を光らせてもいた。元々、藤本は組の存亡などに興味のある男で無かった。今日まで生きてきたことさえ奇跡、と自分で思える人生を歩んできた。
 そんな時に一本の電話が入った。
『あんたが組ついだらいいじゃないか』と酔った姐さんからだった。
『今からあんたのやさへ行くから』と電話が切れた。姐さんの性欲が凄い事は若衆から聞いていた。この世界に生きるものとして藤本とて嫌いではない、
『旨いもん食って、いい女を抱く』これこそが極道の道と思った事さえある。
 姐さんは組長の後妻である。どこかの島のクラブのママだったと聞く。どういう過程で本妻を蹴落として組長の下《もと》に下ったかは不明だが、まだ四十を超えたばかりだった。
 藤本の般若を中心とした彫り物の背中を見て姐さんはこう言った、
「般若に観音様とはぴったりだね」
 姐さんの背中には観音様の周りを龍がとぐろを巻く彫り物があった。
 藤本のやさで姐さんはベッドに組み敷かれて追い討ちを掛けるようにこう言った。
「あんたと私でこの世界を〆てやる」
 藤本は姐さんの欲望の深さに驚いた。
『姐さんが組長になれば』と思ったが流石に口には出さなかった。
 根回しと対外外交を姐さんが仕切って、藤本は後釜に納まった。
 もちろん藤本にも女は何人かいた。
 どいうわけか姐さんは全部自分の家に住まわせるように藤本に命じた。
 世話をしている若衆から教えられた。
「姐さんは女も食います」
 なるほどと思った。確かにとんでもない性欲があった。
 千葉でちょっとした揉め事があって、藤本は話《な》しを付けに出ていた。その場を何とか治め、工事中の湾岸道路を黒のベンツの中に居た。その当時まだ珍しい、車載電話がコールされた。
「頭、本部の代行です」
 運転していた若衆から受話器を受け取った。
「川崎の西岡が弾かれました」
『また面倒な・・』と藤本は一瞬思った。
「どこの奴だ・・」
「それがどうも西の奴等らしいと事務所では言っているらしいですが、あの島の銀蔵一家という博徒をご存知で」
 藤本は受話器をぎゅっと握り締めた。
 予感めいたものを感じた。
「その博徒一家にいる勝を見たというんです」
『やっぱり』と藤本は思った。
 藤本がこの世の中で怖い物は無い、と生きてきた。藤本がその怪物を一目見た時、こんな生物があるはずはないと感じたほどの男が存在していた。
 身長は六尺ぐらいだろう、顔を見ようによっては何か親しみやすい感じがするぐらいだ。
 ただ何か得たいの知れない威圧感があった。
 拳が異常に大きかった。拳の大きさはそのまま心臓の大きさを現す。
 いくつか勝に関する伝説を聞いていた。
 暴走族相手に喧嘩をした。
 相手の排気量が強大なバイクを止めただけではなく、両手に二台のバイクのハンドルを持って振り回した・・
 人間が百キロを超える重量のある物を片手で持って回す・・
 警察が駆けつけた時には全員がアスファルトに伸びていたと聞いた。
『川崎か・・』と藤本は思った。
 確かあそこのどこかの警察署長の悪知恵で川崎の博徒を府中へ送った覚えがある。
『けじめを付けるか』
 藤本は再び車載電話を取ると胸ポケットから手帳を取り出し、アドレス帖を開き電話番号を確かめるとプッシュ式のボタンで電話を掛けた。
 呼び出し音が続いたが、相手の電話は繋がらず、乾いた男の声の留守番電話の案内が流れた。
『只今、留守にしております。発信の音、伝言をお入れください・・』
「藤本だ、本家に来てくれ、何時でも待っている」

 新宿の裏通りに酷《ひど》くよれよのトレンチを着た長髪の若男がビール瓶を入れるプラスチックのケースに俯き加減に座っていた。一見、酔客が休憩しているようにも見える。しかし顔立ちといい、その中に輝いた眼《まなこ》に湛えられた光は決して尋常なものではなかった。誰もその男が殺気を一切発しないように細心の注意を払っている事には気が付かない。
 たまたま通り掛ったサラリーマン風の二人組みがその若者を恰好の獲物として勘違いした。
「おいここに便所があったぞ」
「おお」
 と二人組みは股間から男性自身を取り出した。たぶん尿意が限界に来ていたのかもしれない。酩酊しているとはいえ空間に放り出された肉体の一部は経験したことのない冷たさを感じた。
「あっ」と二人は同時に叫んでいた。
 夜目にもギラギラと輝いた鋭利な刃物がそれにいつの間にか当てられていた。
「動くな」
 とても低い声音《こわね》だった。
 若者の両手には刃渡り二尺もある刃物が握られていた。
 いつどこからそれが抜かれたのか、二人の目には捉えることができなかった。
 男達はきりきりとする酷い痛みを感じた。明らかに刃物はじっと一点に刃が当てられていた。しかし彼らの一物は恐怖のために徐々に萎縮《いしゅく》した。細く赤い線がゆっくりと引かれていく。
「ひぃ」と一人の男がアスファルトに崩れ落ちた。それに続きもう一人が尻餅をついた。
 コートの若者は男達の頭上を飛翔した。
 不夜城と言われる新宿ゴールデン街。
 深夜になっても道路を埋め尽くす人々の群れ、その間を真っ直ぐに歩く事は難しい。必ず避《よ》けながら歩く必要がある。しかし、路地から飛び出たコートの若者のステップは社交ダンスをしているかのように緩急を含んみ、ただ只管《ひたすら》真っ直ぐに歩いていた。
 その筋の者が見たら、その歩みが中国武術の達人のみが会得《えとく》出来ると言われる技の一つであることがわかるかもしれない。
 若者が溢れた深夜のコンビニエンスストアーで若者は牛乳パックを買った。昼間のように明るい店内の中で若者の顔立ちがはっきりと白日に晒《さら》された。
 目鼻立ちがはっきりした精悍な表情はどこか憂いを含んでいた。長髪が表情を隠していたが、店内でレジ待ちをしていた少女達は若者に釘付けになっていた。
 銀幕でしかお目にかかれない映画スターが空間を占めていると思えた。
 どの少女も生唾を飲み込むことさえ忘れ、貪るように若者を眺める。
 悪びれた感じの少女が声を掛ける。
「あんたこれから暇かい」
 若者は俯《うつ》いたままクスリと笑みを浮かべる。答える事無く、若者は清算を終えると店内を出る。何人かの少女がぞろぞろと後に従う。残念ながら少女達の誰も若者に付いて行く事はできない。道路を埋めた人垣が彼女達の行手を阻《はば》む。若者はその人垣を通り抜けているとしか考えられなかった。
 少女達は駆け出した。しかし若者の姿はどこにも見出せなかった。
 ひたひたと冷たい雨の滴る軒下に黒猫がひっそりと蹲《うずくま》っていた。
 黒猫がうっすらと瞼を開けると若者が立っていた。
「生きていたか」と若者は黒猫の横に置かれていた変形したアルミの皿へ牛乳パックから牛乳を注《そそ》ぎ入れた。立つのがやっというふうに黒猫は皿にそろそろと近づくと舌でちろちろと休み無く飲み始めた。若者は残りの牛乳を自らの喉《のど》に流し込んだ。
 次の瞬間、若者の身体がふわりと浮かび上がった。その上に若者のやさがあった。下はもう畳《たた》んだ鉄工場がある。
 部屋の明りが点いていた。
「りょう」と留美が部屋に既に戻っていた。
 二人は会うべきして出会った。
 冷たい国から留美は遣って来た。
 暗く何も無い世界、生まれた時からじっと息を潜《ひそ》め、耐《た》えることでしか生きられなかった。留美は二親を知らない。
 気がついた時には施設の中で毎日いじめの嵐の中で育った。誰も守ってくれる者など無かった。より強い者が弱いものを遣る。それが人間の宿命なのだと小さい留美は思った。だから誰の命令にも従った。全身をみみず腫が走るような拷問があった。頭から冷水を掛け続けられた。少女になると施設の大人から性的ないたずらを常に受け続けた。
 ある日、留美は施設から逃げた。
 外の世界をまったく知らなかった。
 興味があった。
 走り続けた。夜明けの海岸に辿り着いた。
 そこにもう一人辿り着いた者がいた。
 波際に人間が倒れていた。
 留美は全裸でその男を暖め続けた。
 男は青ざめていたが心臓が鼓動を打ち続けていた。
 やっと朝陽が昇った時、留美は男の腕の中にあった。目覚めた男が留美を起こした。
 名前を范享《はんりょう》とだけ言った。
 それ以外は何も覚えていないとも言った。
 男の両腿《りょうもも》に短剣を入れた鞘《さや》がバンドでしっかりと結わえられていた。
 二人は町へ出た。ネオンに誘われるように繁華街に足を踏み入れた。飢えていた。何かを食べなければならなかった。
 地回りが二人をやさぐれと取り違えた。
『おまえら、付いてきな』
 二人は言われるまま中年の男に従い、飲食店が雑居するビルに連れ込まれた。
『これを着な』と男は留美に下着のような服を差し出した。
『お前はこれだ』とスーツを差し出した。
 そこで留美は風俗の仕事を与えられた。
 享は黒服として働き出した。
 ある日、極道が留美の店で暴れた。
 敵対する組の若衆だった。
 留美の叫び声を聞いた時、享は部屋へ殺到した。両手にはすでに刃渡り二尺の剣-それが青龍刀であることは当時あまり知られていなかった。
 留美は享がまるで鳥のように舞う姿を見た。
 とても綺麗だと思った。
 留美を組み敷いていた全身に彫り物を入れた男の首から噴出した血しぶきが部屋を真っ赤に染め上げた。その若衆と一緒に遣ってきていた三人の男達が部屋に駆け込んできた。享は天井まで飛び上がるとそのまま男達目掛けて舞い降りた。そして次の瞬間には二人の男の首筋を断ち切っていた。残された男がドアから逃げようとした。それは不可能だった。享は壁を横に走るとやはり同じように男の背中に深々と刃物を差し込んだ。男の口から凄い勢いで血を含んだ嘔吐物がドアに噴出された。
 後始末にその風俗店を経営していた組の幹部が遣ってきた。部屋の惨状に驚いた。人間がやった仕事とは思えなかった。
 若い男が立っていた。その男に縋り付く様に全裸の女がいた。
『お前がやったのか』とだけ遣ってきた男は言った。若者が只者ではない事がすぐわかった。本家へ連絡を入れようと思った。ただの気まぐれではない。男はその若者が刺客として生きてきた者ということを見抜いた。
 店を任せていた店長から来る前に話を聞いていた。
『名前以外、一切記憶がないそうです。奴は中国人です。しかし、日本語も完璧に話します・・』
 留美は享と共に東京へ出てきた。
 相変わらず留美は風俗店で働いていた。
 だが毎日享と一緒に入られる。
 それだけで十分仕合せだった。
 享に毎晩抱かれて眠る。
 享とは一度も性交はしたことがない。
 留美の喜びは享の温もりだけなのだ。一度、享に性交を教えようと思った。留美がしたかった。だが、享は軽く留美の頭を叩くと全裸になって剣が縛り付けられた両腿を顕《あらわ》にした。
『禁じられている』と享は言った。
 それからいつも留美は享を全裸にすると自分も同じように全裸になって抱きつく、それだけで世の中の全てを忘れて眠る事ができた。
「享、本家から来るようにて」と留美は留守番電話の件を伝えた。
 確かに部屋に享が入って来た。
 留美は振り返るとそこには享の姿形が無くなっていた。

 藤本巌は予感があった。
 たぶん奴は部屋に既にいるだろう・・
 こんなに厳重に警備された本家の建物に容易《たやす》く忍込める者は享以外にはいない。赤外線による警報システム、テレビカメラであらゆる角度が見張られていた。
 組長室のドアノブを回し藤本は部屋の明りを点ける為にスイッチを入れた。部屋の中央の応接椅子にコート姿の若者が座っていた。
 藤本はある恐怖を禁じえない。
 この世の中には触れてはならない幾つかの物がある。
「来ていたか」とだけ藤本は言うと享の向かいに座るとマルボロを一本取り出し火を点けた。
「西の者を一人やる」と藤本は言うと、書棚からターゲットの組長の顔写真と住所の記載がある名簿を取り出した。
 藤本は既に誰をやるか腹を決めていた。
 たぶん享に依頼すれば、西のトップすら訳がないだろう、しかし、それではバランスが一挙に崩れる。この世界で生きてきた者として急激な変化は望まない。警察もそうだろう。西岡組長と貫目が釣り合う者をやる・・
 手提げ金庫のダイヤルを回し、中から二つ札束を取り出した。
「半分は始末を確認してからだ」と応接テーブルに札束を載せた。
 享は札束を鷲づかみにするとコートの胸ポケットに納め、そのままベランダから雨脚が強くなった外へ出て行った。
 ベランダはそのまま開け放たれていた。
 静かさの中に雨の音が響く。
 残された藤本はふとこん事を思った。
「奴と勝を咬み合せたら、どちらが勝つだろうか」

作者注:
 幾つか青少年に与える影響のある過激な表現があります。このため原文の一部を落としましたが作品の雰囲気を最低限残す部分を掲載いたしました。ご了解ください。

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2007年11月17日 (土)

やさぐれ勝の恋 九

      九

 光と影、街を行く車の放つヘッドライトがネオン渦巻くイルミネーションの中に消えようとしていた。どうして人間というものはこの明りに誘われ短い時間を費やすのだろう・・過去の記憶がフロントガラスに浮かんでは消えて行った。綾子の中でそれはネオンと共にフラッシュバックしていた。
「その答えは絶対に発見できない・・というアイロニーですね」と綾子は泉署長に答えた。
「なかなかやるね」とまだ身体のどこかしこが痛みに時々襲われるらしい泉は不思議そうな顔でルームミラーに写っていた。
「僕たちの向う先・・」泉は一度、生唾をごくりとやった。
「君はその真実というやつを知りたい、そして、僕はこの世界とおさらばしたい・・そのためにはこの心に押し込めたすべてを解放する時・・が遣って来たようだ、さすがにこれを胸に仕舞ったまま、この世界からはお暇《いとま》できないだろうしね」
 また雨がポタポタと遣り始めた。間欠ワイパーから連続にスイッチを切り替えた三治は綾子に問うた。
「お嬢さん、どこへ向います」
「できるなら・・」と泉は勝を改めて眺めた。
「こんな事を言える立場にはない、それはよくわかります。だがこの世に遣り残した・・二つの事があります」
 勝は泉の目の中に名状しがたい叫びを感じ取っていた。
「話してみな」と勝は泉に返した。
「函館へ行きたい」と言うなり泉は急に嗚咽《おえつ》し始めた。
「何度も帰ろうと思った。私の人生の始まり、すべては其処から生じた」
「じっと怯えてきた。たとえば・・」一度泉はしっかりと瞼《まぶた》を閉じてからかっと見開いた。
「同じクラスに嫌いな奴がいるとする。そいつは自分の席の左側にいる。そのため、視線は常に左側を見ないようにする。するとどうだろう、左側に何か恐怖が潜んでいる感覚が生まれる。ちょっとした物音が左側から聞こえるだけで飛び上がってしまう・・自分自身で創り上げてしまった恐怖。それが『函館』にある」
 綾子はルームミラーに写る泉署長の苦悶の表情を読み取ろうとしていた。
「とてもそこまで辿り着けない・・」綾子はそう言うとふとあることに思い当たる。
「なぜ、函館なの・・」
「ほんとうに君は懸命だ。実は僕自身、事件について真実を知らないのだ」
 綾子には泉が何を言っているのか判らなかった。
『真実・・』
「たぶん僕が犯人である推測が成り立つ、しかし、それはそこに僕がいたという事、そして、僕は確かに美沙の子供を振り回して玄関に投げた覚えがある・・」
「しかし、その後の記憶がはっきりとしない」
 綾子は祖父が残した黒革の手帳を残らず暗記していた。何度も繰り返しそれを読んだ。祖父の目撃した若者は泉のはずだ。亡き母もそう考えたに違いない。
 だが、その若者のはずの泉から直接に聞いた内容には『たぶん僕が犯人である推測が成り立つ・・』とはどういう意味。
 勝は泉に対して真剣にそして憤りともにこう言った。
「お前が遣ってはいないんだ。ただ怖くて逃げた、逃げて逃げて逃げ回って生きてきた、と言うことだな」
『ああ』と嗚咽と共に泉は泣き崩れた。
「僕は・・犯人を捕まえるために・・警官を目指した、そして一生懸命、勉強したんだ。一日だって忘れた事はない、あの日の真実を暴きたい」
 綾子は呆然としていた。
『この男は何を言っているの・・』
 泉は急にこんな事を言い出した。
「兎に角、ここから北へ向かわなくてはならない・・非常警戒が幹線道路に引かれる。そうなっては身動きできなくなる」
 確かに泉署長の言うことに一理あった。
 もし、泉が西岡組長殺害で逮捕されたらとしたら、過去の罪状など泉が告白する事は永遠に訪れない危惧《きぐ》がある。
 こんな人数でどうやったら函館に辿り着けるというの・・
 泉は自分が警察署長であった事に気が付いた、それからは的確な指示を出し始めた。川崎駅西口でジャガーを捨てた一行は最終の立川行きの国鉄南部線に乗り換えた。
 妙な一行だった。
 妙齢の婦警と警察署長、パンチパーマに赤いジャンバーの三治、雪駄履きに黒の着流しを着た勝。まったく可笑しな一行だ。
 酔客でごった換えした車内は誰も勝と三治とは目を合わせなかった。その二人に守られるように乗り込んだ泉と綾子。
 確かに乗客は狭い空間にその一行と隙間を開けるためにさらに狭い空間に押し込まれていた。
 川崎駅から何番目かの駅で一行は下車した。そこから徒歩で署長の家へ向った。
 駅前のコンビニエンスストアーでビニール傘を買う必要があった。
 雨が降り続けていた。
「本降りになっちまった」と三治はテラテラと駅前の明りに反射するビニール傘を差した。
「服装を変える」
 たぶん逃亡者がよくやる服装の交換を誰もが想像した。泉は南部線沿いにある署長の自宅に全員を案内した。
 誰もがその平屋の家屋の質素さに驚いた。
「寝に帰るだけだ」と泉は言うと苦笑いした。
 泉は家屋に隣接した車庫を開け、黒のセダンのエンジンに火を入れた。
「幸いここには二人本物の警官がいる。この事は非常に有利だ」
 綾子は泉の真意を推し量っていた。
「これから僕たちは犯人を函館まで護送する担当者と犯人の役を演じる」
「警察手帳が物をいうのね」と綾子は自らの職業を最大限に生かせる逃亡方法について泉署長の聡明さに驚いていた。
「犯人は?」と三治が言うや誰もが勝ほど適任者はいないことに頷いていた。
「俺しかいないだろう」と勝はそっけなく答えた。
 アスファルトを濡らす漆黒と悲しい光がどこか凍てついた悪寒を綾子は禁じ得なかった。
『どこかが違う・・ずっと憎しみだけでここまで生きてきた・・どうしたことだろう、この男の闇は益々深くなる一方』
 さらに冷たい雨が激しくなっていた。

 西岡組事務所に残った隆二はこういう筋立てに決めた。
 敵対する組の襲撃があった。そしてその一行が泉署長を浚《さら》った。綾子と勝の事は一切出さない。事務所に残った若衆にこう言いくるめた。
「組長をやったものが逃げた。お前たちはこれから一切口を噤《つぐ》め、それが盃を貰う条件だ」
 暗黒街の掟など持ち出さなくても、こいつ等が行くところなど無い。
「へい」と直《すなお》に奴等は頷《うなず》いた。
 救急車が呼ばれた。既に西岡組長はこと切れていた。パトカーが到着する前に隆二は救急車に同乗して組事務所を脱出した。
 奴等が口を割るのは時間の問題、兎に角、矢面《やおもて》に立たない事だ。本家から連絡が入るだろう、『組長の傍に付いていた』それだけで充分な言い訳が立つだろうと隆二は考えた。仮にも関東を中心とする組である。まして神奈川最大の川崎を〆ていた組長が射殺されたのだ。間違いなく報復が成される。理由《いいわけ》や犯人《ほし》などまったく必要がない。早朝にはヒットマンが神戸のどこかの組事務所に鉛の熱い弾をぶち込む。西岡組長と釣り合うだけの貫目の組長が襲われる。そして、どこかの有力な任侠団体の組長からの休戦の話《な》しが来る。そしてどういうわけか手打ちの儀式が取り持たれ、少々縄張りの切り張《ば》りが変わる。後の残された隆二達は西岡組長亡き後の後継者争いに巻き込まれる。この辺りはまったくのお決まりの筋書きだ。だが、隆二はこう考えていた。『こんなチャンスはない、俺が西岡組を継承しようじゃないか』
 今夜、隆二は西岡組長に破門を言い渡してもらうつもりだった。それが、どいう具合か向こうからこっちへ転がり込みやがった。
『まず、頭《かしら》を病院に呼びつけようじゃないか・・』
 隆二は西岡組長の冷たくなった手を握力の限り握り締めた。『冷たいぜ・・』

 警視庁捜査一課特殊班のチーフ本村恒孝警部補の携帯が鳴り響いたのは深夜二時を回っていた。御前様でやっとの思いで実家の二階のベッドに転がり着いていた。黒のずぶ濡れのコートを椅子に投げ捨てて、倒れこむように横になっていた。
「この野郎」率直な思いだった。
 携帯からこう聞こえてきた。
「本村警部補、川崎の○○署の署長が誘拐されました。犯人は川崎西岡組組長を射殺して、現在逃走中です。緊急招集です」
『ああそうかい、どこかの署長が極道との逢引中にその組長が射殺されて誘拐された、自業自得《じごうじとく》』と思ったが流石《さすが》に口には出さなかった。
「は、了解しました。直ちに本庁へ向います」
と言ったのはよいが、とても宿酔いで身動きが取れなかった。
『馬鹿野郎・・』と思ったが、本村はずぶ濡れのコートをやっと身に着けた。
 部屋のドアが開いていた。母親が立っていた。
「こうちゃん、タクシー呼ぼうか」
 本村の父親も警官だった。既に退職している。市井で一巡査を三十以上勤め上げた。本村は今年本庁に上級職で採用された。父と同じ道を歩まない。そうずっと思い続けて生きてきた。だから、東京大学に入った。キャリアになって父を超える、それが夢だった。しかし、実際入庁してから、本村は荒れ捲くっていた。
『こんな組織いつか必ずぶっ壊してやる』という思いだった。
「かあさん、タクシー呼んでくれ」
 タクシーが到着して、階下に下りると、玄関に寝巻き姿の父親が待っていた。
「こう、頼んだぞ」
 死ぬまで警官を辞めない父親に取って本村こそ自分の生きた証《あかし》なのだ。邪険にはできない。本村は敬礼をすると、
「は、本村警部補本庁へ向います」と答えた。
 幼い頃から父親の真似をして育った。
 初登庁の日、所属長から『本村君の敬礼は堂にいっている』と言われた。
『当たり前だ、生まれた時から、本物の警官に教えられてきたんだ』とその時、いつも交番の前で警邏捧を支えに立っている父親の姿が浮かんだ。雨の日も風の日も、彼は立っていた。何度も通学の途中でその姿を目撃した。しかし、一度も本村は面と向って声を掛けたことは無い。何かとても神々しい姿だった。『市井を支える警官の存在があることを組織の幹部は何も考えていない・・』
『悪い奴等は根こそぎ遣っ付けてやる』が本村の身上だった。
 タクシーは全てを流してしまうような勢いの雨の中を駆け抜けていった。
 ぼんやりした光の渦がどこか疎らな暗闇と入れ違いに本村の目に飛び込んでくる。
 タクシーのラジオから、
「今夕、川崎市内の西岡組組長が射殺され、現在川崎市内に警視庁が警戒態勢をしいています」と流れた。
『俺が全部遣っ付けてやる』と本村は独り言を言った。

作者注:
本村警部補は「恋愛小説依存症候群」に登場する本村警視正と同一人物です。
この「やさぐれ勝の恋」はその前の物語になります。

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2007年11月 8日 (木)

やさぐれ勝の恋 八

      八

 その夜、西岡組組事務所当番担当の若衆三人は組長室からの銃声を聞きつけ駆け出そうとした矢先、その音を超える激しい音で一瞬金縛りになった。
 玄関の擦りガラスが入った格子戸にダンプカーが飛び込んだ・・と思った。
 振り返った三人はそこに巨大な熊が仁王立ちで立っていると錯覚した。
『うぉ』と確かにそう聞こえた。
 次の瞬間、その人の形をした鬼の形相の生き物が三人の横を眼にも留まらぬ勢いで駆け抜けていった。
 誰も動けなかった。
『この世の物ではない、もののけ・・』
 勝は脳で嗅いでいた。そこに勝の命より大切な者の放つ気を感じ取っていた。それは今まで感じたどの憎しみより激しい嘆きを伴うものだ。
 ほんの数分前に組長室でこんな遣り取りがあった。
 それまで怯えきっていた泉が下を向いたまま急に笑い出した。
「くくく、僕はあの夏の日、とても愉快だった」
 綾子と西岡組長は泉署長の急変に気が狂ったと思った。
「僕の獲物・・君のおじいちゃんがじゃまをしたんだね、あの女もそして子供、僕が飼っていたんだ」
「あの夏、警官が家に遣って来た。下着泥棒の捜査で、でもそれは美沙にさせた狂言だったんだ。警官は美沙の誘いに家に上がってお茶を飲んだ。僕は前から奴が気に食わなかった。そうさ奴は僕を駅前で辱《はずかし》めた。不良連中を使ってかつ挙げをさせていたんだ。そこに聖人顔の奴が現れた。不良連中は逃げたけど、僕は逃げ遅れちまった。道端で僕の詰襟《つめえり》をぎゅぎゅと締め付けやがった」
「くくく」泉は両手で口を押さえ笑いを堪える仕草をした。
「美沙にこう教え込んだ。奴に犯されろ・・」
「くくく」
「警官は・・」
「いい加減にしろや」
 耐えかねた西岡が口を開いた。
 泉はいきなり背広の内側のホルスターからS&Wのリボルバーを取り出すとなんの躊躇《ちゅうちょ》も無く西岡組長を弾《はじ》いた。
 実に滑らかな動作だった。
「塵虫《ごみむし》は黙っていろ」
「お嬢ちゃん、そんなおもちゃで遊んじゃいけないよ」
 眼の前にいる泉署長は別人のように笑みを浮かべていた。
 隆二は銃声と共にドアに肩から飛び込んだ。しかし、簡単に隆二は跳ね返され廊下に転げ落ちた。組長室のドアは襲撃に備え、中に鋼鉄の鉄板が仕込まれていた。通常弾ではビクともしない頑丈な造りだ。さらに内側からしっかり施錠されていた。隆二は立ち上がろうとした矢先、何かとんでもない気配を感じた。
隆二の天性の獣性がそれを感じさせた。その矢先、事も無げに何者かがドアを破壊して組長室に飛び込んだ。
「兄貴・・」
 勝は虎の水墨画をあしらった屏風を蹴倒して部屋に飛び込んだ。
 部屋に背広姿の男と綾子がいた。
『やはり綾子だ』と勝は脳で感じた気配が正しかったことを改めて知った。
 泉は飛び込んできた男を西岡組の者と判断した。
「お前、この女がどうなるかわかるか」
 泉は綾子が携行してきたベレッタM92を取り上げていた。両手で拳銃を弄遊《もてあそ》んでいた、引き金に入れられた人差し指を中心にぐるぐると回っていた。
「チンピラが・・」
 綾子は思わず声を上げそうになった。
 目の前に居る筈のない男が仁王立ちでいた。
「ほう、お前の知り合いか・・」
 勝は背広の男が普通ではないことを覚った。
 顔が妙ににやけている。
『うぉ』と泉は確かに聞こえた。
 次の瞬間、まさかが起きた。
 数メートル離れていた男が泉の両腕を押さえつけていた。何が起きたのか理解できなかった。身体が裂けるような酷い激痛が全身を走った。骨がメキメキと砕ける音がした。身体が熊のような男によって高く持ち上げられていた。
「勝やめて、この人は警察署長よ」
 綾子はなぜ止めたのか自分でも判らなかった。
 勝は綾子の声でこの世に戻ってきた。
 綾子が止めなければ、泉署長の身体は半分に裂けていたかも知れない。
 勝は泉署長をペルシャ絨毯に放り投げた。
 華奢《きゃしゃ》な身体をした泉は絨毯の上で激痛で悶えていた。背骨がバラバラになった感覚があった。息をするのでさえ困難だった。
 ドアが押し倒された組長室の入口で隆二は勝が管轄署の署長泉を持ち上げているのを目撃した。
 横に綾子が立ち竦《すく》んでいた。
 そして、応接のソファに西岡組長の遺体があった。
「あや」と隆二は組長室に駆け込んだ。
 綾子はそこに隆二がいることに不思議な驚きがあった。
「隆二・・」
 ある意味不可解な偶然が積み重なり、その場は、綾子を中心とする運命の糸車に巻き取られた人間模様に彩られていた。
 遠くからパトーカーのサイレンが聞こえてきた。綾子は二つの選択肢に迫られていた。この状況で泉を司直《しちょく》の手に委ねる。『だめ・・』と綾子は考えた。泉は例え西岡組長の殺害を自白したとしても、正当防衛を主張すればそれが通る恐れがあった。彼は仮にも警察のキャリアなのだ。この場にいる証人の誰にその証明ができようと綾子は勝、そして隆二の顔をため息混じりに眺めた。彼らが悪い訳ではない、一人は博徒一家の強力、片割れは極道なのだ。まず泉の証言が通る。そういう世界だ。
 もう一つの選択、泉を浚《さら》い、真実を聞き出す。そうしなければ、綾子の気が修まらない・・お母さんもそしておじいちゃん・・泉から聞きだすチャンスは永久に来ない。綾子、勝、そして隆二も闇に葬られる可能性がある。
「隆二、この場を任せる。そして勝、私達をどこか安全な場所へ連れて行って・・」
「綾子、それはどういう意味だ」勝が呆然自失した表情で綾子に問うた。
「ふふ」と絨毯でのた打ち回る泉から聞こえてきた。泉は仰向けで綾子に微笑んでさえいた。
「僕が知っている」
「君の望むようにしよう、そこの大男、この女の言う通りにしなさい」と泉は今までの苦痛が嘘のようにすくっと立ち上がった。
 綾子は何か背筋を冷たい物がすーっと通り過ぎたのを感じた。
 隆二は色々な男を見てきた。勝もその中の一人だ。恐ろしく頑丈な身体の持ち主だ。だが、至ってシンプルな性格を持っている。どうだろうそこに立っている、一人の男、いまだ過って知らぬタイプ・・蛇のような滑《ぬめ》りを禁じえない、心の底から得たいの知れない悪寒が身体全体を襲う。
 隆二は綾子の暴走を止めるべきと思った。
 これ以上はとんでもない事が起きる。もうすでにとんでもないことが起きているには違いない、しかし、これ以上の傷口を広げる必要はない・・
「あや、この男を警察に突き出そう」それが隆二の答えだ。隆二は綾子の事情を知る者ではない。
「隆二・・」と勝はじっと隆二を睨みすえた。
勝の腹は定まった。俺は真由美に約束した。綾子を守ると・・それは勝のたった一つの嘘を守る事でもあった。
『勝、あやをお願い・・』今わの際の真由美の願い、そう綾子はこのために生まれてしまった・・と勝は改めて我心を静めた。
「隆二、綾子の言う通りにしてくれ」
 隆二は勝の顔を穴の開くほど眺めた。
 綾子の瞳に薄っすらと涙が浮かんでいた。
 隆二の与《あずか》り知らぬ勝と綾子の心の機微を隆二は感じ取った。隆二は返事もせずに絨毯に転がり落ちた二挺の拳銃を拾おうとした。
「お前、それを触っちゃいけない、お前の指紋がつく、ほんとお頭《つむ》が悪いな」泉だ。拳銃に伸びかけた手を隆二は引っ込めた。確かに泉署長の言う通りだ。今、拳銃には泉の指紋がべったり付いている。状況証拠から言ってもそれは重要な点だ。それを自ら守ろうと泉はした。その不自然さにその場にいた全員が改めて不気味な笑みを湛《あたた》えた泉の不敵さに尋常でないものを感じた。
 壊れたドアの向こうに腰の引けた事務所当番の若衆が恐る恐る聞き耳を立てていた。
 サイレンがさらに近づいていた。
「綾子、出る」勝の決断だった。
 これからどうなるなんか先は見えない、だが、きっとこの先に何かある。人生なんてそんなもんだ。全部先がわかるようじゃ何も生まれない、そう勝は思った。隆二が残った。西岡組の若衆に見守られ事務所を綾子を先頭に、泉、そして勝が続いた。
 壊れた玄関先に隆二に預けるはずだった三治がいた。
「あやお嬢さん・・」
 三治は事務者から綾子が出てきたのに驚いていた。
「三治、お前そこの車を運転できるか」と勝は顎《あご》で駐っていたジャガーを指した。
「へい、あっしの唯一できる事が転しだけでさ」と三治はジャガーの運転席に転がるように入るとイグニッションキーを回し、冷めかけたエンジンに渇を入れた。
「さあ、綾子」と勝は泉と共に後部座席に滑り込んだ。助手席に収まった綾子が一度後部座席の勝を振り返った。その瞳はどこか憂いを含んだものだった。生まれた時から一緒に居た。手に取るように心の内が分かる。
「砂を砂漠に隠すにはどうするか分かるか・・」泉が突然不思議な事を話し出した。
『砂を砂漠に隠す・・』
 バックガラス越しに寒々として青白き満月が顔を覗かせていた。

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2007年11月 4日 (日)

やさぐれ勝の恋 七

      七

「隆二じゃねか」銀蔵が入口の隆二を認めた。
 クラブ『再会』は水を打った静けさの中にあった。そもそも銀蔵を府中へ送った原因の一つが隆二が草鞋《わらじ》を脱いだ組にあると考えられていた。
「隆二そんなところで立っていないで中に入りな」
 とその子が花束を抱えたまま身動きできない隆二を店に誘《いざな》った。
 隆二は銀蔵のボックス席に足早に詰め寄るとフロアーにしゃがみ込み、
「親分、おめでとうございます・・」
「俺はここに来れる人間ではない、だが、一言言わずにいられない」
 クラブにいた子分等の顔の何れも怒りに似た表情を浮かべていた。
「俺は一切、親分の捕まった件に係わりがねぇ・・と言っても、信じられねかもしれない、あの日・・ちょっとした事で外へ出ていた・・」
「まあそんなとこに居ないで、ここにお座り」
 その子がボックス席に一人分の隙間を作った。丁度、銀蔵とはクリスタルガラスのテーブルを挟んだ位置だ。隆二はその子に花束を渡すと改まって、
「言い訳なんぞしません、俺は俺の生き方でそれを証明する・・」
「なに言ってやがる」と三治という蓮っ葉な若衆が横から口を挟んだ。
 銀蔵は片手を上げ三治の物言いを止めた。
「兎に角、隆二の言い分とやらをじっくりと聞こうじゃねぇか」
 勝はカウンターからじっと隆二の背中を眺めていた。一度は親子の盃を交わした者である。
「俺は組を割って出ます」
「お前の男を磨くというのはもう成ったとでも言うのか」
「まだ道半《みちなか》ばです。俺はどうも現代極道社会というものと水が合わないようです」
「何かい、水が合わねぇからといって、すぐに割って出るとはあまりにも辛抱が足りねぇのじゃねぇか」
「俺は親分から仁義の何たるかを教えてもらった。しかし、今の組には仁義の欠片《かけら》の一片さえありゃしない、そこで修行するのは意味などありゃしない」
「隆二」銀蔵が今までの温和な顔付きが一変した。
「この世の中にこれぽっちも意味の無ぇ事なんかありゃしない、雨がふりゃ傘を差す、その傘を作っているのは人だよ、そしてその傘を作って生きている者がいる、隆二、ほんとうに旨い具合に世の中というものは回っている、そこでどう生きようがてめぇの勝手だが、・・」
「辟易しちまった俺の心はもう限界をとうに越しちまった。若い馬鹿な女をキャバクラに落とし込み、馬鹿な客から金を巻き上げる、馬鹿な女達の末路はお決まりの馬鹿な男に捕まり、最期は野垂れ死に、通っていた馬鹿な男共はサラ金に金を借り捲くり、最期は破産宣告、家族も家も失い、駅を寝庫《ねぐら》の宿無しがお決まり、その道筋を付ける肩捧《かたぼう》を担《かつ》ぐどこに道を極める行き方などありゃしない」
「聖人君子のような世界など最初から無いんだよ隆二、どんな生き方をしようが、その中で全力で生きる、必ず明日がある、そう信じて、皆生きているんだ」
「確かに明日が何か良いことがあるかもしれねぇ、だがそれに満足なんてできないんです。銀蔵親分」
 隆二はすくっと立ち上がると、自らを鼓舞するように、
「俺は俺がいいと思うような組を創りたい、誰にも後ろ指を差されねえ、一点の曇りもないあの青空のように誤魔化しがない世界をこの手でこさえたい」
「そんな綺麗事ができる訳がねぇ」とまた三治が横槍を入れた。
「三治、お前は黙っておれ、隆二、よくあいわかった。これからどんな事になろうが、俺はただの傍観者になろう、そしてお前が本当にそれを成し遂げた時、俺は認めてやろう、初代今岡組組長、今岡隆二を・・」
 隆二は頭を垂れ暇《いとま》を告げるとカウンターの勝を認め遣って来た。
「兄貴、お騒がせしやした。この通りです」
 と再び頭を垂れ、スーツの内ポケットから祝儀袋を取り出した。
「些少ですが納めてつかあさい」
 どうみてもその厚みは百は下らないようだった。勝は一度銀蔵を見ると銀蔵は軽く首を横に振ったのを見取った。
「隆二、気持ちは確かに受け取った。お前の門出だ博徒にとって出銭は縁起が悪い、それを納めてくれ」と勝は言った。
 銀蔵の出所祝いに駆けつけた隆二の馬鹿者も銀蔵の気持ちも全部、勝は手に取るように判った。これから何かと物入りの隆二にとってその金は決してはした金どころではない、命を振り絞った末にやっと手に入れたものに違いなかった。
「すまねぇ」と隆二は祝儀袋を胸元に納めると店を出ようとした。
「ちょっとお待ち」とその子が呼び止めた。
 その子は両手に火打ち石を携えていた。
「あんたの門出だ。さぁ」とその子は火打ちをカチカチと打った。
 隆二がクラブを後にしてから勝は銀蔵の席に呼ばれた。
「あいも変わらず馬鹿な生き方しかできねぇ奴だ。勝、俺はちんけな渡世にあいつを出したつもりはこれっぽちもねぇ、これからあいつが何をやるか手に取るように判る。あいつが五体満足のまま人生を送って欲しいと思う、
あいつの行き先は決まっている。そこへ行ってどうか治めてくれ、そして、三治、お前にはまだ盃を授けていない、しかし、おれはお前を旅に出そうと思う・・隆二のところで男になれ」
『ああ、と勝は思った。一度は傍観者と言った銀蔵だったが、やはり・・』
 勝は三治を従えその子のクラブを後にした。
 カウンターに残った、銀蔵強力衆の本村正次郎が「川崎に血の雨が降りやす」とため息をついた。

 秋の寒々とした町並みに薄ぼんやりとした月が雲間から覗いていた。
 銀柳街からわき道に入った所にその組事務所があった。 
 入口に白のダブルスーツの隆二が現れたのは既に夜十時を回っていた。この金看板が入口にある組に隆二は五年ほど草鞋を脱いだ。この組の歴史は古い、戦前から一代で築いた伝説の博徒がいた。しかし、もはや往時の任侠道は廃れ、その暖簾《のれん》は名ばかりとなり、今では上納金集めに躍起となる大小様々な組を締め付けるだけの組織としての機能があるだけだ。入口に組長の送迎に使う黒のジャガーが道を堰き止めるように駐車していた。
 事務所に当番の若衆が三人いてテレビを見ていた。
「お疲れさんです」と三人が起立した。
「おやっさんはいるかい」
「へい、客と一緒に奥にいますぜ」
「客?」
「署長と若い女です」と髪を真っ赤に染め、耳にピアスを着けた若衆の一人が答えた。
「若い女?」
「こ一時間ほどなりますか」
「それが、妙なんです・・茶を運んだ時、女が組長の机にいました・・」
 隆二はいやな予感がした。
 隆二は奥の組長室へ向った。
 微かに人の話声が聞こえる。
 何度か会った事のある警察署署長の声のようだ。
 話は途切れ、途切れのように聞こえた。
 それはまるで独り言のようでもあった。
 隆二はそっとドアに近づき聞き耳を立てた。

 ドアを開けるとすぐに虎の水墨画をあしらった屏風がある。
 部屋の床は厚い高級ペルシャ絨毯が敷き詰められ、調度品のどれもマホガニーの家具で統一されていた。遮光性の厚手のカーテン生地が外の明りを一切遮っている。
 綾子はこの部屋で一際重厚な雰囲気を与える一枚板の机にいた。
 しっかりと握り締められた拳銃の標準が二人の男に向けられていた。
 スタンドランプだけが灯されていて部屋全体が暗闇のようであった。
 綾子の手にある銃は警察支給のリボルバーではない、イタリアのベレッタM92である。
「お前が・・」憔悴しきった署長はネクタイを緩めきった姿で黒革の応接椅子に座っていた。その隣に胸元から赤いハンカチーフが覗く黒のスーツに身を包んだ男がこの組の組長西岡一雄だった。
「それで殺したの・・」と綾子は銃を持つ手が思わず震えた。
「署長よ、あんた仇持《かたきも》ちかよ」
 西岡組長は他人事のように言い放った。
 今夜、綾子は署長をこの組事務所に来るように連絡を入れた。何度か脅迫めいた手紙を送りつけた。署長の泉重一《いずみしげかず》はその送り主が自分の署のそれも婦人警官とは思わなかった。組長室に入るなり拳銃を構えた綾子がいた。組長と遣って来たという。
 女は函館の事件を知っているといきなり泉に話した。
『そんな馬鹿な話があるか、すでに・・』
 泉は心の奥に隠し続けてきた昨日が突然顔を出した思いがした。
 ドアの外に隆二がいる事を綾子が知る訳がなかった。
 そして西岡の組事務所の前に三治を従えた勝が漸《ようや》く到着した。
 勝は確信していた。
 今晩、ここで何かが起きる。
 それはこれまでじっと地中で眠っていた蝉《せみ》がやっと幼虫から成虫へと変わる時が遣って来たのだ。
 一発の銃声が事務所の中から夜空に向け鳴り響いた。

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2007年10月30日 (火)

やさぐれ勝の恋 六

      六

 スナックが雑居する古いビルの二階にその子のクラブがある。その子に従い勝と銀蔵は階段を昇り始めた。階段室辺りから花輪《はなわ》が処狭しと並べられていた。どの花輪にも全快祝いと熨斗《のし》が掲げられていた。
「おいこりゃ俺のか」と銀蔵は花台に書かれた贈呈主を丹念に確かめていた。いづれも同じ業界の親分衆からのもので、いかに銀蔵がその筋で顔が広いかが判る。
「あんたにきまってるじゃない」とその子はそのまま二階に上がりきった。二階の薄暗い廊下に辿り着いた時にはその子はすでに店に入ったらしい。銀蔵は、紫の行灯《あんどん》に『再会』とある店の扉を開けた。
 店の中は間接照明のため廊下に比べさらに薄暗かった。
 突然、ポンポンと音が響いた。シャンパンを開ける音だ。
 店が急に明るくなると、
「親分お疲れ様」と一斉に和唱が迎えた。入口で立ち止まっていた銀蔵は面食らっていた。
「さあ親分、皆が待ってますぜ」と勝は銀蔵を促《うなが》した。
 二十坪ほどの広さの店内に所狭しと銀蔵を祝うために子分達が待ち受けていた。
 銀蔵と勝は一番大きなボックス席に納まった。銀蔵は席に着くと一同を見回した。どの顔も銀蔵がこの世で縁を結んだ者達であった。
「さて、乾杯でもしようじゃないか」とその子が感激で声の出ない銀蔵に代わった。
「勝、あんたが音頭を取りな」
 とその声で皆のグラスにビールが注《つ》がれた。
 勝は立ち上がり、
「それでは、親分の全快を祝して僭越《せんえつ》でありますが、乾杯の音頭を努めさせていただきやす」
 勝の音頭で一本締めが終わるとクラブの中は邂逅もそっちのけで乱痴気騒ぎとなった。子分にとって親に当たる親分の出所で箍《たが》が外れたようだ。古株の強力衆二人がカウンターで店のホステス相手に一杯遣っていた。勝は席を引くとカウンターに合流した。
「おう勝か」と短く綺麗に五分に刈り上げた胡麻塩頭の本村正次郎がコップで乾杯する仕草をした。その横が銀蔵の幼馴染の横川為吉である。二人とも銀蔵と鉄火場を越えてここに存在する。あの浅草の伊地知栄治と渡り合ったことを勝は駆け出しの頃よく二人から聞いた。
 勝は強力の為吉に会うと大映映画の市川雷蔵最期の主演映画を連想する。桜田丈吉という名前の博徒が義理掛けで北陸まで命を賭けに行く、どこかその主人公と為吉は重なると常々思う。この世界の者同士、触れてはならぬ闇の一つや二つぐらいは必ずあるものだ。
「あやは来ないのか」と正次郎が問うた。
 至極《しごく》当たり前の質問かも知れない。親の出所祝いに実子がいないのは筋が通らない。
「へい仕事だと聞いておりやす」
「まあ堅気になった事だし、しょうがねえ」
 と為吉が助け舟を出す。
「警官といやまったく棲《す》む世界が違うぜ」
 と正次郎も相槌《あいずち》を打つ。
 勝は銀蔵に綾子の所在について説明をしていなかった。綾子を呼んで会わせることを躊躇《ちゅうちょ》していた。
「おらてっきり銀蔵があやを緋牡丹《ひぼたん》のお竜に仕立て挙《あ》げると期待していたんだが・・」
 と為吉はすっかり角氷が溶け切った水割りを一気に喉《のど》へ流し込んだ。
 その時、入口を勢い良く開けた者がいた。
 いままで騒ぎに加わっていたクラブの黒服が慌て蝶ネクタイを直しながら入口へ駆けて行った。

 今岡隆二という銀蔵一家の金看板の強力がいた。
 勝は隆二との出会いを今でもはっきりと思い出せる。川崎駅のロータリーで数十人のチンピラに絡《から》まれていた隆二を・・
「おいお前たち、俺をやるには人数がたりねぇ」
 長雨が嘘のように晴れ渡った六月だった。
 銀蔵に世話に成る様になって数年が過ぎていた。賭場の下足番《げそくばん》から客への世話係りぐらいになっていた頃だ。
 どうみても中学生ぐらいにしか見えない少年が、その当時辺り一帯を仕切っていた組の子分等を相手に啖呵《たんか》を切っていた。
 勝はその少年の眼に尋常《じんじょう》ではない何かを感じ取った。
 獣としかいえない凶暴な性格を生まれながらに備えてこの世に生まれてくる者がいるとしたら、それは隆二なのかもしれない。
 捨てゴロが旨い奴は多かれ少なかれ、人生は太く短くなる。
 少年は蝶のように舞、喧嘩慣れしたチンピラを翻弄して次々と薙ぎ倒す手管《てくだ》は熟練した喧嘩師のそれだった。
 当《とう》に駆けつけていた警官等も鎮圧するどころか、静まるのを傍観していた。
 勝は少年を制止しようと思った。この生き方を止めなければならい・・
『奴は死にたがっている』
 突然少年の前に優に六尺を超える巨漢が立ちはだかった。
 少年はその男の急所に蹴りを入れたが、男は逃げるどころか方手で足を止め、そのまま釣竿で吊り上げられた小魚のように少年を持ち上げると振り回し始めた。そして少年はそのままアスファルト目掛けて放り投げ捨てられた。
 そこにチンピラ供が殺到しようとしたが、巨漢が立ちはだかった。
『手出し御無用』と勝はチンピラを睨《にら》み据《す》えた。
 中に勝のことを知っている者がいた。
『こいつぁ・・やさぐれだ』と言うとチンピラ供は蜘蛛の子を撒き散らしたように一目散に逃げ出した。
 アスファルトから立ち上がった少年の目が新しい獲物を発見した狼の眼をしていた。
  勝は振り返り、取り囲んでいた人込みを掻き分け歩き出した。
『おい待ちやがれ、そこの独活《うど》の大木《たいぼく》』
 勝は人込みから少年が殺到する足音を聞き分けていた。軽く体をかわし足払を少年に掛けた。少年は前のめりに激しく再びアスファルトに叩きつけられた。
『行く処が無きゃ、付いてきな』

 あれから十度ほど桜が舞った。
 生き急ぐ若者は少しづつ社会というものを学んだ。徒手空拳の一匹狼はやがて博徒を卒業し極道になると言い出した。
『なげえ間、お世話になりやした』
 銀蔵と勝の前で隆二は畳に額《ひたい》が着くほど頭を下げた。
『訳などは聞かぬ、お前の性根《しょうね》を俺は良くわかっている』と銀蔵は合わせの懐から、折りたたんだ和紙を取り出した。
『勝、そこから硯《すずり》と筆を頼む』
 いわゆる除籍の旨を双方が血判を持って認《したた》め合う回状を、銀蔵は二通作成した。極道のそれとは異なるかもしれない、破門、絶縁、除名と色々な抜け方がある。その中で自らの届けを持って親子の縁を切る場合、もっとも軽いのが除籍となる。極道ならば指の一本も添えるのが筋である。
 隆二は事が成るとダブルのスーツの胸元から紫色の絹袋に納められていた盃を取り出した。
『この重みを俺は誰よりもわかりやす、だが、俺の中にある、消しても、消しても消せねえ、炎がチロチロとこう言いやす、何度も、何度も、それでいいのかと・・俺は親の顔も知らぬ捨て子としてこの世に生を授かった。爾来《じらい》すべてを憎む事が俺にとっては生きる目的のような生き方をしてきた。そんな時に勝兄貴に出会った・・まるで富士山のような大きな男というものを・・俺は初めて知った。この男のようになろう。そう誓った。あれから親分に育てられ、銀蔵強力四人衆の末席に席を置けるようになった』
『だが・・俺はそれに甘んじるような生き方ができねえらしい・・』
 隆二は頭を畳に下げたまま淡々と自分に言い聞かせるように語った。
『このご恩を返さずに返盃をする馬鹿者をどうぞ許してください』
 畳にはうっすらと涙の雫が滑《ぬめ》りを作っていた。
 勝の地獄耳は廊下で聞き耳を立てる息を感じ取っていた。その者が流す涙が廊下の床板に次々と滴り落ちポタポタとする音をはっきりと聞いていた。
 綾子十五の失恋の夜はこうして迎えられた。

『りゅうたん・・』
『りゅうちゃん・・』
『隆二・・』
 綾子は小学校に入る前から隆二を兄のように慕った。隆二もまるで実の妹のように綾子を可愛がった。

 クラブ『再会』の入口に花束を抱えた白のスーツに身を包んだ隆二がいた。
 勝は銀蔵といい隆二といい波乱の予感を禁じえなかった。
 間違いなく止まっていた時計を誰か巻き上げたらしい・・

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2007年10月 7日 (日)

やさぐれ勝の恋 五

      五

 話を元に戻そう・・
 銀蔵が懲役を終え、その子がやっているクラブで出所の祝いを行うこととなった。
 川崎駅からさいか屋の裏側に堀の内辺りまで続く銀柳街がある。戦前、古川という川岸に柳が生い茂る川が流れていた。市が雇用促進を兼ねて川が埋め立てられた。両岸に生い茂っていた柳が商店街の有志によって守られた。それがいつしか銀座という東京の繁華街と柳を掛けて『銀柳街』となった。とても銀座とは比べられないが、彼らの願いが川崎第一の繁華街に発展した。そこから仲見世通りを抜け、ソープ街が続く南町の外れに飲食店が雑居するビルがあった。その子のクラブはその中にある。その子は赤坂で芸者をやっていたと勝は聞いた覚えがある。この生業の者の女房は、ある日、男が懲役に行く、ある意味、契りを交わした時から約定となる。つまり普段『姐さん』と呼ばれる女房連中は旦那の稼ぎを当てにはできない。いかんせん水商売から身体の売《ばい》までやってやさを守る。旦那の帰りを一人で待つ、それ故に男は徹底的に女を大事にする。だから、頭が上がらない。
 男もシャバでかわいい女房が待っていると考えると辛い懲役も我慢ができる。
 その子は銀蔵と所帯を持った時から、水商売を生業《なりわい》としてきた。六年前に銀蔵が再び懲役が決まった時、預かっている子供だけでも二十人を超えていた。預かるとは正式に盃を与えていない未成年ばかりだ。博徒の世界にも親子の固めをする盃事がある。男と女が神殿の前で三々九度を行うことで契りを交わすのと同じだ。まったく血縁関係が無い者同士が親子の契りを附ける。こうして代々縄張りが次の世代に受け継がれていく。だからほんとうの親子の血による継承は逆に少ない。その町を支配する色々な力の中にあっても賭場を開ける権利を有する者は、実は代々受け継がれてきた者だけなのだ。余所者《よそもの》が突然やってきて賭場を開いたとしても、権利のある者によって徹底的に叩かれる。極道が賭場を開くように思えるが、彼らは主催者であって博徒一家の軒先を借りているに過ぎない。彼らの命の掛ける対象がそもそも違う。博徒は博打そのものに命を張る。極道は侠客《きょうきゃく》として己が命を掛ける。損得勘定で動かないのが道を極めた者なのだ。法律上の『暴力団』という反社会的な組織と捉えがちだが、ヤクザともまた違いがある。
 だが世間は同じ『暴力団』としか見ない。
 誰もが見下した見方で彼らを畏怖し、そして無視することでどうにか同じ世界で共存してきた。それでもそんな世界でしか生きられない者達がいる。行き場を失った少年、少女達、『生まれて来なければ良かった』、だがそんな彼らでも生きなければならない。
 身元保証人など存在しない、未成年達。
 どんな理由があるにせよ、銀蔵は彼らに世の中と関わりあうための手を差し伸べ続けてきた。『切欠《きっかけ》』を与えることでしか救えない・・そんな事を銀蔵はポツリと零《こぼ》したのを勝は覚えていた。
 野良犬や野良猫と違って、人間社会に放り出されても『生きる術《すべ》』の持たない者ばかりだ。
 行き着くところは犯罪者のレッテルを貼られるか、世の中の片隅でひっそりと影のように生きる道があるだけだ。
『どんな道があるか誰も先はわからねぇ、だがよ、お天道様《てんとうさま》の下を胸を張って生きてぇと思わないかい』勝が銀蔵から教えられた一つだ。
『お天道様の下を胸を張って生きる・・』
 銀蔵が預かっている子供達は男だけでなく女もいる。中学校から高校ぐらいの年頃の子供を、銀蔵は次々と引き受けて連れてくる。昔と違って札付きの悪は少なくなった。家庭に問題のある者が多い。不登校を続け最期に援助交際をやっていた女子高生の親が相談にやってきた。市会議員だという。
「世に出せない」と脂ぎった中年は娘の頭を無理やり押さえつけ頭を下げさせた。
 その子は怒りで市会議員をどやし付けた。
「うちは児童相談所じゃないんだ、自分の娘の面倒も見れない者が議員とは笑わせるんじゃないよ」
 銀蔵がその場をなんとか取り成し、結局その子は不承不承《ふしょうぶしょう》に女を預かることに同意した。万事がその調子だった。勝は彼らと彼女らの教育係りだった。
 木賃宿の二部屋が男部屋と女部屋に割り当てられ、雑魚寝するだけの部屋だが、そこが彼らが唯一心安らげる場所だ。朝は三時起床。まず男は木賃宿の隅から隅まで掃除、女は朝の炊き出しの手伝い。日雇い達が宿から片付くと男はそれぞれの職場に向い、女は食事の後片付けや寝具などの洗濯だ。宿は季節によって住んでいる数はかなり違いがあるが、ほぼ五十人前後の者が宿泊していた。つまり百人前後の人間が一つ屋根の下に暮らしていた。女達は昼食も済むか済まない内に夕食の炊き出しを始める。気がつけばまた食堂に日雇い達が戻り夕の宴《うたげ》を始める。
 宿の同じ敷地に平屋造りの御堂を思わせる建物があった。
 宿に戻った男達はその建物に集まる。玄関先の納戸を取り払い、掃除を始める。どの男も紺絣《こんかすり》に『丸に銀』の白抜がある半纏《はんてん》を着る。建物の玄関は広く、玄関先に檜《ひのき》を格子に組んだ下駄箱がある。そこを上がり、先に進むと四十坪もある畳敷きの大広間がある。入口の襖《ふすま》を開けて右に番台があり、正面の黒檀《こくたん》の床敷《ゆかじ》きの床の間に『天地一』と巨大な文字で描かれた掛け軸が掲げられている。その隣の部屋に片していた盆茣蓙《ぼんござ》を大広間に用意して初めて男達は夕食にあり付ける。
 博打は奇偶日で掛かる内容を変える。
 銀蔵の賭場は偶数日は『壷』、奇数日『手』と定められていた。説明は省くが壷とは丁半のサイコロ、手は手本引《てほんびき》だ。
 勝は銀蔵一家強力《ごうりき》四人衆の一人である。強力とは盆をコントロールする仕事をする。客に楽しく遊んでもらうように常に盆の成り行きを把握し、進行をおこなう、もちろん客をあおる事もする。配当を計算し勝負毎に配当付けを行う。警察の手入れがあると身体を張って客をすみやかに逃がす。
 銀蔵の子分達は独り立ちすると宿から出て、やさ変えをする。女房をもらう者が多いが一人者も中にはいる。その場合は女が通いで男の世話をする。彼らに決まった手当ては無い。毎日の盆の上がりの半分を銀蔵が持っていき、残りを子分等の役目で分け合う。それでも盆暮れの手当てが銀蔵から出るのでどうにかその年を暮らせる程度の収入だ。
 戦後盛んになった競馬、競輪、競艇、オートレースと公営ギャンブルが花盛りだが、これは主催者側が賭けの二割五分を最初から引いた分を配当するので戻りは少ない。銀蔵一家も戦後まもなくご多聞に漏れず呑み行為を始めた。掛けから一割引いた分を配当するので遊び人は銀蔵のところを利用する。賭け金はほとんどが掛けのため若衆が客に出向き集金する。当たった者はすぐに金を貰いに現れるが、外れた者はまず金を納めには現れない。大体ここがトラブルの元になる。旅烏《たびがらす》が掛けに参加するには何か担保を求める場合もある。まず、流れ者は踏み倒しを計る。
 だがいまだ過って勝から逃れたものはいない。それは勝がやさぐれの立ち回り先を独特の嗅覚で嗅ぎ分けるからだ。それゆえに『やさぐれ勝』と通り名がある。
 銀蔵に言わせれば、『お前には可笑《おか》しな能力がある』になる。
 警察関係者とはある意味、持ちつ持たれつつにある。賭場にも定期的に幹部が顔を出す。指名手配になっている者がひっこりとやってくることが多い、その場合、勝はこっそりと別室に案内し料理を馳走して引導を渡す。
『さてどうしますか』
 逃亡に明け暮れ、やつれ切った男の場合、故郷に帰ることも叶わず、最期は押し込み強盗をやるのが落ちになる。行き場を失った末路といえばそれまでだが、どこまでも逃げ果《おお》せる訳がない。
 しかし中には眼から光の失せない獣のような者もいる。
『些少ですが草鞋《わらじ》銭です』と金を出す。
 犯罪者と謂えど人の子である。
 これで落ちなければ好きにさせるしかない。
 裏で待つ刑事が建物を出たところで声を掛ける。彼らはどこまでも逃げ果せる訳がない事を知っている、だがそれを納得できないだけなのだ、だから賭場のような場所に現れる。今生で散々な目にあった者が行き場を求めて遣って来る。警察もそれがわかっている。
 江戸幕府開闢以来、宿場町を根城にしたこのような賭場も影を失った。
 銀蔵が前回逮捕された時も実に些細な賭博行為だった。新たに遣って来た警察署長と新しくこの地を制圧した極道達が仕組んだ。
 銀蔵一家が目障りに違いは無かった。
 銀蔵がエスケープゴートにされたのだ。
 長い伝統などたった一晩で吹き飛んでしまう事もあると勝は思った。

 その夜、賭場の大広間にその子が子分全員を召集した。
「見ての通り、銀蔵一家は解散さ」と姐《あね》さんは息巻いた。
 誰も反対のしようがない。
 勝は姐さんがそう言うだろうと思っていた。
 客の一人に銀行家がいた。
 銀蔵が逮捕された夜にその銀行家が賭場へ遊びに遣って来た。
「今晩はもう看板かね」
 勝が丁度賭場の玄関先を掃除していた。
 客の素性を聞かないのがこの家業の掟だ。
 その客も一度たりとも名乗った事はない。
「へい、しばらく閉めやす」
「それは惜しい、事情は聞かないが、お前さん達はどうするんだい」
 白髪に和装の紳士然とした男だった。
「まだ明日なんてわかりません」
「そりゃそうだ、でも若い衆がたくさんいて大変だろう」
 勝はその男がいつも賭場の隅で大勝はしないが、僅かの張りで遊んでいく馴染みだと判っていた。
「まあなんだ、困った事があったらここを尋ねなさい」と男は札入れから一枚名刺を出すと勝に渡した。
「実に残念だ」と男は去っていた。
 名刺には○○銀行 頭取の何某と印刷されていた。
 掃除を終えて宿の裏口に綾子を認めた。
 夜目にも泣きはらした顔をしていた。
「どうしたいあや」
「まあ、みんなどこかへいっちまうのかい」
「誰がそう言った」
「だって、とうちゃんが捕まったから、もう全部仕舞だって・・」
 勝は頭を金槌で殴られた思いがした。
『俺たちにはここしかないんだ、行くところなんてない』
 翌日、半纏姿の勝は○○銀行の頭取室に通された。受付嬢の好奇の目に晒されてどうにか取り成してもらうまでガードマンが飛び出してきたりひと悶着があった。
 秘書らしき事務員がお茶を給仕して去ると頭取は急に齟齬《そごお》を崩してこんなことを話し始めた。
「実は私の先代は、清水で博徒をしていました」
 勝はこの一言で、この男のすべての事情が手に取るように判った。
「世が世なら銀蔵親分と同じ立場にあったでしょう」と男は言った。
「私の事業は人の作った法律の中でしか商売ができない、ところが実際綺麗ごとだけでは成り立たない。じつに不自然だ。人間が誕生した時から博打があった。それを力のあるものが自分の都合のいいように法律を作り儲けている」
「人呼んで『やさぐれの勝』まずこの業界で知らぬ者はいない、その勝さんが目の前で頭を下げている、これこそが光栄の極みと言いましょう、もしよろしければ私の方からぜひ一肌脱がさせていただきたい」
 話はすぐに決まった。

「姐さん・・この話、勝に預けては貰えないでしょうか」
 静まり返った大広間に、一際、勝の声が澄み渡り響いた。
「お前にかい」
「へい、あっしに考えがあります」
 そしてあれよあれよという間に一階にコンビにと食堂のある地上十二階立ての賃貸マンションが出来上がった。
 マンション工事の現場で若衆を働かせ、女達には日々の炊き出しに当たらせた。敷地内の一角にプレハブを建て、そこに全員が雑魚寝で八ヶ月暮らした。木賃宿に住んでいた者の一部の助けもあり工期を三ヶ月も短縮することができた。
「賭場を壊さないのかい」と姐さんは何度も勝に尋ねた。その度に勝はこう答えた。
「親分の命ですから」
『俺は仮にも親分から盃を下賜《げし》された者だ、その重みは親子以上なんです』と勝はその度に心でそれを繰り返した。

「あんたの退院祝いを店でやるから出かけるよ」
 漸《ようや》くその子が銀蔵の懲役中の話を終え、ビルの裏口から出る時に銀蔵はよく手入れされた御堂を認めた。
「おい、そのままじゃねえか」
 そこには銀蔵が逮捕された時と寸分変わらぬままの賭場の建物が建っていた。
「あんたがいつ帰ってきてもいいようにと毎日、毎日、子分達が同じように掃除しているからね」とその子が言った時、勝は銀蔵の眼《なまこ》に確かに光る一滴を見取った。

(切れがよいので、ここで次回に続きます)

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2007年9月22日 (土)

やさぐれ勝の恋 四

      四

 綾子はこの泪橋を渡るたびにあの日の事が、昨日のように思い出される。
 泪橋は神奈川県警の警察学校の正面に架けられた橋だ。地図に載ってはいない。誰が名づけたのかはわからない。だが、誰もがそう呼ぶ。この橋を幾多の警察官を目指した若者が渡っていた。
 春四月、勝と綾子はこの橋の袂に佇んでいた。
「あや、それでは勝はここでお別れします」勝は軽く会釈すると立ち去ろうとした。
「まさ、卒業式に来てね」
「お嬢さん、勝とはここで縁を切ってください・・」
 誰が見ても美しい警官の制服姿の綾子がいた。 
 
 綾子の母親について勝が初めて語ったのは、綾子が高校の入学式の前夜だった。
 綾子は銀蔵が父であることは聞かされていた。ただ勝は母について一切語ろうとはしなかった。だから綾子も敢《あ》えて触れないようにしてきた。
「真奈美さんは・・やさぐれ・・川崎で一人暮らしておりやした。親分に出会い、見初《みそ》められ、そしてあやを生んだ・・」
「あやを生んで間もなく、真奈美さんは病のまま逝ってしまいました」
 建ててまもない、マンション三階の一室が綾子のために用意されていた。隣室に勝が住んでいる。夕方、勝がのっそりとやってきた。綾子は勝が夕食の誘いに来たと思った。二階のその子の家で食事を摂るのが日課になっていた。勝は話があると上がり込んできた。
「まだあやが乳飲み子の頃、真奈美さんの母親という人が尋ねてまいりました」
「真奈美さんの母親ということがすぐわかりました。とてもきれいな婦人で・・会うなり、子供・・そうお嬢さんに会わせてくれといいました」
 夕闇がせまる部屋にベランダから夕陽が差込、白壁を赤く染めていた。壁を背にして二人掛けの木成色のソファに腰を下ろした勝は下を向いたまま朴訥《ぼくとつ》に語っていた。綾子は一つ一つ言葉を噛み締めるように聞いた。
「真奈美さんの親父さんは警官でした。ある事件に巻き込まれて殉職した。それまで親父さんに憧れていた真奈美さんは警官を目指していた。ところがそれが切欠で警察自体を憎むようになったという、まだ高校生だった真奈美さんは学校へも通わず荒れた生活をする内に突然行方不明になった」
「そして親分に出会うまで十年あまりの年月にすっかり身体を壊してしまいなさった。よほど酷い暮らしをしてきたのかもしれません」
「あやからするとほんとうの祖母に当たるその方は鈴木加奈子さんと言いました。ずっと真奈美さんを探してきてとうとうこの川崎にいること突き止めたが、残念ながら真奈美さんに会う事は叶わなかった」
「その日、ちょうど姐さんが保健所へあやをなにかの予防接種で連れ出して不在でした・・」

 やっと梅の蕾が膨らみ、少し陽足が伸び始めた頃でした。
  訪れた加奈子を勝が銀蔵に取り次ぎ、彼女を木賃宿の一階にある部屋へと案内した。
 銀蔵は加奈子を部屋へ上がらせると、自ら茶の仕度をした。
「まあ、そこに座りなさい」
 庭に面した縁側のある和室に加奈子は通された、銀蔵は神棚を背に火鉢を前に座り込むと、
「まだ初春だ、こうしてくぬぎ炭が燻《くすぶ》っておりやす」それは銀蔵がその火鉢の前で暖をとっていたことを示す。
「奥さん、あっしは見ての通りの者だ。なにも見栄も外聞もない、率直に言わせていただきやす」
 加奈子は横に控える勝に視線をさり気なく向けた。それに気がついた銀蔵は、
「この男はあっしの息子のような者だ。そして、真奈美の生んだ子供を育てている」
 ようやく加奈子は口を開いた。
「お世話になります」と頭を勝に下げた。
「真由美はとうとう最後まであなた・・いや、両親や兄妹について一切語らなかった」
「私が出会った時には、真由美はすでに何かの病に侵されていた。それは心の病というやつかと最初は思った、ある日真由美のほうからあっしの元へやってまいりました」
 銀蔵は和服の両袖に手を突っ込み腕を組んでいた。
「あっしには、その子という連れ合いがいると言うと、奴は『子供が欲しいと』言い出しました」
「その思いつめた表情を見たとき、あっしは、真由美が大変な重てぇ荷物を背負い込んでいることに気がつきました」
「何がお前をそうさせると問いました」
「奴はそれは言えないの一点張りでした」
「その真剣さについにあっしが折れた形で奴と暮らし始めた・・」
「幸いすぐに綾子・・奥さん、奴は女の子を授かりました。あっしの方で綾子と命名させていただきました」
「その後はこの勝から説明させます」
「へい」勝は軽く頷くと息を吸い込み、『話すべきか』と一瞬躊躇を感じた。
「俺は何もお前には尋ねなかった。真由美は事の真相をお前だけに明かしたのではないかい」と銀蔵はじっと勝を睨んでいた。
「へい、お聞きしやした」
『ああ、なんで俺は嘘がいえないんだ』と勝はつい口を滑ったのを後悔した。
「真由美さんはある・・男を追っていました・・」
 勝は真由美の最期の際で聞いた話を胸の中で咀嚼《そしゃく》するように話始めた。
「真由美さんはお父さんを信じていました。それは一点の曇りも無い。それ故に、自ら犯人を捜す人生を歩んでしまった事、ただ命が続かないと気がついた時・・彼女は子供を生んでそして・・」勝はその時の事がまるで昨日のように思い起こされ、瞼がどうも湿る感じで居ても立っても居られなくなっていた。
「冤罪《えんざい》・・」と加奈子さんはそこに今にも崩れそうに嗚咽を始めた。
 しばらく沈黙が部屋を占めた。ようやく加奈子が落ち着きを戻したのを見取って銀蔵が、
「あっしは頭が悪い、話がわかるように説明してもらいたいのだが」
「ええ、そうですね」加奈子はハンドバックからハンカチーフを取り出し涙を拭き取った。
「あの娘がどういう人生を歩んだのか、わかりました。すべてあの日を境に私達の道が変ったのね・・、私の主人は警察官でした・・」
「昭和四十九年七月、北海道の函館で悲惨な事件が起こりました。二十四歳の主婦、三歳の幼児が絞殺された無残な事件です。その当時、主人は道警の函館警察署に勤務していました。事件の起きた日、丁度主人は夜勤明けで、昼から近所に買い物に行くと出かけました。偶然というのはまさにその時の事を言うのかもしれません。事件は実に当時住んでいた官舎からわずか数百メートルの一軒家で起きました。官舎から商店街へ続く道からちょっと入った家でした。実は事件の後、私も何度もその家の前に行きました。それは主人がいつも見張っていたから食事を届けに行ったからです。主人は事件の起きた家のそばを通りかかった時に酷い悲鳴を聞きつけました。警察官でなくても駆けつけるでしょう。主人は向う途中で反対方向から掛けて来る若い男とすれ違ったそうです。それは一瞬の出来事で、動転していた主人は取り押さえるなど気もつきませんでした。後でどれほど後悔したことか・・主人はそのまま悲鳴がした方へ向いました。家の前に着いた時、玄関の戸が開けっ放しになっていました。三和土《たたき》に転がっている幼児を見つけました。抱き起こしましたが、すでに事切れていたそうです。何度か玄関から家に声を掛けたところ、なんの返答もありません、それで主人は家に上がり、主婦が全裸で倒れているのを発見しました。すぐに署へ電話を入れました。刑事等と鑑識がやってきて、主人は第一発見者のためその場に留め置かれました・・」
「主人は一通りの事情を聞かれると帰宅してまいりました。ところが、翌日から主人は本署で取調べを受けるようになりました」
「容疑者として嫌疑がかかった」銀蔵は消えかけたくぬぎ炭を使い煙管《きせる》に詰めた刻み煙草に火を点けた。
「主人に疑いが掛けられました。目撃者が主人以外にいないということ、主人がすれ違ったという若い男の似顔絵を作ることになったそうです。しかし、主人は着ていた服装すら思い出せなかったのです。刑事の一人に『そんな都合のよい若い男などいないのではないか、捏造だろう』と言われたそうです」
「それから主人は勤務が終わるとそのまま事件の起きた家を見張り続けるようになりました。来る日も来る日も同じように・・」
 銀蔵は二三度軽く火鉢の角で煙管を叩き、灰を落とした。
「犯人は必ず現場に戻るというから、それを信じ続けたご主人は必死だった」
「ご主人にはそのような悲惨な殺しをする動機が無かった。だが刑事達も必死に殺された主婦とご主人・・の接点を調査した」
 障子《しょうじ》に嵌《は》められた擦りガラスを通して暖かな日差しがようやく畳に届いていた。勝は今わの際《きわ》に真由美から預かった物を思い出していた。
『これを、必ずこの子が分別が付くようになったら、渡して下さい』透き通るようなか細い指にしっかり握りしめられた黒革の手帳を、勝はベッドで呼吸すら辛そうな真由美から受け取った。『勝が必ず手帳を綾子に渡す・・』--あれは誰にも見せられない。
「事件から三ヶ月ほど経過した頃、署に密告がありました。『二年前の殺された主婦の下着が盗まれる事件を調べろ』という内容の電話でした。盗難事件は交番の警官によって記録されていました。本署に報告されるような事件ではなかったので、記録は交番にある勤務簿の中に記載があるだけでした。--それを記入した警官が主人でした」
「主人はその殺された主婦からの電話で家へ行っていたのです」
「ご主人が犯人という道筋ができあがったというわけですね」
「昼夜、拷問のような取調べに変わりました。主人はついに拘留され・・そして・・」
 加奈子が下を向いたままじっと心の嗚咽を噛み締めていることが勝には良くわかった。
 勝はその先を真由美から聞いていた。
「縊死《いし》」銀蔵は知ってか知らずかふとそんなことを言った。
 ようやく加奈子は顔を上げた。
「留置場で主人はベルトを使って・・」
「奥さん、実は・・」銀蔵はその後を引き継いだ。
「真由美はあっしに親兄弟の事は一言も話してはくれませんでした。ただ函館で育ったと聞いてましたから、一度、北海道へ真由美の骨壷を抱いて行きやした・・」
「やさはすぐにわかりました。ただ警察官舎はすでに取り壊されていて更地《さらち》になってました。そこで官舎のあった近所で色々と聞いて回りました。そして官舎から逃げるように出て行った母娘の噂に行き当たりました」
「それは奥さんと真由美と確信しました。しかし、その後がわからなかった・・だからそのまま骨壷を抱いたままこっちへ戻ってめえりました」
 加奈子はさめざめと泣いていた。
「つらかったでしょう、同じ警察によって嫌疑を掛けられ・・あっしはなぜ真由美が川崎までやってきたか、なんとなく気がつきました」
「真由美は犯人の心当たりがあった。どうやってそこに辿り着いたのかはわからない、そんな訳がなきゃ、奥さんを一人残して川崎組んだりまで流れてきませんや」
 勝は銀蔵が北海道まで行ったのを聞いて驚いた。
『もしや親分は気がついて・・』
「私は・・真由美を連れて、長万部の実家へ戻りました。地元の高校へ真由美は転入しました。そしてある日、行方知れずに」
「その後、主人の残した物を整理していて無くなっている物に気がつきました」
「主人は大変几帳面な性質《たち》で日記を毎日付けておりました・・古い日記をダンボールに詰めて仕舞っていました。年代別に順に箱に収めています。その整頓された日記と日記の間に隙間《すきま》がありました。ちょうど事件のあった二年前ぐらいの日記です」
「つまりその日記をもって真由美はやさぐれた・・」銀蔵はしばらく虚空を眺めてから、
「その日記には犯人に繋がる事が書かれていた・・」

 と夕暮れですっかり暗くなった部屋にソファに座ったままの勝はそこまで一気に綾子に語った。
 胴巻きから勝は黒革の手帳を取り出した。
「あや、これがその日記だ」
 それは古びた手帳だった。
「お前のかあさんから預かった・・俺は決して中身を調べたりしてはいない、これをお前がどうしようが、お前自身が決めることだ。お前のかあさんは、きっと大きくなったら綾子はわかってくれると信じていたよ・・」

 あの時から綾子は確実に人生に対する考え方が変わったと思う。警察官になることも自分で決めた。高校を卒業して二十一ヶ月間の警察学校の厳しさも綾子にとっては当たり前の事としか考えられなかった。
『祖父の命、母の命、そして惨殺された母子・・、おかあさん、綾子はやっぱり、罪を許せない・・』
 泪橋の綾子の横にすべるように一台の黒塗りの高級車が止まった。
 黄昏が迫っている街並、青春と決別したこの橋を待ち合わせ場所に綾子は指定した。
『ここでまさと別れたのね・・』
 綾子は助手席に乗り込むと懐かしい学舎《まなびや》を後にした。

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2007年9月 2日 (日)

やさぐれ勝の恋 三

      三

「まあ、まあ」
 綾子がまだ幼い頃、勝《まさ》を舌足らずでそう呼んでいた。
 ある時から『まあ』から『まさ』に変わっていた。それはいつの頃からだったのだろうかと、勝はふと思った。
 綾子は銀蔵の妾《めかけ》鈴木真奈美に生ませた子供だ。銀蔵は生涯、子供は綾子一人きりだった。銀蔵は若い頃、かなり女衆を賑合せたという話を聞いている。
 しかし本妻のその子との間には子供はできなかった。その分、勝兄妹八人を我子のように育てた。
 だから今でも勝の兄妹の里は銀蔵の家であり、その子は勝の兄妹の子供には『ばあちゃん』と呼ばれている。
 綾子の母親、真奈美は身体が病弱だった。
 川崎のクラブでホステスとして働いていたところを、客として来た銀蔵に見初《みそめ》められた。銀蔵は真奈美のために別宅を用意し、住まわせた。囲って間もなく真奈美は綾子を孕《はら》んだ。
 銀蔵はその子に真奈美が妊娠したことは黙っていた。綾子を生んだ時、勝は銀蔵から真奈美の面倒を見るように命を受けた。産後の肥立ちが悪かったのか、真奈美は入退院を繰り返した後、暮れも押し迫った寒月の夜に勝に看取られてこの世を去った。
「人生を織り成す人と人の縁はすべて綾によて決められている」と銀蔵はそんな事を話していた記憶が勝はあった。
「綾子はこの世で唯一、俺の血が流れている。親戚皆から縁を切られた俺だが、やはり同じ血が流れている者を残したかった・・」
 その子が綾子の存在を知ったのは歳が明けて、勝が背中に綾子を背負い川崎大師にお参りした時だ。
「勝、背中の子供をどうしたんだい」
 その子は一人年賀の参詣に来ていた。
 勝は一度も嘘というものを付いた事は無い。
「へい、親分の子供です」
 もちろんその子がその後銀蔵を取っちめたのは言うまでもない。すったもんだした後に綾子の母親が既に他界したことを知るとその子はこう言った。
「勝、おまえが面倒みな」
 当時、勝は銀蔵の木賃宿の二階の端に暮らしていた。兄妹七人を育てた勝だから綾子一人の世話をするのは訳の無い事だった。
 綾子はよちよち歩きするようになると勝を追いかけ、どこまでも付いてこようとした。
 勝は日雇い労務者の出面《でめん》の手配をまかされたいた。路上にその日の仕事を得るために集まった多くのその日暮を整列させ、人足を必要とする親方へ繋ぐ、
「おい勝、かかあに逃げられたか」
「お前の子供にしては、かわいい顔の赤ん坊だ」
 毎日勝は綾子を背負ったまま人足達の手配をしていた。
 その子は付かず離れず、何かと綾子に気を使っていた。銀蔵の手前、手放しで世話をするわけではなかったが、勝が部屋に戻ると綾子のためにと衣類が部屋の隅に置かれていた。
 不思議と銀蔵は綾子には近づかなかった。
 実の子供ではあるが、甘やかしたことも無ければ、叱ったことも無い、本人がどういうつもりなのか、勝は聞いた事は無かった。真奈美の死期を早めた事への遠慮があったのかもしれないと勝は考えていた。
 女の子の成長が早いことを勝は子育を通じてよく知っていた。

 日差しの強い夏に綾子はやさぐれた。
 まだ幼稚園に入園して間の無い頃だ、勝は園の送り迎えをしていた。
 幼稚園の先生は綾子が、
「今日はまあは迎えに来ないから、あやは一人で帰るの」と話していたと言う。
 午後の日差しの中で切れ目の無い蝉の鳴き声がどこまでも響いていた。
 勝がよく連れて散歩する場所など心当たりの道を辿ったが綾子は見つけられなかった。
『こりゃ本格的にやさぐれたか』と勝は不安に思い通園路の家々を一軒、一軒訪ねた。
「すいません、これくらいの女の子を見かけませんでしたか」見るからに厳《いか》つい勝の顔でどの家の主婦も言葉の半分を聞く内に玄関を閉じてしまった。物売りの類《たぐい》に思われたのかもしれない。
 勝は昨日、綾子を入浴させていた時の事を思い出した。木賃宿には宿泊者が共同で利用する風呂があった。仕事を終えた日暮達が戻る前に勝は風呂掃除を終えると綾子を入浴させるのが日課になっていた。湯が汚れる前の一番風呂に入れさせる。
 綾子の背中を流していると綾子はこんな質問をしてきた。
「まあ、あたいのかあちゃんて、どこかの町でくらしているの・・」
 勝はとうとう気がついちまったかと思った。
『そりゃよそ様の母親達が園の送り向かいしていりゃ、いづれわかる』
 勝はこのままずっと隠しとおせる事でもないと、
「あやのかあちゃん、あの世ていうところに行ってしまたんだ」
「そこって遠い?」
「ものすごく遠い」
「どうしたら行けるの」
「あやがいい子にしていたらきっと会える」
「ほんと、あやいい子にする」

 木賃宿に戻ると玄関の上り框《かまち》にその子が待っていた。
「勝どこいってたの、綾子がさいか屋で迷子になったて電話があった・・」
 それを聞くや否や、勝は川崎駅前のさいか屋まで駆けて行った。
 案内を請うと勝は事務所に通された。
 綾子は紺の制服を着た若い女と一緒に居た。
「まあというのよ」と綾子はその紺の女に説明した。
「ご迷惑をおかけしやした」と勝は頭を下げた。
 勝はさいか屋を後にして綾子の手を引きながら綾子に問いただした。
「あや、どうした」
「あのさ、まあがさいか屋てなんでも売っているて言ったよね」
「てっきり・・」
「それで」
「あや、さいか屋の人にかあちゃん売ってくださいて」
「さっきのおねさんが、おかあさんは売っていないて」
「あやはどしたら買えるのて聞いたの」
「そうしたら、あのきれいなおねえさんがこう言ったの」
「あやちゃんがおおきくなったら、おかあさんに会えるよて言うのよ。どうしてって聞いたら」
「あやちゃんの中におかあさんはいるって、変な事を言うのよ」
「ああ、そのねえさんの言うとおりだ」
 勝は泣きたくなると駆け出したくなる、幼い頃からの癖になっていた。ぐっとこらえてこう言った。
「またあのねえさんのところへ遊びにいこう」
「うん」
 すっかり日も暮れて、満天に広がる星々の下を日雇いで賑合う露天の横を勝と綾子が過ぎていくと後ろから呼び止められた。
「まさやん」
 いずみというスナックをやっているママだった。勝がたまにおとづれる。
「こんばんは」と綾子は丁寧にお辞儀をした。
「まさやんの子供」
「いいえ、銀蔵親分のお子で」
「へえ、ずいぶんとかわいいわね」
 といずみのママはしゃがみこんで綾子の頭を撫でる仕草をした。
 勝は今でも忘れない、綾子の銀蔵からの血筋を感じた時だ。
「おい、あばずれ気安くあたいに触るな」
 いずみのママは驚いて立ち上がると、
「なんだいやっぱりろくでなしの子供だよ」
 と捨て台詞《ぜりふ》を吐《は》くと豊満な臀部を怒りで振るわせるように去っていた。
 綾子はすまなそうに勝の顔色を伺うと、
「あのおばさん、まあの大事な人」
 綾子は幼い時から日雇いの中で育った。
 まともな教育など受けた者は稀有だった。
 だからと言って、彼らが罪人《つみびと》ではない。ただいかんせん言葉が悪かった。門前の小僧経を読む例《たと》えのように、綾子は彼らの言葉を身体で覚えた。とっさに出たに違いはなかったのだが、勝は努めて綾子の前で汚い言葉を謹《つつし》んで来た。
「あのさ、あやの身体を触れるのは、まあとあたいの大事な人になる人だけよ」
 と綾子はてっきり勝に叱れるとでも思ったのか、俯《うつむ》いて泣き出した。
 勝はしゃがみこむと、
「あや、まあはちいとも怒ってなんかいないよ」
「あらほんと」と綾子はけらけらと笑いながら駆け出した。
「こら、あやお仕置きするぞ」
「へえ、おにさんこちら」とあっかんべをすると綾子は一目散に駆け出した。
 満天に一際《ひときわ》、北斗七星が目に付いた。
 あれから幾星霜が流れたが、綾子は綾子のままだった。勝は娘以上の感情をふと綾子に感じたことがある。
 それは漠然としていて勝自身持て余していた。

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2007年8月19日 (日)

やさぐれ勝の恋 二

      二

  川崎大師平間寺《へいけんじ》の境内に銀蔵と勝《まさ》の姿があった。
 秋雨のぼんやりした低く薄暗い雲のせいか、人影も疎らだった。正月の参詣客がごった返した様子から想像できないような静けさだ。川崎駅に着くと銀蔵は急に大師に参ると言いだした。
『おら、神仏に一度も祈ったことなんかない』が口癖だった。勝はちょっと不審に思った。
『何かあったのか・・』
 鳥居をくぐる時、銀蔵は神妙な顔で一礼した。神前の前で二拝二拍一拝をする銀蔵の横で勝はじっと銀蔵を見守った。
 番傘を差す勝と和服にからむし織の角帯姿の銀蔵からどうみても二人の様子は主人と使用人のように見える。
 境内を一巡すると銀蔵は仲見世にある茶店に勝を誘った。
 濡れ縁にある御影石が雨でぴかぴかに光って見えた。
 暖簾をくぐり番傘をたたんでいると、奥からすっとんきょな声が聞こえてきた。
「おい、銀蔵じゃねえか」
 給仕に現れた腰の曲がった老人が驚いていた。
「すえきちか」
 銀蔵はすえきちと呼んだ老人から茶を受け取ると一気に飲み干した。
「おい、相変わらず出がらしだな」
「お前こそ減らず口が直らねじゃねか」
 勝は二人のやり取りを出された茶と葛きりをやりながら聞いていた。
 すえきちは昔やはり博徒をやっていたらしい、三十の歳に生死に関わる大病をしたという、その時に看病したおさよという女と所帯を持った。たぶん湯気が上がる厨房にいるばあさんらしい。
 突然、老人は両拳をきつく握り締め高く掲げると銀蔵に殴りかかろうとした。
「銀蔵、お前・・、何十年も俺に顔を見せないとはどいう料簡なんだ」
「銀蔵、おらおめのおかげで・・」
 急にすえきちが床にしゃがみこんでおいおいと泣き出した。肩を震わせ中々泣き止まない。
 厨房から割烹着姿のばあさんが出てきた。
「あんた、もうおよしよ」とばあさんは床に膝間付いていたすえきちを抱きかかえるように起こした。すえきちは幼児がべそをかいているような顔をしていた。
「さよさん、しばらくだ」
 勝はこのばあさんは歳をとっているが、ずいぶんと品のある女だと感じた。昔はかなり美人だったはずだ。
「すえきちはもう足を洗ったのよ」
「ああ、おれがやめさせた」
「じゃあ、どうしてここへこれる訳・・」
 あきらかにこのさよというばあさんと銀蔵は過去に何か因縁があったと勝は睨んだ。
「最後のお別れに来た」
「何語ってるのよ、あんたとは四十年前にとっくに縁を切ってるのよ」
「ああそのとおりだ、だがよ、さよさん、俺たちは、同じ時代を生き抜いてきたんだ・・たとえ、別々の道を歩いてきたとしてもだ、その俺がこれが最後だと言ったら、最後なんだ」
「最後てなんだ」となきべそ顔のすえきちが銀蔵に詰め寄った。
 銀蔵は勝を見てから、
「俺の島をこいつに任せようと思っている」
「お前、隠居するてことか・・」
「ああ、おめえだけには、きっちと挨拶だけはしようと思ってやってきた」
「それは、ご丁寧に、用事が済んだらとっと帰っておくれ」さよさんは振り返るとそのまま厨房へ戻っていった。
 銀蔵は両手を膝頭に置くと、
「おめえだけには伝えたかったことがある」
「なんだい」
「最後の盆を開帳する」
 すえきちはじっと押し黙った。
 盆とは旧暦七月十五日の祖先を祭る盂蘭盆ではない、盆ゴザの上でサイコロを振って行う賭博のことだ。開帳も由緒ある寺社の観音様など秘仏を見せることとではない、賭博場を開くことだ。
 刑法186条2項にある『賭博開帳等図利罪』「賭博場を開く」「賭博をする人を集める」ことによって利益を得ようとした行為を指す。
「継承盆・・」すえきちはまた涙を流し始めた。
「あい、承りました。銀蔵最後の盆」
 店を出る時、銭を払うのだ貰えないでちょっとした悶着があったが、奥からさよが一言、「客から茶代を取るのが家の家業さ」と啖呵を切ったので、すえきちはようやく勝から銭を受け取った。
 銀蔵と勝が店を出るとさよが塩壷を抱えて厨房から駆け出してきた。
「さよ、止めてくれ、俺たちの命の恩人になってことをするんだ」
「俺は全部知っているんだ・・お前が今でも銀蔵に惚の字てことをよ」
 さよは塩壷を抱えたまま客席の一つに座り込んだ。
「俺が病気でうなってる時、銀蔵の差し金で看病に来たことも、俺が足を洗うかわりにお前と夫婦《めおと》になる約束を銀蔵としたことだって、全部知ってら」
「お前はこの世では、俺の大切な銀蔵からの預かりものだ、あの世にいったら熨斗《のし》をつけて銀蔵にかえしてやら」
「あんた・・」
「さよ、あれを出してくれ」
 さよは神棚の置くにあった風呂敷に包まれた小箱を運んできた。
 中からいい具合に褪せた竹の壷が一振り出てきた。すえきちは壷を持って、
「銀蔵が半と言いや俺は半を出す。丁と言いや絶対に丁を出してみせる」

 勝はこれから銀蔵に組がどのような状況に置かれているのかを説明することを考えると頭痛がするようだった。
 雨がようやく小降りになっていた。
 タクシーを拾うと二人はいよいよ銀蔵の家へ向かうことになった。
「又はどうしてる・・」など銀蔵は自分の子分の音信を問うた。
『なかなか肝心な事を聞きやしない』と勝は思いながらも、銀蔵の問われるまま受け答えしていた。やっと家に近づいて、「あのよ、その子はどうしてる・・」
 勝の目には十二階建てのマンションに変わった銀蔵の家が写っていた。その一階にコンビニエンスストアーがある。その前に着物姿に襷掛けのその子が立っている事も勝は気がついていた。頭に鉢巻を締め、左手に手桶、右手に柄杓《ひしゃく》を持っていた。
「親分、あそこに立っておりやす」
「なんだありゃ、俺のやさがビルディングになってやがる、勝どうなってやがる」
 タクシーが歩道に寄せて止まると銀蔵は車から飛び出していった。勝は一人車に残り、乗車料金を払いながら一部始終を目撃することとなった。
 銀蔵はいきなりその子の前で歩道に手を付いて頭をアスファルトに擦り付けるぐらいに下げた。その上からその子が手桶から水を柄杓で次々掬《すく》い、銀蔵の頭へ掛けていた。最後には手桶から直接水をぶっ掛けた。
 やっとその子の気が治まった頃を見計らって勝は車を降りた。
 銀蔵は頭がずぶ濡れのまま立ち上がっていた。
「俺の家は、その子」
「このビルディング」
「六年あまりにも留守にしていると世の中はすっかりかわっちまったか」
「これも全部、勝のおかげさ」とその子は手桶を下げたままコンビニの入口へ向かった。
 店に入って銀蔵はレジに並んでいる店員を見て、
「安と真治のかみさんじゃねか」
「お帰り、親分」と真治のかみさんとよばれた赤毛の女が返事をした。
 レジに並んでいた客が不審な目で銀蔵を眺めていた。
「後であんた方も店においでよ」とその子は声を掛けそのまま、奥の部屋へ入っていった。銀蔵はかって知らないのでそれに従った。商品のダンボールや飲料箱の横を通った先に、大きな神棚のある事務所があった。
 その子は当たり前というように、神棚の前にある両袖の大きな机に納まると、
「あんたそこの椅子にお座り、色々と説明しなきゃならないわね、それとも勝からもう聴いたかい」
 銀蔵と勝は向かい合わせに応接椅子に納まった。
「いえ、姐さん、あっしからは何も・・」と勝は答えた。向かいで銀蔵の怒った時にぴくぴくとするこめかみの血管が浮きでていた。
「あんたが見舞いは一切お断りなんて言うから、府中に行くことは禁じたの・・でも勝は毎月、こっそりと差し入れをしていたはね」
『姐さんは知っていた』
「あんたが甲斐性無しなんて最初からわかってた事だけど、残された子分をどうやって食べらせるか、勝がいなきゃあんたの帰る家なんか無かったのよ・・」
 銀蔵が逮捕されてからの子細をその子が説明している間中、銀蔵は押し黙ったまま目を瞑っていた。
 銀蔵が唯一親から譲り受けた宿舎と土地を担保に銀行から金を融資してもらった事、子分の住むために賃貸マンションを建て、その下にコンビニを作って働く場所を作った事、、今では県内に同じコンビニを十二軒も経営するまでに至った経緯を説明した。
「あたしが社長で勝が専務よ」
 その子の話が終わるとようやく銀蔵は口を開いた。
「おれはお前たちに迷惑をかけてえとは思わない・・すぐ府中に戻ろうとさえ思っている・・」
「なに馬鹿な事言っているのよ・・」
「おれはなこの勝に島を継いで貰いたいと思っているのさ・・」
『親分その先は言っちゃいけない』と勝は思った。
「綾子を勝に嫁がせたい、お前の話を聞いちゃ益々、その気になっちまたぜ」
 その子の目がまん丸になっていた。

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2007年8月12日 (日)

やさぐれ勝の恋 一

   やさぐれ勝の恋

      一

  まだ時代が昭和という時代の事・・

 雨が降っていた。
 秋の雨は特に冷たく悲しい。
 国鉄武蔵野線北府中駅から一人の巨漢が番傘を差して出てきた。
 男は旅館の番頭といえば、それにぴったりとするわかりやすい恰好をしていた。下駄の鼻緒はずいぶんと雨水で膨れ上がっていて、男の節々の太く黒い足の指の一部のようにさえ見えた。
 府中街道と国分寺街道に挟まれた法務省東京矯正管区府中刑務所、緑豊な街道沿いに沿って「シャバク」と呼ばれる塀が2キロほど続く。
 その塀は、いわゆる「シャバ」と呼ばれる自由な世界とを隔てる塀である。皆それぞれの事情や訳ありで収監された罪人を留め置く場所である。
 その日出所する受刑者は朝食を摂ると作業房に向かわず、看守等の立会いの元、宣誓を行う。
 壁に貼られた五訓を全員で復唱を行う。

 はいという素直な心
 すみませんという反省の心
 おかげさまという謙虚な心
 させて頂きますという奉仕の心
 ありがとうという感謝の心 

 今藤銀蔵は今年齢七十に成ろうとしていた。
 罪人に定年は無い。
 五年八ヶ月の刑期を勤め上げた。
 人生の内でこの中にいた期間を合わせると優に半分をここで過ごしたことになる。
『生きること』と銀蔵に問えば、「シャバで銀シャリを食うこと」と返ってくる。
 しがない博徒の家に生まれた。
 鉄火場で育ち、一人前になる前に親父が逝って、あるかないかの境も判らないような縄張りを引き継いだのが二十歳前だ。
 退所する罪人が順に並び勤め上げた対価として報奨金を受け取っていた。退所して一番に必要なもの、それは金だ。誰も受け取りになどやってこない面々ばかりだから、『はいお前は刑期を終えたから、出ていいというものではない』
 もちろん身元引受人が迎えに来る。
 来ない者は保証人を立て、戻る家などを確保する。
「銀蔵、もう帰ってこんでええ・・」
 所長の木村何某だ。
「へい、お世話になりやした」
 繰り返し入所する今藤はここでは「馴染みさん」と呼ばれる。昔のように牢名主のような者は存在しないが、世話役程度の地位が与えられる。刑務官も実はこのような年季の入った者をある程度リーダとすることで管理するのが効率のよい事を知っている。
 いぶし銀の短髪白髪、どうみても七十には見えない、足腰もしっかりしていて、話す言葉も歯切れがよい。
 銀蔵と言えばたいていの者は「ああ、あのじいさん」かぐらいには有名だった。
 銀蔵はここを出る必要を感じなかった。
 木村何某にああは言ったが、すぐにここに戻るとさえ思っていた。
 銀蔵の島は川崎市にあった。
 有名大手極道チェーンが制圧してから、銀蔵は細々と馴染み相手に競輪、船、競馬のノミをやってきた。電話一本の商売だ。
 逮捕された時、銀蔵は馴染みと集金でひと悶着あった。どうも大手チェーンのリークらしく、簡単な取調べの後、芋づるで検挙者を出した。
 戻っても結局は元の木阿弥だと銀蔵は思った。同じ事の繰り返しじゃないか・・
 唯一銀蔵には「シャバ」に心残りがあった。
 五十を超えた時に外の女に子供ができた。
 かかあのその子は結局一人も銀蔵の世継を生まなかった。世継をさせるような甲斐性もない銀蔵だったが、不思議と仲間には人気があった。
 人生で最初で最後の子供だと思った。
 その子がたとえ女だったとしても・・

 府中刑務所の入口に先ほどの番傘の男がじっと傘の中にいた。
「おやっさん・・」
  また銀蔵が帰ってくる。
 すべてが親分中心に動き出す・・
 ため息ともつかない深呼吸をした。
 男の名前を芳賀勝《はがまさ》と言った。
 その筋では、人呼んで『やさぐれの勝《まさ》』が通称になっている。
『やさ』とは『家』であり、『ぐれ』とは『出る』ことを意味する。
 つまり『家出』のことを言う。
 勝の記憶にある最初のやさぐれは三歳になったぐらいだ。
 勝の家は東北地方の実に貧相な田舎で貧農の極みのような生活をしていた。勝の父親は昼間から酒を食らって引っ繰り返っているような男だった。いつそんな暇があったのか、母親は勝を頭に八人の子供を次々と生んだ。
 子育どころではなかった。
 母親は陽が昇ると田畑に出て、やっと陽が沈む頃に家に戻る。だから勝などよちよち歩きする頃にはミルク代わりに父親の酒のコップから喉の焼けるような焼酎を飲んでいた。
 やさぐれると心配して母親が探しにやってくる。薄暗い納屋の軒下でじっと立っている。
その横を母親が通り過ぎていく、知ってか知らずか母親はちょっと過ぎたところで立ち止まり必ずこう言ったものだ。
「今日は親子どんぶりなのにね・・」
 勝の大好物だった。
 熱い銀シャリの上に半熟の卵と鶏肉と醤油味の玉葱のハーモニー、兎に角、やさぐれはその度中断になった。
 小学校、中学校へとなんとか勝は通った。
 特に勉強には興味はなかった。
 義務教育という制度のおかげで人様並みにどうにか文字が読めるようになったぐらいにしか思っていなかった。
 弟達、妹達を背負たり手に引いて何度も学校へ行った。幾度となく教師が家へやってきた。
「兄妹を連れて学校へ来ては困る」
 弁当の時間まで兄妹は校庭で群れて遊ぶ、弁当の時間、勝は校庭に出て、用意してきた兄妹の弁当を広げ全員で昼食を摂る。毎日が遠足のような感じだった。兄妹は勝によく懐いた。生まれた時から勝が親代わりだ。オシメを変え、ミルクを飲ませ、夜鳴きをすれば、子守唄を唄った。
「ネンネンコロリとネンネしな・・」
 勝はもちろん子守唄など聞いたことは無かった。それでも七人の兄妹に唄って聞かせる内に自然と身に付いた。
 哀愁のあるとてもいい声だった。
 母親が病に倒れ入院するとそれを追うように親父が癌で逝った。物もわからない子供達ではどうにもならないと親戚一同が協議した結果、田畑を売り母親の入院費用とし勝達は一時施設に預けることとなった。
 母親は最後まで田畑を売るのには反対したと聞く。
 兎に角、勝達八人兄妹は宮城県にある有料の託児所に預けられた。
 ひどい生活だった。朝から晩まで田畑で働かされた。勝はやっと歩けるようになった末っ子の平助を背負って鍬を振り続けた。
 園長など子供の世話を見るような人間ではなかった。子供を奴隷のように扱うように施設の従業員にも指示していたのかもしれない。
 何度も薄暗い部屋で兄妹で身を寄せ合って泣いた事だろう。
 兄妹でやさぐれる覚悟を勝は決めていた。しかし、飯を食わなければならない。たよる者も無かった。
 どういう訳か勝は幼い時、母親に一度聞いた母方の縁戚に川崎で商売をしているという者を記憶していた。
 あの夏が勝の人生の分岐点になろうとは思わなかった。

「おい勝、お前を尋ねてきた者がある」
 舎監をしている中年の職員が畑まで勝を呼びに来た。
 夏の日差しが強烈に差し込む玄関先にハンチングを被った白ラシャに白ズボンを履き、雪駄姿で大きな扇子をバタバタと扇いでるちょび髭の男が待っていた。
「お前が勝か」
 銀蔵との出会いだった。
 この銀蔵に勝兄妹一同は、その日のうちに夜行列車に乗せられ、朝方に上野に着いた。
 川崎の銀蔵が経営していた日雇い労務者の木貸宿の二階を住処《すみか》と定められた。
 そこから勝の兄妹全員が巣立った。
 まっとうな学校へ勝は行かせた。
 皆、社会人となり家庭を持ち、普通の社会というやつで生計を立てている。
 なぜか勝だけが銀蔵の処に残った。
 親以上の恩があるには違いなかった。
 やさぐれが得意な勝にしてはここから他に行く処が無いのかも知れないと思った。

 入口から刑務官に挨拶をしている白髪頭の男が出てきた。
 銀蔵は勝を見つけると顎で呼びつけた。
「待たせたな、ひでえ雨だ」
「お元気で」
「ああ、それにしても勝、ちょっと見ねえ内に、お前ずいぶんと老けやがった」
 番傘の中に収まった銀蔵を後ろから勝が付いていく。
 まるっきり上京した時と同じだと思った。
「あの日も雨が降っていがやった・・」
 上野に着いた時も朝方から雨が降っていた。
「お前、俺の処に来てよかったかい・・」
 おやっさんにしては随分と愁傷な事を言う。
「へい、命の恩人ですから」
「俺には息子はできなかった・・」
「お前が俺の跡取りにならんか」
 勝にはおやっさんが何を言いたいのかわからなかった。
「お前、綾子を貰わんか」
「え、お嬢さんを・・」
 勝にとっては青天の霹靂という奴だ。
「お前をほんとうの息子にしてぇと思ったのさ・・」
 勝は何も言えないままシャバクの横を銀蔵に付いていった。

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黒い記憶は10月まで休載です。すいません<m(__)m>
代わりに8月~9月はずっと昔に書いた「やさぐれ勝の恋」をリメークして載せます。

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2007年7月25日 (水)

黒い記憶 孤島

   二十 孤島

『もういい』くたくたに疲れきっていた。
 マックスウェル・レオナルドは辿り着いた部屋のベッドに崩れ落ちるように横になった。
「お前もあの場から逃れられたか・・」
 部屋にあるソファには隻眼隻腕の金本和義もまた倒れるように横になっていた。
 あの光景はなんだったのだろう・・
 マックは触れてはいけない世界へ片足を突っ込んでいた。ありえない、どんなに科学が進んだとしても人間が違う姿形の物へ変身することが可能となるのだろか・・
 部屋にあった調度品が空を掛け巡り飛ぶ、あらゆる物から炎が上がる、身体を異常な熱風が襲い、床に伏せるだけで精一杯だった。
 部屋が一瞬で白い光に包まれた。
 今まで空が必ず上にあると錯覚していた。足元が空を向き、頭が床を指していた。重力という目に見えない力が実は常に身体に働いていた。それが失われる時、物という物全てが自由を得た。この重力という牢獄の中で暮らしていたという真実を身体を持って初めて理解できる。強烈な風圧が部屋中の空気を吹っ飛ばした。真空という状態を体験した刹那《せつな》ベランダの窓ガラスを突き破り、外へ放り出された。その後は元の木阿弥でまた重力のある世界へ戻っていた。どうにか地面に着地した。去り際に後ろを振り返った。寝室だけでも十を数えた建物の姿は無かった。大きなクレーターがぽっかりと口を開けていた。
 ここはマックの隠れ家の一つだ。英国当局から逃れる場合に利用してきた。マックは米国の諜報機関からも追われる立場でもあった。ワンルームのバストイレ付きの部屋だ。酷い疲労感が身体を覆いつくしていた。マックは誰かの呼ぶ声が聞こえた。
 壁に備え付けの等身台の鏡がある。
 ぼんやりした意識の中でマックは誰かが自分を呼んでいるのを確信した。
『マックよ・・』
 マックは左足を引きずりながら鏡の前に行くと、鏡の中で同心円状に黒い粒子が渦を巻くのを見出した。そこから今にも何かが飛び出そうとしていた。
 赤い光が明滅している。
『お前に新たな使命を与えよう』
 後ろに金本和義がソファから起き上がり、鏡を凝視していた。
『日本に向かうのだ』
「どこへ・・」
『天の逆鉾がありし地、日向へ向かえ』
『アマノサカホコ・・』
『金本、お前にも使命を与える』
『つねを浚《さら》うのだ』
「つね・・三島つね・・」
 後ろで控えていた金本和義は鏡から聞えた声に対して、独り言を呟《つぶや》いていた。
 黒い渦は次第にその輪を縮《ち》じめ、最後はマックと金本和義だけを映し出していた。
 ソファとセットのテーブルに真っ赤な血で円が描かれその中心に蛇がとぐろを巻く様子がありました。
「また、蛇の徴《しるし》」

 荘明はマックを見失っていました。
 繁華街の入口でタクシーを捨てると一族の経営する骨董屋を訪れていました。
「九龍城へいきな」
 店番の老婆が店の奥へ荘明を導き、熱い一杯の茶を出しました。
「九龍城・・」
「ああそこに一族が集結しておる」
 とにかく荘明は情報が欲しかった。
 あの大規模な火災、麗華や義父の生命がどうなったのか、そればかりを考えていました。
「ごちそうさま」
 荘明は店を出ようとしました。
「お待ち」
 老婆は皺枯れた瞼をやっと開けるように荘明を見上げて、何かを差し出しました。
 枯れ枝のような手の平に鍵が乗っていました。
「衛に預かった、いつかお前に渡すように言われておる」
「どこの鍵だよ」
「それはお前が探すことになる・・」
「わかった」
 荘明は老婆から鍵を受け取るとポケットに鍵を無造作に入れると九龍城へと急ぎました。

『ここはどこ・・』
 麗華はベッドに鎖で両手両足を縛り付けられていました。
 記憶がぼんやりしていました。義父が部屋に入って来たのを覚えています。
 衛も居ました。
『あの後を一切覚えていない・・』
  天井を縦横無人に鉄のパイプが取り付けられている工場のような建物です。
 麗華は一糸纏《いっしまと》わぬ裸体でした。
 羞恥心より恐怖を感じました。
 天井から等間隔に裸電球が下がっていましたが、広い空間を照らすにはあまりにも悲しいぐらいの明りしかありません。
 ジジジと羽のある虫がその電球目掛けて飛び込み次々と落下していました。
 水の流れる音がありました。
 誰かの足音が近づいていました。
 鉄の扉が重々しく開くと、麗華は真っ白な不思議な物がふわりふわりと麗華の元へやってきました。
「お気づきになられましたか」
 白い不思議な物は白のレースを頭から被った少女でした。
「あなたは・・」
「零美《れいび》、麗華様の僕《しもべ》」
「僕・・」
「はい、あなたが覚醒するのを待ち続けていました」
「覚醒・・」
「あなたは何も知らない、あなたの義父の傍にいる人は、太古の記憶が蘇《よみがえ》る」
「太古の記憶・・」
「はい、一度に教えると混乱します。まだあなたはその年齢にも達していない」
「なぜ、鎖で・・」
「あなたが元に戻るまで鎖で繋ぐしかありませんでした。まだ力を制御できません」
「元に戻る・・」
 零美は鍵束の鍵で麗華の手足を繋いでいた鎖を解きました。
「まあ綺麗な身体・・」
 零美は麗華の裸身を嘗めるように眺めました。
「着るものはないの」
 麗華は白のベールの少女が不思議な目つきで身体を眺めるのに辟易《へきえき》していました。
「ごめんなさい、今持ってきます」
 また白いベールがふわりふらりと部屋を出て行きました。
 麗華は少女がほんとうに空を飛んでいるように見えました。

 ここが絶海の孤島と麗華は後で知り愕然とするのです。見渡す限り海原が広がり、まったく人影の無い周囲4キロあまりの島に麗華は幽閉されていたのです。
  何者かの手によって、麗華が少女から大人へ成長するための過程はこうして用意されていました。
「義父さん、荘明・・」

BGM:夏川りみ - 涙そうそう

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2007年7月16日 (月)

黒い記憶 自覚

   十九 自覚

「どんな人生の結末になろうが、私は、自分のアイディンティティを守りたい」
 人類が築いてきたいかなる文明もたった一人でどうにでもなる可能性を秘めているという事、昨日まで当たり前に思われ、誰も疑わなかった事でさえ変えられるかもしれません。とどのつまり私達はなんて不安定な世界に生かされているのでしょうか・・
 長い長い閉ざされた世界。
 あの契約の箱を持ち出した時からこの日は約束されていたのかもしれません。
「マック・・」
 私が何を話すのか、あるものは興味を持って、あるものは畏怖を持って・・
 私はすべてを知る者。
「その者を呼びたまえ・・」
 マックはじっと私を見つめ続けていました。
 暗黒の中にじっと潜む者を感じ続けていました。いつの日からか私はずっとこの感覚がどこからくるのか、衛にすら語ることはありませんでした。
「代理人の立場として、あなたの希望を直接伝えられないことが残念です」マックは不思議な顔で私を凝視していました。
「あなたの横にいらっしゃる」
 私の言葉はマックをさらなる畏怖へと駆り立てたらしい。額から大粒の汗が滲み出ていました。
 麗華はなぜか下を向いて、失笑していました・・

 この物語を始めた時、ここにいらっしゃる誰もが腹話術で一人の少女から話をさせているのではないか・・と思いませんでしたか。
 ・・自分自身に潜む別の人格、それが時々思った事と違う行動を起こさせる不思議さを感じた事はありませんか。
 私を常に監視し続けてきたのは、他ならぬ麗華だったのです。
「くく」としわがれた声の老人が笑っていました。
 私はある真実を覚りました。
『悪魔がなぜ存在するのか』
『悪魔は復活するのではなく・・私達自身の中に存在しているということ・・』
『そして、私の中にも・・』

 荘明は、街中の消防車が出動していくサイレンの音で店を飛び出しました。夜空を真っ赤に染め上げる赤い炎がありました。
 瀟洒な洋館の一帯が炎に包まれていました。
  荘明は考えるより先にその炎目掛け駆け出していました。
 上空を爆音を上げ飛行するヘリコプター群、その一帯へ通じる道路はすべて英国軍で封鎖されていました。
 軍隊が出動するほどの暴動が起きたのか辺りを埋め尽くした野次馬を横目に、荘明は巧みに警戒に当たる戦闘服の兵士の目を掠《かす》め、漸《ようや》く、その炎の中心に辿り着きました。
 爆心地と思わしき場所、そこにはかっての建物の姿は無く、無残にもぽっかりと巨大な穴ありました。建築資材は粉々に砕け飛び散っていたのです。どのくらいの量の火薬を用いたらこの状態が生まれるのか、荘明はそのエネルギーの巨大さに驚嘆するとともに、麗華、義父や一族の者を懸命に探し回りました。
 夜空から照射される強烈なサーチライトの中を足を引きずりながら闇に消える姿を捉えました。金髪の男でした。荘明はなぜかこの惨状から逃げ延びた者という直感を感じました。この一帯が軍の規制のため車での移動は不可能でした。男はここから逃げるように歩き続けました。荘明も気づかれないようにその男の尾行をしました。
 軍の規制地帯から逃れると男はタクシーに乗り込みました。荘明もタクシーを捕まえました。
「あの車の後を付けて下さい」
 ルームミラーにはまだ夜空を赤く染める炎がありました。

「衛」
 痩せこけた老人が木製の寝台、それもただの木の床板だけの上に横たわっていました。
 それがかって我同士で師匠、衛の姿でした。
 私達は九龍城にありました。
 全員が血と泥まみれの顔です。
 あの部屋で何が起こったのか・・
 私は酷い怒りの中にありました。自分自身を律することができなかった。それがどこから湧いてくるのか、制御不能になった原子炉と同じ状態・・メルトダウンした。
 あの時、私は自分の中にあるもう一つの人格の存在をはっきりと確信したのです。
『悪魔』そう言うより適切な言葉が浮かびません。
 麗華の顔つきが変化してゆく記憶がありました。もののけ・・妖怪変化とでもいう異常な姿でした。
 顔は狼、体中に鋼のような体毛に覆われ二足で立ち、その手足の先にある黒き長い爪、体毛の下は銀色に輝く鱗で覆われ、床をのたうつ尾が爬虫類を想像させる・・巨大に開かれた口からは赤き長い舌が白濁した液体を滴り落とす。見るからにおぞましき姿。それに呼応するが如く、我手もまた鋼の体毛で覆われていた・・
 獣の咆哮《ほうこう》が耳を劈《つんざ》き、世界は赤い炎で包まれた。あらゆる物が溶けてゆく、その姿形はもはや意味が無く、すべてが無に帰す。長い間押し込めていた魂が解放され、彷徨《さまよい》し魂が今完全なる復活を遂げた。我を押し込めた聖者達の祈りし、愚かでまやかしの呪文を、破り捨て自由を得た・・今こそもう一つの人格をはっきりと自覚したのです。同じ悪しき心でしかまた悪しき人格を呼べない、誰もこの争いを止めることはできない。どちらかが滅びるまで、この地上のすべてを焼く尽くす。それが我使命。
 水を得た魚の如く、戦うことで我魂を鎮められる。

 どこからか我名を呼ぶ者・・

「あなた・・」
 漆黒の中から微かな波動が伝わった来ました。
「あなた・・」
 か弱き女の声・・
『汝は誰ぞ』
 暗黒の中に一筋の光が差していました。
 後たった一歩で奈落の底に落ちる前に踏み板を踏み止まった。そう私には思えました。
『ああ、胸に下がる布袋から、光が漏れている・・』
『サラスヴァティーが生まれ代わり三島つね』
『お前によって救われた・・』

「衛よ、すまない・・」
 堅く瞼《まぶた》を閉じた衛との回顧が走馬灯のように私の周りを駆け巡っていました。
 一族全員がうな垂れ、血に滲《にじ》みし涙を流したのです。
「金本、長老が・・」
 衛一族の最長老が惨殺されている知らせがありました。
 荘明、麗華の兄妹を探す旅、長老が惨殺された霊廟に記《しる》せし『M』の文字・・その組織との戦いは今始まったばかりだったのです。

BGM:ECHOES - Zoo

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2007年7月 7日 (土)

黒い記憶 聖なる使者

   十八 聖なる使者

「それを知って何になるのですか」
 麗華の問いほどマックを喜ばせる質問はありませんでした。
 笑い転げるような笑いが続き、目から涙さえ出ていました。
「麗華、よく聞くがいい、それを知る者は、永遠の命の秘密を得るのだ」
「永遠の命・・」
「ああ、人は必ず死ぬ、そのために生まれてくるといってもいい」
「お前の父はその秘密を隠した・・」
「いや、彼自身からも遠ざけた・・」
「遠ざけた・・」
「ああ、私はずっと探し続けた、なぜ人は死ぬために生まれてくるのか」
「それが運命だから・・」
「麗華、よく聞くがいい」
「人は最初から永遠の命を約束されていたのだよ」
「永遠・・」
「そうさ、私達の創造主は自らと同じ身体と機能を我等に与えたもうた・・」
「でも病気や戦、事故で・・」
「そのとおり、私達は死ぬ、肉体というかぎられた入れ物の中でしか生きられないように、自ら選択した結果にしか過ぎない」
「麗華、お前の父の脳には数千万年に渡る記憶がそのまま存在している」
「まさか・・」
「しかし、金本は神から与えられた能力を得た唯一無二の存在なのだ」
「彼に問えば、仏教の起源、キリスト教の起源すら、単なる民間伝承でしかないことがわかる・・」
「金本は地球の起源すらその記憶にあるだろ・・」
「なぜ・・」
「彼はこの地上の最後の神の意思を持つ者なのだよ」
「神・・」
「そう最期の審判の日、その日を迎えるために使わされた最後の使徒なのだ」
「最後の使徒」
「彼が望めば、この世は終わる・・」
「彼が望めば、かの地より出《いづる》陽さえ滅そう・・」
「お前の父はそういう存在なのだ」
「・・」

「強がやってくる」 
 隻眼隻腕《せきがんせきわん》の老人が両開きの窓から夜景をそっと覗いていました。
 彼は上野で私を拾い上げた女衒《ぜげん》、金本和義の成れの果てでした。なぜマックの下で働いているのか、マックの今日までの足跡を辿《たど》る必要があります。マックに終戦後に拾われこの香港に遣ってきました。マックは私を探しに日本に現れました。華南の地、サラを封じ込めし洞窟で濁流に呑み込まれ、死線を彷徨よい、そして生き延びた。肺と声帯に問題がありました。酸素を取り入れるための装置を背負ってどうにか生きている・・それが今のマックの姿です。獣のような俊敏さと戦闘能力は失わなかった。かえって感覚が研ぎすまされた。
 暗黒を支配してきた一つの勢力から、彼は誘われた。武器商人として満州へ派遣され、日本陸軍へ大量の武器と弾薬を流し続けた。日本が米国と開戦しても彼は第三国を経由して流した。
 満州から日本軍が敗走をはじめた頃だ。
 ベッドだけがある狭い部屋で彼はウィスキーを飲みづつけていた。
 この頃、彼は仕事もせずに酒びたりの日々を過ごしていた。金は持っていた。しかし、彼を求める者はこの地から去った。そして、マックは行き場と逃げるタイミングを逸した。
 激しい雷鳴と叩きつける雨の夜に彼は、霊的な何かの声を聞いた。
『マックスウェル・レオナルド』
 酒による幻聴と思った。
 窓の外を稲妻が走った。
『お前にいいことを教えよう』
「誰だ・・」
 窓の外に馬に乗った鎧《よろい》の騎士がじっとマックを見つめていた。
『この国に、今目覚めようとしている者がいる・・彼は、永遠の命の秘密を知っている・・』
「永遠の命」
『その者は自らの記憶を封じている、彼は海を渡りまたこの地を訪れる』
『彼は船に沢山の女とやって来るだろう、そして南へ下った町の妓楼にいる・・』
 近くに稲妻が落ちた。
 目を瞑《つぶ》らなければならないほどの光が窓から部屋に差した。
 マックが再び窓の外に視線を向けた時、鎧の騎士は消えていた。
 テーブルの上に奇妙な形を象《かたど》った徴《しるし》が残されていました。
 そこには、円の中に毒蛇が血で描かれていたのです。

『あれから十数年が経った』
 幼児から少女へ麗華は眩しいぐらいに輝こうとしていました。
 マックはふとあの夜に現れた使者が少しだけ生きる勇気を与えたのかもしれないと思いました。酒びたりの日々、厭世的な気分の毎日、たとえどんな事であろうが自分を奮い立たせる何かが必要だ・・そのために俺は生きるのだ。
「麗華、お前の義父《おやじ》が遣って来たようだ」
  私と衛は玄関の前に佇《たたず》んでいました。高級ホテルを思わせるほど広い車寄せがありその前に噴水を中央に配した巨大な庭園が整備されています。
 訪ないで現れた隻眼隻腕《せきがんせきわん》の老人に案内され、数々の絵画が飾られた一室で待つようにその奇妙な老人は指示しました。丸いサングラスを掛けていました。まさかあの金本和義とはよもや気がつかなかったのです。それほど彼は変わっていました。

 マックと麗華が間も無く遣ってきました。麗華は何も変わらない・・と私は思いたかった。しかし、彼女にすべてをマックは語ったのかもしれないとも考えました。
 応接テーブルを挟んでかって旅を供にした四人が席を同じくする偶然はすでにずっと昔から用意されていたのかもしれません。
「ご無沙汰しております。金本さん」
 マックは淡々と挨拶を述べました。
 衛の心は澄渡り一点の曇りも無く、まるで沈黙が金である事を実践していました。そうすることで実は彼の暗黒の面を包み隠そうとしていました。しかし、私は衛の中から僅かに漏れる波動を感じ取っていました。
「金本さん、私はこんな廃人同然の身体になってしまいました・・」
「あなたも酷い人だ、あの時、ちょっと注意さえしてくれていれば、こうはならなかったかも知れません」
 マックは本題に直ぐに入りたい気持ちを抑えていました。私には彼の欲望が手に取る様に解りました。
『おや』私は麗華の中に不思議なざわめきがあることに気がつきました。
 それがなんであったのか、ずいぶん昔、女の中にそれと同じ蠢動に似た・・忘れていた愛の経験、そうですあの特有な『ときめき』を感じたのです。
 あきらかに私を全く違う視線で麗華は捉えていました。『女になろうとしている』と私は直感しました。ゆっくりと話す時間があったようでなかった。義父とはいえ仮にも親子として暮らして来た。麗華は今、その義父を違う生き物として熱い視線を向けていました。
「どんなにかこの日を待ちわび、暮らしてきました」マックの率直な気持ちだったかもしれません。
「金本さん、あなたはそれを話す責任がある・・と私は思う」
「貴方は姿形を変え、ずっと一人でその呪縛を背負って生きてきた・・それを封印した」
「どうでしょう、ここで未来について幾つか提案させていただけないでしょうか」
「もちろん選択するのは貴方自身だ・・」
「しかし、残念ながら私のクライアントは非常に気が短い・・たぶん・・答えによって・・」
「生あるいは死のどちらかだけだ」

BGM:Janis Joplin

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2007年6月28日 (木)

黒い記憶 無法地帯

   十七 無法地帯

 世界三大夜景の一つに数えられる香港の夜景、港を埋める船の明り、湾をぐるりと囲むビルディングからのネオンに彩られ、夜空の星々が地上に散りばめられようなすばらしい夜景です。
 香港の『香』の字からもわかるように、香木の集積地であった港がいつしかこう呼ばれるようになりました。実際は南シナ海に浮かぶ大小二百余りの島から成り、最初の市街地であるビクトリア市がある香港島、九龍半島など広範囲の地域で構成され、1842年に清から英国に割譲された土地や租借地を総称して『香港』といいます。
 その九龍半島に砦がありました。
 なぜかその一角だけ中国の領土、飛び地になった恰好で英国の植民地の中にありながら香港の司法の手も届かず、まして中国政府から派遣された役人も存在しない、なにをやってもお咎《とが》め無し、という無法地帯が存在していました。
 九龍城砦《ガウロンセンチャイ》と呼ばれていました。世界中広しと言えど暗黒街だけで成り立つ街はここだけだったのです。法律の無い世界をご存知ですか、ここは『暗黒街の掟』だけで成り立つ人間の掃き溜めでした。中国共産軍による政府ができると難民がこの九龍城へ押し寄せました。わずか3ヘクタールの土地に5万人が暮らす、幾重にも改築を繰り返し天空目指しコンクリートジャングルが延び続け、さらに地下深く迷路のようなトンネルが掘られ続けました。
 売春、麻薬、賭博の類は当たり前の世界です。本来、人の造った法律で取り締まられている社会悪を取り締まるルールが無いのです。
 無法を取り締まるもっとも単純なルール、それは『暴力』です。幾つかの組織が生まれ、力と力の争いが生まれ、より強い者が勝ち残る、弱い者は呑み込まれ、戦いに継ぐ戦いの日々、最期に二つの組織のパワーバランスが生まれ、お互いの組織維持という暗黙の掟の上に微妙な均衡が成立していました。
 私達が香港に居を構えたのと同じく、衛は一族を次々と九龍城へ迎入れていました。
 香港の裏社会を牛耳る三合会は清朝の打倒、漢民族の復権を目指し誕生した結社でした。やはり中国共産党に追われやっと香港にその根を下ろしました。その会の中心を衛一族が占めていました。天、地、そして人という、三つの要素の調和を目的に会が命名されていました。
 九龍城の一角、地下へ続く回廊の先に線香が立ちこめる巨大な霊廟の空間がありました。菩薩像を描いた金糸で編みこまれた大尺の壁掛けを背に、独り翁が数珠を両手に持ち、念仏を唱え続けていました。齢不詳の翁は床までにも届きそうな白髭を生やしていました。
 その階段を忍足で下りてくるものが数人おりました。
 翁はふと念仏を止めました。
「だれじゃ」
 黒いスーツに身を包んだ三人の欧米人でした。いづれも手にリボルバー式の拳銃が構えられていました。
「どこの者だ」
 次の瞬間、霊廟を揺るがす三発の銃声が鳴り響いていました。
 范麗華を救い出すため、警備が手薄になっていました。九龍城からも多くの一族の者達が麗華奪取のため屋敷襲撃に参加していました。事前にその動きを知った者たちが狙ったのです。
「その小僧を連れて来い」
 男達が入ってきた同じ入口から、後ろ手に縛られた若い男が霊廟へ二人の男に抱きかかえられるように連れられてきました。
「この爺で間違いないか」
 若い男は床に仰向けに倒れている翁を見て驚愕した様子で、
「親分・・」
「そうか、わかった」
 黒スーツの男は頷くと、拳銃を小僧に向け、さらに一発発射しました。
 若い男をそのままほうり投げると男達は再び回廊を駆け上がっていきました。
 若い男は薄れる意識の中で、自ら流す血を指に付け、床に文字を書きました。やっと書き終えると同時に息絶えました。
 床にアルファベットの『M』が書き示されていました。
 この油断が衛一族と『イルミナティ』の死闘へ発展するとは、誰もまだ気が付いていませんでした。

 麗華は天井からシャンデリアがぶら下がる部屋のソファに座っていました。ベランダがあり、その向こうに香港の夜景が見渡せるテラスが見えています。火の入っていない大理石の暖炉の上に金属製の鷹《たか》の置物が置いてあり、獲物を狙っている姿でじっと麗華を見つめているように思えてなりません。毛足の長いペルシャ絨毯の上をワゴンを押した背広姿の老人が部屋に現れました。
 隻眼隻腕《せきがんせきわん》の男は器用に片手だけでお茶を給仕しました。
「お嬢さん、ごゆっくりと」
 隻眼隻腕の老人は再びワゴンを押して去っていきました。
 ふと麗華は背後に視線を感じました。
 息を殺してそっと背後に回ったのでしょうか、あのワゴンに意識を捕られた結果、背後に回られた・・衛おじいちゃんに怒られそうと麗華は思いました。
「まだ修行中なのでしかたがない・・」
 地の底から聞こえてくるような金属同士を擦り合わせた響きの声でした。
 瞬間、麗華はソファの反対側へ跳躍しました。男がどう動くか、実力を知りたかったのです。
『あっ』麗華は驚嘆しました。自分のさらに上を飛翔している黒い塊《かたまり》・・視界に入っていました。床の絨毯に到着する前に、麗華は再び背後を男に取られていました。
「はは、作戦はよかった、しかし、自分より力のある者と戦う時は、無謀だ、麗華」
「確実にあの世行きだ」
 麗華は横に再び飛翔し振り向こうとしました。それも空しく、また背後に回り込まれていました。
 ゆっくりと後ろを振り向くと、そこには誰もいません。
『あっ』慌てて前を向くとそこに・・・

「しばらくだ・・私を覚えているか」
  マックスウェル・レオナルド、あのマックが立っていました。
「あなたは・・マック」
「ほう、覚えているか、もっともお前を救った恩人をよもや忘れまい」
「どうだ親父から私の話は聞いてるだろう」
 マックは、麗華の村を襲った共産ゲリラから、今の父や衛と共に范兄妹の命を救ってくれました。しかし、マックは父達を裏切り、麗華一族が永遠に守る使命を与えられた秘密を奪おうとして、濁流に飲み込まれ死んだ・・麗華は衛おじいちゃんからそう聞いていました。
 武器を売捌《うりさば》く『死の商人』、金髪の長髪を靡《なび》かせ、サングラスを掛けた長身の男、磨き上げられた革靴が一部の隙《すき》もない男ということを印象付けます。年齢不詳に見える男は悠然と麗華を見下ろしていました。あの金属を擦り合わせた声がどこからくるのか一目でわかりました。
 喉に何かのチューブが取り付けられ、そこからヒューヒューと呼気が漏れている、このため、そのチューブからも声が漏れるために不思議な音声になっていました。チューブの先は背広の後ろに繋がっています。
「なぜ、私達に付き纏《まと》うの・・」
 マックはその質問が気に入ったように笑顔を見せてこう言いました。
「俺は世界のすべてを手に入れたいと思っている・・そう、すべてを手に入れる、その秘密をお前の義理の親父は握っている・・だから、付かず離れず見守ってきた」
「・・・」
「しかし、時間が掛かりすぎるとクライアントの一人からクレームが入った。さすがに、金主を失う訳にいかない、麗華、お前の親父から聞き出して欲しいのだ」
「・・・」

 漸《ようや》くマックの屋敷の周りを衛と私達が囲んだ頃、我娘は『イルミナティ』のアジア地区の支配人と対峙していました。
 儚《はかな》い命が悪しき者達に翻弄されようとしている。
 私達に平凡な暮らしなど約束される訳が無いのです。

 戦う事でしか生きられない、この運命を重く受け止《と》め、逃げ回る事を止《や》める。
 そこには生と死があるだけです・・・

BGM:Led Zeppelin - Aragorn and Arwen

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2007年6月17日 (日)

黒い記憶 始動

   十六 始動

 マックのいた組織についてもっと知っておくべきでした。
 1785五年羅馬《ローマ》教皇ビウス六世はある結社に対してこう述べたと言われています。
『カトリックの教義になじまない』
 世界支配を目論むヨーロッパの血塗られしロスチャイルド家がアメリカでの代理者としたのがM商会でした。
『イルミナティ』そう組織を呼びます。
 1897年ドレスデンでレオポルト・エンゲルによって組織が復活した時、それはオカルト的要素を取り入れた悪魔主義な組織でした。フリーメイソンとの戦いに敗れたイルミナティは地下に潜み世界へ広がっていきます。
 その手先がマックでした。組織は香港での私達の動向を密かに探っていました。

 熱波が続く夏、眠れない夜、歩くだけでじっとりと汗で衣服が肌に張り付く、脇の下を虫が這うようにゆっくりと汗が流れていった。
  青く輝く満月がビルの谷間からぽっかりと顔を覗かせている。パタパタと自転車が石畳を過ぎ去っていく。行きかう人々が独特な臭気を漂わせ、短い夏の夜を楽しむ。塵溜《ごみため》を連想する民家が軒を連ねる。
 世界は明るい光で満たされすばらしい。しかし、軒下には必ず暗闇が存在しています。

 荘明は高校時代、誰よりも優れた成績でした。回りは誰もが大学に進学すると考えました。しかし、彼は亜米利加に行きたいと義父の私に願いを言いました。
「亜米利加に渡って、多くを学びたいのです・・」
「それは亜米利加でしか、学べないものなんのか・・」
 居合わせた衛はじっと我子同然の荘明を眩しく感じこう言いました。
「時が来たら好きにするがいい、だが、お前にはまだ我一族として伝授すべき技を伝えていない」
 荘明は香港大学の医学部に進学するとそれと時を同じく衛から一族に伝わる奥義の伝授が始まりました。
 大きな倉庫を借り、そこには床上十センチに縦横無尽《じゅうおうむじん》に張り巡らされたロープが床一面に広がる不思議な空間でした。
「このロープの上を自由自在に走れるようになった時、次へ進む」
 大学へ行く前の早朝に荘明は倉庫に現れ、ゆっくりとロープに足を掛けソロリソロリと歩みののろい生き物の如くロープの上を歩き始めます。大学の講義が終わると再び荘明はこの倉庫にこもっていました。
 春が過ぎまたまた若い芽が息吹く頃になっていました。
「おにいちゃん朝どこに行ってるのよ」
 麗華は何度も聞いてみましたが、兄は何も教えてくれませんでした。
『いいわよ、後を付けよう』
 倉庫の密集した中に荘明の自転車は入っていきました。麗華もその後ろを気が付かれないように尾行しました。
 一棟の倉庫の横に荘明の自転車が止めてありました。倉庫に窓はありません。厚い木製の扉をそっと押し開けて、麗華は中を覗きこみました。上半身裸の荘明が天窓から差す僅かの明りの中にいました。床一面にロープが碁盤の目に張られていました。その上をまるで飛び跳ねるように荘明が駆けていました。
 前転開脚の後、逆立ちでそのロープの上を自在にまた駆け出す。麗華は思わず声を出しそうになりました。
「中に入るがいい」
 突然、誰かが後ろから麗華に声を掛けました。そこには衛が立っていました。
「おじいちゃん」
「荘明、もうよかろう」
 一本のロープの上に梟《ふくろう》を連想するように荘明が止まっていました。
「はい」呼吸一つ乱れていない荘明でした。
「蓮華に尾行されたお前は未熟者といいたいところだが、いつかは蓮華も知る」
「おじいちゃん、これは何・・」
「蓮華、やってみたいか」
「これを・・」
「蓮華もやらなければならないの」
「掟《おきて》なんだ」荘明が上半身の汗をタオルで拭きながらロープの上を滑るように歩いてきました。
「お前は先に学校へ行きなさい、蓮華に話がある」
 麗華はその日、衛一族の使命を聞いたのです。
「・・はい、謹んで、ご教授を賜《たまわ》ります」
 こうして范兄妹は衛一族の秘伝の正統な継承者となったのでした。
 また暦が変わり、蓮華は高校を卒業する頃になっていました。

 朝から夜まで人でにぎあう金華街を蓮華は友人数人と歩いていました。
「それで、蓮華はどうなのよ」
 友人等の話の中心は隣のクラスの男子の噂話でした。
「興味みないの、そうよね蓮華のお兄ちゃんよりかっこいい男てめったにいないよね」
 友人が向かうのは蓮華の家が経営する飯店です。お目当ては厨房で手伝いをする荘明でした。精悍な豹を連想する身のこなし、誰もが荘明が放つ人離れした気を感じられずにいました。
 衛に言わせれば、一言。
「修行が足りない、誰にも覚《さと》られない、それが大切だ・・」
 麗華等の前に黒服の男が立っていました。
「あなた麗華さんね」
 長身の金髪の男でした。サングラスを掛けている為、表情がよくわかりません。欧米系の顔立ちです。
「貴女のおとうさん事故に会いました・・私、病院までお連れします」
 友人達と別れ麗華は、男が通りに待たせていた白のベンツの後部座席に消えました。
『これでいいんだわ・・』と麗華は思いました。
 すぐに衛の下に連絡が伝わっていました。
「金本、ついに衝突が起きました」
 私達はずっと見張られた生活を続けてきたのです。
『イルミナティ・・』組織は密かに我々に纏《まと》い付き観察していました。范兄妹にも告げられていました。
荘明がシンクで皿を洗い終えて厨房の外の異様な殺気に圧倒されそうになりました。
 衛が厨房を背に立っていました。
 客席に座る全員が衛に注目していました。
 そのほとんどの顔に荘明は見覚えがありました。毎日やって来る、穏やかな老夫婦、この金華街で魚を商いしている独身男、小学校の教諭をしている女性、この街で歯医者を開業している夫婦、荘明がいつも行く喫茶店のマスター、この地区選出の議員夫婦、金華街を縄張りにする暴力団のチンピラ数人とそのボス、ピンクサロンのオーナーとそのホステス達、街角を清掃している年老いた女性、靴磨きを生業《なりわい》にしている男達、その誰もが一生懸命、衛の一言一言を噛み締めるように聞き入っていました。
「悪しき者達が動きだした。我一族の者が浚《さら》われた」
「誰が・・」荘明はいやな予感がありました。
「麗華は我一族に仲間入りした。その日から生きるも死ぬも我等と一身同体・・」
『ああ、なんてことだ』荘明の身体中に激流が駆け巡りました。
「場所は、香港を見渡す丘の上に立つ洋館の一つ・・蓮華の奪還に向かう」
 その一言を聞くと全員が風のように店から立ち去りました。
 荘明も後に続くつもりでした。
「お前は行くことを禁じる」
「修行中の身、それをよく心得る事」

 また熱い夏が始まろうとしていました。

BGM:Led Zeppelin - Immigrant Song

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2007年6月 4日 (月)

黒い記憶 浮雲

   十五 浮雲《はぐれぐも》

 あの大戦が終わって、平和な日々が訪れると誰もが願いました。日本という国が去った途端に露西亜が満州へ進駐し始め、残留していた日本軍を遥か遠いシベリアへ連行していきました。いわゆるシベリア抑留です。
 何がどう変わるかなんて誰もわかりません。
 共産党という政党が何をしたいのか、どこへ行こうとしているのか、あまりにも理想論だけが先行してこれに踊らされた若者が次々と熱い議論を道端で繰り広げていました。
 その日を生きるので精一杯の人間が、あるともつかない議論に興じているのを私はずっと疑問視していました。
 瓦礫《がれき》の街、スクラップアンドビルドがこの世界を変えようとしていました。
 輝かしい未来を手に入れるために、自由な発言が弾圧され、牢獄へ閉じ込められた多くの若者、そんな社会が正しいのでしょうか・・
 あの大空にぽっかりと浮かぶ一片の雲の端切れでもいい、自分で考え、自分で歩き、自分自身で何かを掴む、そういう新しい生き方を模索したい、そういう人生でなくてはならないはずです。
 だから若者の存在意義があるのです、それを生かせない国などすでに綻《ほころ》んでいます。いつかきっと綻《ほころ》ぶ・・

「金本、これからどうする」
 漠然とした不安だけがありました。
 ここにいてはだめだ、そう思いました。
 人は何のために生まれて、そして生きるのか、この国に答えなどありはしない。

 焼け野原を家財道具を運んでいる多くの人々を河原に衛とぼんやりと眺めていました。
 何かを始めなければならない、粛々《しゅくしゅく》と生きる糧《かて》を得るために働く、これほど当たり前のことを真剣に考えなければなりませんでした。

 万漢全の女達は終戦のどさくさにどこかへ逃げ伸びたようです。私達を待つことは叶わなかったのでしょう。彼女等がどういう運命になったかその後はわかりませんでした。
 兎にも角にも私達、衛と范兄妹だけが万漢全の焼け落ちた建物の前にありました。

「南に下って商売を始めましょう」
 これが私の決断でした。
 挫《くじ》けても挫けても、立ち上がる、これが私の生き方なのです。ずっとこうしてきました。全部失っても、この身一つで起き上がる勇気が沸々《ふつふつ》とどこからか湧いてきます。
「その前にちょっと手伝ってください」
 衛は崩れ落ちそうな建物の中を小走りに駆けて行きました。衛は地下へ続く階段の前で立ち止まっていました。
「どうやらそのままのようです」
 地下へ続く階段の先に衛一族が長年蓄財してきた金塊が山と積まれていました。
 トラックを調達した私達は二日三晩掛けて、金塊をトラックに積み込みました。
 トラックに納まった私達は見渡す限り広がる星空の向こうへ走り始めました。
「かなもとのおにいちゃんどこいくの」
「ああ、たらふくご飯が食べられるところさ」
「そこって、絵本とかある」
 范蓮華《はんれんか》は絵本が欲しかったのです。
「いっぱいあるさ」
「れんは星の王子さまのお話が好きなの」
「どんなお話」
「あめりかていう国の絵本なの、れんのおかあさんがいつも寝る時にお話してくれたの」
「とおいとおい星からこの地球にやってきた王子に砂漠で会うのよ」
「でも最後にへびに咬まれて死んでしまうの」
「死んでしまう」
「ええ、でも王子さまはまた星へ戻っていったの、そこには王子さまが一生懸命に育てた一輪のバラが待っているのよ」
「バラの花」
「そう、いっぱいバラの花はあるけど、ほんとうにたいせつなバラは王子さまが自分で育てたバラだけなの」
「星になって笑っているよ、れんのおかあさんもおとうさんも、りんもみんな、あの星になって笑っているの、ねえ、きらきらて笑ってるみたいにみえるよ」
「きつねさんがこう言いました」

「たいせつなものは、目にみえない」

「いいお話だね、きっと絵本あるよ」
 范兄妹はいつか健やかに眠りにつきました。
 満天の星が手に届くとさえ思えるほど近くにありました。

『たいせつなものは、目にみえない』
 確かに『たいせつなもの』は実はごくありふれた日常にあり、それになかなか気がつかないものです。
 これからどんな運命が待っていようとそれを受け入れる。そして『たいせつな』何かを求め生きていく・・
 心なしか蓮華がくすりと笑ったように思えました。
 香港に住まいを定めた私達は食べ物を売る商売を始めました。中国から亡命してくる金満家は枚挙に暇《いとま》がありませんでした。金にあかし土地や建物を手に入れる。しかし彼らの思惑とおりに商売は進みませんでした。所詮《しょせん》彼らは、この土地の者にとっては余所者《よそもの》でした。
 狭い場所の奪いあいが次々と起こり、人から人に土地や建物の所有者が変わっていきました。
 星霜《せいそう》されて幾春秋《いくしゅんじゅ》、年月《としつき》は変わり人は変われども変わらぬものがあります。

 人の真心《まごころ》です。

 人をたいせつにすることが一番の商売の心得です。いつも屋台で食事を摂る老夫婦、貧乏学生、いつも忙しい、忙しいという稼ぎ人、でも夕暮れになると必ず、屋台に現れ朝方まで不平を言い続けています。そんな市井《しせい》の中で私達は平凡に歳を重ねたかったのです。
 范荘明《はんそうめい》は大学生になっていました。
 荘蓮華は高校生、毎日学校が終わると衛と私の屋台にやってきて、客の接待を担当していました。
 衛もすっかり板前が板につき、白髪の老人になっていました。
 蓮華は衛のことをおじいちゃんと言います、衛も心なしか嬉しいようでした。
 蓮華目当ての若者もたくさん屋台を埋めています。蓮華は実に利発でそして魅力ある女性と変わりつつありました。私が昔、女衒《ぜげん》を生業《なりわい》にしていたなど口が滑っても言えない雰囲気です。
 私の事をお父さんと呼びます。勿論《もちろん》范兄妹は私が闇で手に入れた香港の戸籍上では息子と娘になっています。そして、衛は私の父という、まったく血縁関係の無い家族ができあがっていました。
「とうさん早くビール」と蓮華が囃子立《はやしたて》てます。たまに荘明がやってきて厨房で皿洗いと清掃を手伝い、後片付けの後に家族で食事を摂る。この仕合せが続くことを願っていました。
 しかし、黒い影は私達を探し続けていたのです。
 私達が悪魔と戦うには心を神のようにすることは叶いませんでした。
 私の中のもう一つの魂をそっとしておくべきでした・・

BGM:本田美奈子&佐藤筑前 - When you wish upon a star

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2007年5月14日 (月)

黒い記憶 解放

   十四 解放

 長い長い記憶の旅、心を深く閉ざし、何を求めるでもなく、何かをそっと隠してきました。
ありふれた日常の繰り返しの中であきらめてしまった・・
 実は自分自身が答えが解っているようで一番深い迷宮に囚《とら》われ彷徨《さまよ》っていました・・

『貴女に会うために・・生まれてきました』

 何時間でもサラスヴァティーの前で語り尽くせない時の流れについて語り明かしたかった。
 しかし、現実は一刻の余裕もなく刻まれ、そして辛《つら》く厳しい・・

「カナモトさん、ここがお宝の場所か」
 黒光りしたリボルバーを私に向けたマックが背後に立っていました。
 はたして私が『カナモトさん』だったのか、所詮《しょせん》、この世の姿は仮の姿-移《うつ》ろい行く時と己が姿、名前などあって無き者、
「あなたの欲しい物は何ですか・・」
「すべて」
「ああ、そうですね、すべてを差し上げましょう、ただし、このサラだけは・・このままここに居させて下さい・・」
「サラ?」
「私の永遠の妻です」
 マックの視線がサラスヴァティーに止まった時、彼の喉から驚愕《きょうがく》の呻《うめ》きが起こりました。
「おお、生きたビーナス・・」
 その通りです。マックの直感は正しいものです。
 いつしかサラスヴァティーのこの姿から菩薩が造れら、そしてシルクロードから西へ伝わりビーナスの像が造られました。
 その二つに共通すること、菩薩は蓮《はす》の上におります、ビーナスは貝殻の上にあります。そして、注目すべき点、手の表情です・・顔の表情ではありません。

 眼は心の扉、手は心の触覚です。眼から入ったすべてに触れるために・・手は存在します。
 手をよくご覧下さい、実にうまくできている、親指が他の四本の指と離れて存在しています。他の動物とのこの違いが大変重要なのです。ロイヤル・タッチという言葉があります。『王の手』をご存知であれば、手を触れるだけで病気や心の悩みを癒《いや》す奇跡はすべてこの手によって行われたきたという事実が雄弁に物語っています。ここから『手当て』という意味も生まれてきています。・・手を当てることで癒す・・
 サラの手は愛を象徴しているのです。
 万物すべてに愛を与えよう・・そういう強い意志が発せられています。
 蓮と貝殻の意味するところは、どちらも水のレトリックです。そしてその中に閉じ込められている。つまり氷に閉じ込められたサラを見た者からの噂が世界に伝播《でんぱ》していきました。
「生きているようだ・・」
 サラスヴァティーを他人に晒《さら》すのは数千年間一度もありませんでした。
「これが宝・・」
「あなたが求めているものは違う場所にあります。付いてきて下さい」

 石灰岩を荒く削っただけの壁、百メートルはあろう真っ直ぐなトンネルを通り、行き着いた先に金属製の大扉に突き当たります。この扉をどのように開けるのか、一枚の厚い鉄で鋳造されています。扉というより、この先へ進むのを防ぐために通路に存在しています。
「どうやって開ける?」
 マックは懐中電灯で扉を丹念に調べました。その間中も拳銃を私に向け続けていました。 衛がどうなったのか、彼から宝珠印を奪っていました。
「さあ、これを使え・・」
「開けましょう」
 マックから宝珠印を受け取り、扉の真ん中に開宝の文字が刻まれていました。その上に宝珠印はぴったりと填《は》まります。
「何も起きない・・」
「待つのです」
 微かに石灰岩の床が振動を始めました。
 遠くから何かが近づいてきます。
 物凄い勢いで近づいています。
 ゴーゴーという地鳴りを上げていました。
 ギリギリと金属と石灰岩が擦れる音が始まりました。
「おお、扉が持ち上がる・・」
 鉄の扉が完全に持ち上がるとマックは中へ駆け出しました。私は止めません。
 その先に罠が仕掛けられている事も話してはいません。
 宝珠印は門を開けるための鍵です。水の流れを止めていた鍵です。水車を回し、幾重もの金属製の歯車を回転させます。この水量が軽く数トンはあろう鉄の扉を持ち上げました。そして、マックはその水がどこからやってくるのか知っておくべきでした。
 石灰岩の天井から次々と雫が垂れてくる、水滴が段々と加速度を増し、地底深いこの場所へ槍のように降り注ぎ始めました。
 ある限度を超えた時、辺り一面を水のカーテンが覆い、マックは濁流へ飲み込まれました。
 まだこの先に幾重にも罠が仕掛けられています。それは、ここに聖櫃が無いことを意味しているのです。厳重に守られているからこそ、あたかもこの先に何か大切な物が隠されている、そう思わせるために用意した仕掛けの数々でした。
 結局誰も最期まで辿り着いた者はありません、なぜなら、終わりがないのです。
 チベットを出た時、運び入れた多くの宝石や財宝を隠しています。たとえそれらを手に入れたとしても、聖櫃以外は無意味です。
 聖櫃を探し続けても、ここには存在しない。
 まして私自身がその隠し場所を記憶から削除してしまった。
 
「金本」後ろを振り返ると右脚を引きずった衛の姿が立っていました。マックの銃弾が右脚に命中していました。

「衛、私は完全に意識を取り戻した・・」
「目的の物を手に入れましたか」

 衛ですら欲望を抑えきれない。
『衛よ、目的の物の意味を取り違えている』
 もちろん彼の心には届かない・・
『聖櫃は誰の物でもないのだよ、それは永遠の秘密・・』

「私達一族があなたに従ったのは、その物のため、終にここでそれを手に入れられる」
「衛よ、ここにはないんだ」
 衛の顔は一瞬強張り、何か違う方向に視線が泳ぎました。
「ではどこに・・」
「あなた方一族の呪縛を解放しましょう、累々と築いてきた命の連鎖、あなた方一族だけではない、この地上に生きるすべての起源が封印されている・・」
「それを知ることはあなたを知ることでもある」
「それは生きるすべてのものの中に既にあるものなのです」
『ああ、そうか』
 やっと衛の心からの言葉が返ってきました。
 うな垂れた衛の瞳から涙が零《こぼ》れ落ちました。

『この身体は預かりもの、すべてのものに所有者などいません、わかちあったその時から、幾重もの種が分化し、そして繋いできた、身体を作っているすべての細胞、一つ一つにその記憶が刻まれています・・それに誰も気が付かないだけ・・』

『ああ、王の言葉、心に深く刻みましょう』

 サラスヴァティーの洞窟から帰った私と衛は待ち草臥れて眠りについた范兄妹を胸に抱え、再び戦乱の現世へと旅立ちました。
 星明りを頼りに山間を過ぎたころ、開け放ったままの洞窟の入口が静かに閉じる音がこだましました。

『次に戻るのはいつのことだろう、サラ・・』

BGM:Marilyn Monroe - The River of no Return

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2007年5月 7日 (月)

黒い記憶 輪廻

   十三 輪廻《りんね》

「わしを裏切るとは、ラーマーヤナ、ずいぶんと侮《あなど》ったな」
 砂塵を上げ、見渡す限りの大地を騎馬兵の群れが覆い、過ぎ去った後には草木すら存在しない恐ろしい軍隊が私を追っていました。
 その当時、中原に覇を唱える者はありませんでした。混沌とした均衡が支配し、民は己の生活のため為政者に従っているだけでした。肥沃な大地からの恵み豊な土地が広がり、小さな集落ごとに、一家の長によって統制のある生活が営まれていました。このいくつかの集落が集まり村や郡と呼ばれる政《まつりごと》の単位がありました。
 チベットを出た私達は、落ち着くべき土地を探しました。所詮《しょせん》、余所者の私達に土地を与える者などいません。争い奪うことはしませんでした。峻厳な山々が連なる山岳に居を定め、そこで時を待つことにしました。チベットに暮らしていた民です。山で生きる術《すべ》が役に立ちました。植物から絞った染料で繊維を染める。これは、鉱物を加えることで特殊な色合いを出す技術でした。これを木綿などの反物《たんもの》を染め上げ、村へ行商することで生活をたてました。国を出て数年で山一帯を治める勢力となった私達は中原へ進出するための準備を怠りませんでした。行商の傍ら、村や郡の地勢を調べ上げていました。また一族のものを村や郡の中で店を構えさその土地にとけこませました。
 ブラフマーの送った軍隊はチベット一帯を焼き払ったと伝わっていました。捜索の手は地の果てまでにも届き、私達の山岳地帯の山小屋にも使者が現れました。
「チッベトから逃れた一族を追っている」
 私もそして王の一族もまた野良着姿で山間の果樹園で果物の収穫をしておりました。
「知っていることがあれば褒賞を与える」
 誰が私達ですと言いますか、私達はこの中原にブラフマーに対抗できる国を造ろうと考えていたのです。それまではこの山間《やまあい》でひっそりと目立たずと心に決めていました。
「盧周明《ろしゅめい》」これが中原の名前に従った私の新たな名前でした。
 一族の者の中に硫黄から火薬を取り出す者がいました。松明や火起こしにもそれまで使われていた火薬を竹の筒に詰め、それを土木工事に利用する。山を掘削する、隧道《トンネル》を開けるのに利用する。深い山奥に次々と道を切り開き、山を開拓して行きました。
 道が開くと人々が行き来する、往来が増えると物が行きかう、中原との交流も盛んになりました。
 私の大切な者、サラスヴァティー、忘れもしない永遠の愛を誓った妻・・
 彼女の亡骸は冷凍保存の技術で地中深くと続く天然の鍾乳洞へ安置されました。
 秋の収穫の後に彼女の復活を祈る祭りが知らずのうち開催され定着していきました。
 国を出て十年の歳月が過ぎようとしていました。一族も国を出た時は数千人あまりの人間でした。それがいつしか十倍を超える人間が暮らすまでになりました。
 私達に一つの戒律がありました。民族の純血性を絶やさない、このために他民族へ女を嫁に行かせない、決まりがありました。つまり、他国のこれという男を迎え入れ領地を与え一族に取り込む方針が貫かれました。
 この政策はある意味でこの時代の不安定な政情から考えるとずいぶんと他国へ影響を与えました。生まれてくる新たな命を育む政策をする国などありません。為政者がいるだけで、民は彼のためにあり、労働で得られた糧はすべて搾取の対象でしかありませんでした。
 我地へ行商や仕事で訪れた若者は驚きました。一つ一つの領地が独立しており、租税を納めることで国が成り立っている。老いたものを各領主が面倒をみるなど、人心を捉え離さない政策の噂がいつしか中原にも広がっていきました。
 人は生まれた時から必ず何かの役割を与えられて生まれてくるのです。その役割はそれぞれに違いはあれど何一つ無駄な役割はありません。ただ気がつかない、何のために生きているのか・・

 中原に大きな戦火が上がりました。
 為政者同士の権力争いです。
 罪なき多くの民が戦火を逃れ、我領地を頼りに道を埋め尽くしました。百万を超える人間でした。時は満ちていました。この時を待っていました。数千頭を超える馬に我兵は騎乗し中原を目指しました。中国史上最初の火薬を用いた戦争がこうして始まりました。端緒でその強力な兵器は圧倒的な優位を得ました。進軍に継ぐ進軍の後、気が付いた時には中原すべてに覇を唱えていました。
 実り豊な大地を得た我一族は、戸籍を定め難民それぞれの土地に住まわせ、生きる術を与えました。収穫の一部を納めることで成り立つ社会。人を育てるには教育が必要です。礼に始まって礼に終わる・・これが私が目指した世界です。しかし、どれだけ時が流れようが色々な物の考え方、見方があります。
 一族だけではこれだけの領地を経営することは不可能でした。官吏を命じた者には地方で領民から賂《まいない》を取る者、残虐な行いが絶えませんでした。粛清を度々行っても改善は一向に捗《はかど》りません。
 善悪の均衡が取れてこの社会を経営するべきとやがて気が付きました。
 怠け者や良からぬ者にも職を与る。飲食場、演舞場など人の集まる場所に彼らを住まわせる。もちろん彼らを取り締まる親方を置くことで睨みを利かせました。兎にも角にも試行錯誤の末に中原を平定したのでした。
 ブラフマーにも中原の動静は伝えられていました。
「そうか盧というものが平定したと・・」
「そろそろ奪いに行く時だな」
 ブラフマーの軍隊の兵士は中原の大地を埋め尽くすだけの数でした。
「いかに」
 宮廷に軍師達が指示を待っていました。
「押し返そう、そして私はこの地を去る、お前たちは我妻の墓を守ってくれ・・」
 三百四日ブラフマーは攻めてきました。
 その度に押し返しました。
 軍師の中には守るだけではなく攻めるべき意見もありました。互いに疲労していました。和議の使者がブラフマーよりやってきました。
 私の去る時が来たと考えました。
 しかし、それは敵の戦略でした。和議が成立した後、地平線を埋めていたブラフマーの軍隊は潮が引くように姿を消しました。
 国は勝ったも同然です。三日三晩祝いに国民は酔いしれました。その中を、私は十名ほどの屈強の若者を従え海を渡った東にあるという瑞穂《みずほ》に旅立ちました。聖櫃はこうして海を渡ることになりました。
 しかし、国より数里進んだとこで、遠く中原に炎が上り、あちらこちらに黒煙が見えました。
「ブラフマーよお前は・・」
 和議など始めから無かったのです。地平線にまたブラフマーの軍隊が黒く染めていました。
 この時、私の目から血の涙がこぼれました。
 従者の者を従えその地を去ることしかできなかったのです。

 氷の柱が幾重にも重なり、そのひんやりした空気の中を私は古き記憶を覚醒しながら、サラの前に再び戻れました。地底深くサラを封じて数千年の時が流れました。氷の柱は地上からの光を得、まるで蛍光灯の如く洞窟を輝かしく神秘な明るさを満たしていました。
「おお、サラよ・・」
「私は生まれ変わった、またお前に会えるとは・・」

 氷結されたサラスヴァティーはまるで生きているように、微笑んでいました。

BGM:Breakfast at Tiffany's -- Moon River - Audrey Hepburn

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2007年5月 2日 (水)

黒い記憶 失ったもの

   十二 失ったもの

 私の前にある奇跡。
 それは人間の生まれながらの罪を刻んだ石板を封じ込めた箱です。
 サラスヴァティーの待つ国へこの箱を持ち帰る事の意味をしばらく考えました。
 この箱の秘密を守る。
 決断するにはそれほどの時間は必要ではありませんでした。
 永遠に秘匿すべき箱、この秘密に辿り着く者が再び現れるかもしれません。人間がもしこの地上に存在する限り、この箱は封印されるべきなのです。明かしては決していけない真実もあるのです。
 私は心に誓いました。
『この箱を永遠に封じ込め、そして貴方の彷徨《さまよ》える魂を安堵へと導きましょう』
『おお・・』
『そなたはやはり、私を導くもの・・、お前だけには真実を知る権利を与えよう』
『つまり、箱を開けてもいいということですね』
『そのとおりだ』

 これからどれほど人間の歴史が綴られようとこの真実が隠蔽《いんぺい》することですべてが成り立っているのです。

『箱を開けよ、さらば得られん』

 古び朽ち果てる寸前のアローン・ハッコーデシュの鍵は秘匿された往時以来初めてその役割を果たそうとしていました。
 鍵を回すにはかなりの力が必要でした。
『開けていいのでね』
『ああ、真実は一つだけでいい・・』
『すべては分かち合うことから始まる・・』

 木箱の蓋《ふた》を開けました。
 映画のような光が溢《あふ》れたり、なにか想像もできない奇跡の場面は用意されていませんでした。

 中には台座に載ったダチョウの卵ぐらいの巨大な卵の殻が朽ち果てた状態で保存されていました。
 もしその価値を知らないものが見たら、『なんだ、卵の殻だけ?』と思うでしょう。

 私はすぐにすべてを理解できました。
『ああ・・』思わず床に崩れ落ちました。
 どれだけ時間が経過したでしょうか、私はずうと箱の前で涙していました。
『創造主よありごとうございました。私はこの秘密を永遠に守りましょう、但し、この約束を私が破った時には・・』

『説明しよう』
『人間はたった一人だけだった』
『彼は・・卵から誕生したのだ』
『ずうと彼は一人ぼっちだった』
『私は彼のためにパートナーを作るべきだったかもしれない・・』
『彼は孤独に耐えられず、自分自身で滅びようとしていた』
『そこで、私は・・知恵の実を与えてしまった』
『・・』

『すべてはそこから始まったのですね』
『彼は自らの肋《あばら》の骨より、自己複製から、生殖器を持ち、有性生殖を行う人間を創った』
『つまり臍《へそ》を持った人間が誕生したと・・』
『彼は永遠の自己再生という能力を失った、滅びることを自ら選択したのだ』
『おお、さすれば・・人間は最初から自ら創った戒めを破っていたのですね、おお、自ら交わった・・』
『その殻の底をよく確かめよ』
 私は箱よりそっと卵の殻を持ち上げました。
 殻の底には卵の澱が真黒く石化していました。
『これが石板?』
『そちならばわかるであろう、その黒い石の意味が』
 創造主の意図を計りかねていました。
 卵の底の黒き石・・
『そうか、最初の人間の細胞がここに記憶されている・・』
 その卵の底には永遠の命の秘密が隠されていたのです。
『私はそれを自らの戒めとして、封印した』
『この黒い記憶・・を得たものは・・』

 アローン・ハッコーデシュの箱の収められていた部屋を辞し、私は王の前へ進み出てこう言いいました。
「王よ聖櫃をここより安全な場所へ移動する。
ブラフマーには偽の箱を用意し与える」
 王に命じた通り偽のアローン・ハッコーデシュを携えサラスヴァティーの待つ城へと戻りました。
 ブラフマーは本物のアローン・ハッコーデシュの鍵に驚嘆しました。
 よもや箱が偽物とは気がつきません。
 ただ疑い深いブラフマーは鍵穴を調べました。
「確かに、これは聖櫃の鍵」
「お前は開けなかったのか・・」
「はい、約束を守りました」
「そうか、ではサラスヴァティーをお前に娶らせよう」
『ああ、ついに・・』
 私はサラスヴァティーの待つ部屋へ駆け急ぎました。
 そこにはすでに病で逝ったサラスヴァティーがベットに静かに横たわっていました。
 周りを侍女達が涙して取り囲んでいました。
「おおラーマーヤナ様・・」
 侍女の一人がサラスヴァティーの最後の手紙を渡してくれました。
《 ラーマーヤナ
 
 私の夫はラーマーヤナだけ
 貴方に現世では結ばれませんでしたね
 しかし これから誕生と再生を繰り返す無限の時の中でサラは必ず貴方を見つけ出します
 ラーマーヤナ 貴方も悲嘆に暮れる事なき心構えで私を探し続けて下さい

 永遠の妻  サラスヴァティー 》

 私に勇気と知恵を授ける者、それはサラスヴァティーだけ。
 ブラフマーからサラスヴァティーの遺体を下賜されると私は本物のアローン・ハッコーデシュの箱を永遠に葬るためチベットへ戻りました。
 私の帰りを待っていた王達は私に同行すべく多くの兵と共に王宮の外で出迎えました。
「ラーマーヤナ様、ブラフマーが箱に気が付き、既に追っ手を放った旨が届けられております。一刻の余裕もございません。数万の兵が今、この国を襲おうとしています」
「お前たちが戦うとするか・・」
「私達は聖櫃を守るために生まれました。そのためなら、この命、いかようにもお使いくだされ」
「ブラフマーの目的は聖櫃だけだ、そして我命を奪うために兵を繰り出している。私が聖櫃を別の場所へ移動しよう、供はいらない」
「ラーマーヤナ様、誰も貴方の言うことを聞かぬ者はおりません。私達はただ貴方の後ろに付いていくだけです」
「そうか、では中原へ向け出発する」
 こうして私はサラスヴァティーの亡骸とアローン・ハッコーデシュの箱を携え、約束の地カナンを目指したのでした。
『黒い記憶を守るために・・』

BGM:Gackt - Mizerable

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2007年4月23日 (月)

黒い記憶 光あるうちに

   十一 光あるうちに

「王よ、眼を潰《つぶ》すのではありません。眼を瞑《つむ》るのです・・」
 私はチベット山中にて白虎よりアローン・ハッコーデシュの鍵を得ると急ぎ宮殿へ戻りました。
「おお、なんとしたことか、お前は・・、その鍵こそ失われし聖櫃《アーク》の鍵」
 王自ら王座より下り、私の前に平伏したのでした。その場に居合わせたすべての人々がこの薄汚れた長髪の若者を奇異の視線で注目していました。
「王よ、過去に来た若者は箱を開け、石板の真実を知ったのか・・」
 王は両目に涙を溜めていました。
「否、誰も真実を知った者はおりません・・」
「それでは、なぜ彼らは選ばれた」
「最初のインドの若者は沙羅双樹の下で悟りました。彼はすべての人間が生まれた時から贖罪《しょくざい》を背負って生まれてくることを知りました。二人目の若者は、沙羅双樹の下で全ての罪を背負う約束をしました。そしてこの罪を許す事、これが人間の運命であることを知りました」
「彼らの魂の彷徨《さまよい》は救われました・・」
「迷っていたと・・」
「彼らは選ばれたのではなく・・彼らは気がついたのです」
「何を・・」
「それが、石板の真実です」
「さあ、我王家の預かりしアローン・ハッコーデシュまで御案内いたしましょう」

 私が生まれた理由がこれです。
 たった一瞬のために生まれてくる。

 それが運命《さだめ》とはなかなか気がつかない。万物全ての存在理由、そんな理由などないかも知れません。この世界を作りし、何者か、その意思に背く唯一の存在とは・・
 薄暗い廊下にやっと届く外界からの光、堆《うずたか》く積もった埃《ほこり》ぽっい暗室に聖櫃は保管されていました。箱は極平凡な木製でできており、上部に二匹の獅子の彫り物が向き合っています。箱を運ぶために底には二本の梁《はり》があり、その上に載っていました。
『開けるべからず』誰かが私の耳元で囁《ささや》いておりました。
「王よ、独りにしてください」
 王は恭《うやうや》しくお辞儀をし、私を独りにしてくれました。
『なぜ、これを残した』私はいつしか自分自身で、誰か、その誰かは解りません。

 その者と語り合っていました。

『なぜ、永遠に封印しなかった』
『教えずにいられない・・』
『何を』
『私の悲しみを・・』
『それを知って、なんになる』
『とても独りでは受け入れられない』

 次の瞬間、私は銀河の星々が放つ光渦の中に放り込まれていました。暗黒と光があるだけの沈黙の世界。次々と星々が誕生しそして滅してゆく。どんどんと光が増し終《つい》には何も無い・・
 暗黒だけの世界・・
 どこからか僅《わず》かに光が差していまいした。
『私はずっとここに閉じ込められていました』
『いつかここを出ようと思った』
『ただそれだけが望みだった』
『なぜ出る必要があった』
『出たい、出たい、どんなことをしてでも出たかった』
『では、出ることができた』
『ああ、出た』

 青空が広がり、新鮮な空気が流れる大地、見たことも無い植物が咲き乱れる。
 突然激しい雨が降り注ぎ、あらゆるものを押し流した。濁流が僅かな大地さえ奪おうとしていた。
『すべては貴方が作った』
『作った、作った、全部作ったさ』
『考えられる全てを作ってみた、しかし、何か、そう、いつも空虚さだけが常に付き纏《まと》った』
『壊しては、また作った・・』
『そして、ついにやってはいけない、掟《おきて》を破った・・』
『おお、そのとうりだ』
『なぜ、お前は何者だ』
『その手の中にあるものは、おお、聖櫃の鍵、そなたが、おお、ついに終末が・・・』

『私にも解りました』

『おお・・』大の大人が泣き叫ぶ声が止みません。ある意味で子供が泣き叫ぶようにさえ聞こえました。
『石板には貴方の罪が刻まれている』
『貴方の罪を封印した、そうですね』
 泣き声が止まりません。嘆き悲しむ声が頭の中を駆け巡りました。

『甘えたことを言うんじゃない』
 なぜそんなことを私が言えたのでしょうか、今もって不思議です。

『貴方自身が罪人だった』
『貴方は犯した罪によってずうっと牢獄に幽閉されていたのですね』
『そしてそれを告白したい欲望をこの箱に封じ込めた』
『あの時・・終わりにすれば・・』
 沈黙が支配しました。太古の生物でしょうか、原始アメバーが蠢《うごめ》く水面《みなも》、生と死が繰り返す、とても儚《はかな》い生物のコロニー・・
『貴方と同じ生物を作りたい欲望に負けたのですね・・』
『はい』
『しかし、貴方の期待を裏切ったのですね』
『ええ・・』
『やってはいけない、知恵の実を与えた・・』

『ああ、貴方はやはり・・』

 地球に起こったすべての進化を、私は一瞬で体験しました。あらゆる地域で起こった事象・・、それを語ることは不可能なことです。爆発的な繁殖の末に人間がこの世界の支配者になるまでの永遠とも感じる時間を切なに知覚したのです。
『実を与えたために・・・』

 人が急速に増えていく様、人と人が争う、愛、憎しみ、怒り、嫉み、裏切り-殺し合いが起こる。悲しいかなそれでも人々が地表を覆いつくしてゆく。地上の王者になるのは時間の問題でした。
『貴方は、それでも人々を許し続けた』
『私は-』
『私の作った人間を愛してしまった』
『しかし、愛は得られなかった。それ故に私自身でこの生物・・の未来を奪う決断をした』
 
 暗黒の空、途絶えることのない雷鳴と雨、昼夜の区別は無くなり、光が失われた。
 地表は雪と氷で覆われ、あの緑豊な大地は灰色の世界に変わった。大いなる海はその命の育みを止め冷たく凍ったままになった。

 どれだけの時が経ただろうか、この世界に生き残った人々が存在していることに気がついた。
『生き延びた、彼らは互いに協力し、自らその運命《さだめ》を受け入れたのだ』

BGM:Louis Armstrong - What a Wonderful World

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2007年4月16日 (月)

黒い記憶 降臨

   十 降臨《こうりん》

 対岸に見えた一団の白装束の兵士達は、白蝋化した兵士達の上に石灰が長い年月を掛け降り積もり石化したものでした。立ったままで死んでいるその姿形は、今にも自由に動き出し、手に持った剣、斧、槍を我々に向け襲いかかるように感じました。
 この先にある物を守るため生きたままここに立ち止まっていたのです、それにしても異様な光景です。
 肌が透き通って見えます。眼でさえ黒々とした眼球をこちらに向けていました。これを見た多くの盗掘達は畏怖《いふ》したでしょう。
 衛は盛んに経を唱えていました。
「我が祖先達です」衛は合掌しました。
「貴方をここへお連れすることができました」
 私にもはや案内は必要ではありませんでした。
「光満たれりし縁《えにし》、我心、ここに置き去りし・・」独り言を言いながら先を歩いていきました。
「八百神《やおろずしん》といえども、叶わぬ願い、サラスヴァティーへの恋心、ああ、その切なき思いを記し、ここに封印せし・・」
『サラスヴァティー?・・』
 私は突然青く輝く光に包まれたような錯覚を感じました。じっと立っていることさえままならぬ状態で洞窟の地面に思わず跪いていました。
『そうか、ここにいた・・』
『追われて、ここにやってきた。長い、長い旅の終わり、永遠を誓ったはずの愛の結末・・』

 私の頬を伝う涙は床に一つ、また一つの雫となり、遠い記憶の残滓を剥ぎ落とした末の悲しみの川を作っていました。
「衛、ここから先は私、一人で行きましょう」
 衛とマックを残し、私は狭い石の回廊を下へ下へ下っていきました。
『あの時、なぜ・・』
 私の中にある記憶にとても神々《こうごう》しい女性の顔がはっきりと浮かんでいました。
 あの川で初めて会った時から・・
『そうか、つねは生まれ変わりなんだ』
 私がなぜ三島つねに特別なものを感じたのか理解しました。

 すべては真夏の夜の出来事からです。

  ブラフマーの妻サラスヴァティー・・
 私達はあの聖なる川で出会い愛に堕ちた。
 道ならぬ恋、激しく燃え上がる炎、満天の銀河、密会を重ねる内にブラフマーの知ることとなりました。
 一諸侯の家に誕生した私は辺境の地への左遷を命ぜられます。とても長い旅の果てに一年中灼熱の太陽が輝く地の守りを任せられました。このまま、サラスヴァティーとは会うことはない、そして諦める。自分に誓いを立てて赴任しました。しかし、昼夜問わず、私のサラスヴァティーへの思いは募るばかりで、悶え苦しみの日々が続きます。そんなおり、国からの書状にサラスヴァティーが病気で寝たきりになったことを知りました。
 私は仕事を放棄し、三日三晩馬を繰り、国へ戻りました。
 ブラフマーは王であり、また神でもありました。すべてを知る者です。
 王宮の入口にブラフマーは待っていました。
「お前に命ずる。東方のどこかに、この世界を作った神の記憶を封じた石板がある。それを持ってきたならば、サラスヴァティーをお前に娶らせよう」
「アローン・ハッコーデシュの箱に収められている」
「さあ、行くが良い」
 私は命ずるままに東の地を目指しました。
 激しい嵐のような旅の連続の果てに、私は漸《ようや》くアローン・ハッコーデシュの箱の噂を聞きつけました。
 今のチベットの地にその箱はありました。
 ブラフマーは私にこのような注意をしていました。
「絶対に箱を開けてはならぬ、開けたものは確実にこの世の地獄を味わうだろう・・」

 この地を治める王の宮殿に安置されているということを町の古老から聞きつけました。
「あんたで三人目だ」
 枯れ果てた素顔に窪《くぼん》んだ眼窩《がんか》、白髪の老人は呆れたように私をジロリと睨めつけました。
「一人はナザレから来た若者、もう一人は随分と昔になる。インドからの若者だったかの・・」老人は目を細め頼りない記憶をたどっていました。
「石板を手に入れるにはどうしたらよいでしょうか」
 老人は何か特別な物を見るように驚いていました。
「石板を見るには、ある条件を満たさなければならない、まず、王に謁見を申し出なさい、そしてその条件とやらを行う必要がある。失敗した時は、ただ死があるのみだ。それを手に入れるなんて誇大妄想もいいところだ」

 光り輝く王宮内部は古今東西の調度美術品で彩られ、ありとあらゆる宝物が集められた宮殿でした。
「ほう、石板をもらいたい、これは驚いたことを言う若者だ」
 周りに王妃を侍らせた王は興味尽きない笑みを浮かべていました。
「あの箱に収められた石板を見たいと訪れた若者はいるが、それを欲しがる者が現れるとは・・」
「我王家に代々受け継がれ、守られてきた石板は誰にも渡すことはできない、しかし、その石板を見ることだけは許されている・・」
「いかに」私は床に額《ひたい》を擦り付けていました。
「このチベットの聖なる山に棲むという白虎に会う必要がある。白虎は自ら会うべきとわかれば現れよう、次にその白虎よりアローン・ハッコーデシュの箱を開ける鍵を貰わなければならない、そして最後に己が両の目を潰す事、これで石板を見る者となる」
『眼を潰す・・眼を無くしてなぜ見えよう・・』
「最後に注意しておこう、白虎は無用の者の前には現れない、もし偶然に会う機会があったとしよう、白虎は選ばれし者ではないとわかれば、必ずその者を食い殺すだろう」
 かくして私は白虎を求めチベットの山奥深く分け入りました。
 高地のため息苦しい上、熱帯ジャングル特有の高温多湿の中を彷徨い続けました。意識朦朧《いしきもうろう》とする中で何度もサラスヴァティーの顔が浮かび、掠《かす》れゆく意識を救ってくれました。
『あなただけに愛を誓います』
 だたそれだけで私は歩き続けました。
 熱帯特有の植物が鬱蒼《うっそう》と生い茂る森の終わりに、青い空がぽかっりと覗く場所がありました。小川のせせらぎがあり、色とりどりの花が咲き乱れていました。蝶や昆虫が忙しそうに動き回っています。私はすでに限界を超えていました。
『ああ、あの木の下で休もう』
 漸《ようや》く身体を一本の大木の下に休めました。薄れいく意識の中で何かとても懐かしくそして芳《かぐわ》しい匂いがありました。
『沙羅双樹《さらそうじゅ》の下《もと》に眠る若者よ、汝の名を尋ねよう』
『ラーマーヤナ・・』
『なんと、その名は王の名前、そして我主《わがあるじ》』
『汝に問おう、何ゆえにここに現れましたか』
『アローン・ハッコーデシュの鍵を貰い受けたい』
『おお、おお、終《つい》に予言の者がやった来た』
『私は預言者、ヴィシュヴァーミトラよりこの木をお預かりいたました。数千年後、若者が三人やってこよう、一人目には罪の実を、二人目には許しの実を、そして最後に現れる若者には希望の実を授けよと承りました』
 小川のせせらぎの音がさわやかに聞こえます。
 この世の全てが美しく輝きだしました。
『これをお受け取りください』
 私の膝元に白虎が背中を丸くして静かに息絶えていました。
 私の右手の中には赤茶けた青銅の鍵がしっかりと握り締めらていました。

BGM:Kathleen Battle - Ave Maria

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2007年4月 8日 (日)

黒い記憶 見えないもの

   九 見えないもの

 あの時、私に起こったすべてを語るにはあまりにも長い年月が過ぎ、詳細な事象を説明が出来きません。しかし、あの場所で起こったすべてが、今、ここに存在する私という人格を形成した最大の要因であることにおいて、一点の曇りもない真実です。
 天地の起源など誰が知っていましょう、それを唯一知る存在がもし『神』と呼ばれる者であるとしたら、私はその者によって『選ばれし者』となったのです。

 暗い洞窟が続き、饐《す》えた匂いが充満した中に、幾重にも重なった髑髏《どくろ》が転がる。松明《たいまつ》の明りだけを頼りに先の判らない暗闇を進みました。入口に范兄妹を待たせたのが正解と思いました。
 幾たびかこの場所へ宝を求めた者達の無残な姿だけが至る所に朽ち果てたまま転がっている。足元の屍《しかばね》を踏まないように進むのが困難なぐらい夥《おびただ》しい骸《むくろ》があったのです。
「ひどいもんだ」とマックは松明で行く手を照らし慄然《りつぜん》としていました。
 屍を住処にした鞘翅目類の虫が徘徊する様はとてもこの世の物と思えない景色でした。
『カサカサ、カサカサ』と洞窟に響く音はまるで小川の漣《さざなみ》の如く聞こえました。
「これを着けて下さい」
 衛は背に背負ったリックから毒ガス用のマスクを取り出し渡しました。
「この洞窟には硫化硫黄が噴出す。これで、盗掘しようとした者はやられた」
 確かに、奥に進むにつれ、どこか息苦しい匂いが充満していました。
「この先は松明は消して、懐中電灯を点けます」
 天井がますます低くなっていました。どこからか水の流れる音が聞こえてきました。時々、天井から水の滴りがマスクのガラスに当たり、拭う必要がありました。
「私達は今、湖の下を進んでいます」
 水の流れる音がいよいよ激しくなっていました。突然、昼間のような明りが先から差し込んできました。
「ここから、滝の下をくぐります。そして壁伝いに進みます」
 私達は水が激しく落下する滝の下にできた窪地を慎重に進みました。滝の水は激しく下へ落下していました。時々、その水の帯が裂け、遥か大地の景色が顔を覗かせる。この滝がとんでもない高い山から流れ落ちていることがわかりました。遠く見渡す大地はどこか悲壮を感じさせていました。
 再び洞窟が続き、まるで迷路のような分岐が次々と現れました。衛は諳《そら》んじるように一度も躊躇《ちゅうちょ》することなく道を選択しました。衛は金印の絵図を全て暗記していたのです。
 細い岩橋がありました。地の底から吹き上げる強い風で何度も吹き飛ばされそうになります。ふと下を見ると、そこにも夥しい屍が折り重なっていました。『下に恐ろしきは欲望なり・・』と人間の弱さに身震いが起きました。
 また、明りが差し込んでいる場所が行く手に現れました。細い光が天井から差しています。光の下に底の知れない大きな亀裂が横たわっていました。
「大地の裂け目とはこの場所か」衛はじっとその奥底を覗いていました。
「我が一族の一子相伝にあります。この裂け目の秘密です」
「この国を治める者、汝この穴より出で、この穴に供物を捧げるべし」と衛は語りました。
 辺り一面、石灰岩で白茶けていました。
 長い年月を掛けてできた、石灰岩の柱が天井から生え、巨大な神殿を形成していました。
「おお」マックの叫びでした。
 彼の足元に金貨が貝塚のように堆《うずたか》くありました。
「それは、ここに隠された宝の一部で、なんの価値もない」衛は何かを指し示していました。
 その先は裂け目の向こうにある壁でした。
『あ、人間がたくさん立っている』と私には見えました。そこには白装束《しろしょうぞく》、白冠を身にまとった多くの兵士達でした。
「ここを渡る必要がある」
 幾たびかここを渡るべく試みた者達の跡がありました。ロープがあちらこちらの石柱に結わえてあります。しかし、どれも、裂け目に仕方成しに垂れ下がっているだけです。
「こう言い伝えられています」
「見えないものを見えないとし、見えるものを見えるとする。これ見える事なり」
「謎々だな」マックは金貨を袋に詰めていました。
「あるものはもらう主義だ」とマックは二人の視線を感じてこう答えました。
「見えるもの・・・」
 私にはなんとなくわかっていました。
 それはずうっと昔、誰か、その誰かはわかりません、聞いた記憶があったのです。

「見えるものとは、この世の物、見えないものとは、この世の物ではない・・」

 衛とマックが私を凝視していました。

「・・・契約の箱とは、そもそもモーゼが作らせたとあるが、その箱自体がこの世の物ではなかった・・」
「聖櫃《せいひつ》に唯一残された十戒の石板・・」
『なぜ、私がこうもすらすらと意識さえしたこともないことを話せたのか・・』
「シナイ山でモーゼはヤーウェから十戒を授かる。その後、四十年間荒野を彷徨い、辿り着くべき、約束の地、カナンを前に彼は没した・・」

「約束の地、カナンとは華南です」

「ああ、そうか・・」衛が地面に平伏していました。
「失われた聖櫃《アーク》・・」マックが戸惑いを隠せないで佇んでいました。
「モーゼ以外、十戒の石板を見たものは誰もいません。ただ、言い伝えがあるだけで、各宗教で都合のいいように伝えられた」
「契約の箱は失われたまま、数千年間、ここに眠ってきました」

 依然、私達の前には幅五十メートルはあろう亀裂がありました。
「石板に書かれている真実こそ、人類の永遠の秘密なのです」
  衛が説明を加えた。
「つまり、その聖櫃を手に入れた者がその秘密を知るというのか」とマックが欲望をぎらつかせた眼で私を見つめていました。

「見えないもの、それはこの亀裂に満たされる物・・」

「水・・」
「そうです。マック、水満時《みずみつるとき》、道おのずと開かれん」
  衛がこの強大な石灰岩ドームの水音がする場所を突き止めました。
「人間の手によって作られている」
 石灰岩をブロック状に積み上げらた堰《せき》がありました。
「ダイナマイトを仕掛けましょう」
「その必要はありません」
 それも私は知っていました。
「一番上に一つだけ、石灰岩以外の岩があるはずです。それを横にずらしてみて下さい」
 マックが岩をよじ登りました。
「あった。栓《せん》の岩だ」
 マックが岩を移動させると、そこから水が勢いよく流れ出してきました。
「ここを避けたほうが良さそうだ」
 一行は壁から離れました。
 最初、一つの穴から噴出していた水が突然、壁全体を押しつぶすと、激しい濁流が亀裂へ押し寄せていきました。
 一時間ほどで亀裂は泉となり水が満たされたのです。水面は鏡のような静けさを得、天井から降り注ぐ光でまばゆい輝きに覆われました。
「さあ、泳いでここを進みましょう」
 冷たい水の中を対岸に向かい泳ぎ出しました。
 行く手には、白装束の兵士達がじっと、この数百年ぶりの珍客を見守っていました。

BGM:Hikaru Utada - Colors

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2007年4月 7日 (土)

黒い記憶 変わらないもの

   八 変わらないもの

 どこまで行っても地平線、ユーラシア大陸が如何に果てしなく続く陸《おか》ということが、狭い島国に住んでいる者のとしてなかなか実感がいかないものです。
 繰り返し報じられる戦火と難民の彷徨《ほうこう》。
 戦闘の無い日が存在しない。
 どうして生きてゆけばよいのか、いつも犠牲は弱く貧しい民ばかり・・
『人が人を殺戮する』こんな悲しい日々の中で、その日を生きるだけで精一杯なのに、新しい命を育《はぐく》む。『命とは繋《つな》いでゆくもの』とつくづくと感じました。
 私は今はっきりと自身をもって言えることがあります。『あの戦争は、アジアが欧米列強に牙を剥いた最初の戦いだと信じています。誰も好き好んであんな植民地政策などしなかったでしょう、満州、朝鮮、いずれも清の圧政の中で生きていた民です。必ず、露西亜が南下政策で支配したでしょう、しかし同じアジアの民、日本の多くの尊い命と引き換えに守ったのです・・・』
 私達は徒歩で大陸を横断しよとしていました。かの昔三蔵法師が仏典を求め遠く印度を目指したように、山、谷、森、川、という大地を象徴するあらゆる地形を進みました。どこで戦争が行われているのかというような、長閑《のどか》な田園風景があり、悠久の時に出来上がった深山幽谷。空を自由に飛びまわる名も知らぬ鳥たち、人間の思惑など持ち込みようもない世界。
 そんな場所にも山賊と化した共産党のゲリラが行く手を阻みました。なにが一番恐ろしいのか、中国人にとっても同胞からのリンチ、強奪、これが残酷の極みでした。戦後、このほとんどが日本軍の仕業のように喧伝されました。悲しい事です。日本は武士《もののふ》の国です。儀をもって事に当たることを本分にする民族です。
 山間の村に差しかかった時です。
 いくつもの銃声と泣き叫ぶ悲鳴が木霊《こだま》していました。
 共産党ゲリラが山間の村を襲撃していました。なぜ、同胞同士が殺しあわなければならないのか、激しい憤りがありました。
「強、黙ってやり過ごそう」衛は関わりあわない事を強調しました。マックと合わせて三人の旅でそれぞれの個性の違いがありました。マックはどちらかと言えば、戦士の一人でした。
 マックに言わせれば、『ただそうしたかっただけ』と言うかもしれません。
 彼は肩から掛けていた機銃を腰にかまえゲリラ目掛け掃射を始めました。人が次々と倒れていく、まるで紐の切れた操り人形の如く、地面に彼等は倒れていきました。
 私達に向けて飛来した弾を避けるうち、また衛と私も機銃を掃射していました。
 人が人を殺《あや》める。禁断の味を知った者は驚きと戸惑いで身を震わせます。すべての社会通念など糞食らえとさえ思える。理由などいらない、何かを守るとは、何かを犠牲にすることで成り立つ、そう感じたのです。涙が止まりませんでした。殺《や》られる前に殺《や》る。
 砂塵と熱い日差し、陽炎と逃げ水が揺らめく中をゆっくりと、村の中へ進入しました。乾いた皮膚がカピカピに引き攣って、ひどく強張った顔付きの三人は辺りを警戒しながら進みました。『なにを求めているのだ。もういいじゃないか』と私は思いました。
 家屋の中に息を潜める息遣いを感じます。
『はっ、はっ』
 スローモーション映像のように時だけが流れていく。押し殺した恐怖の叫びを聞き取る私達だけが唯一の動くものです。
『はっ、はっ』
 どこからか赤子の泣く声が聞こえてきました。地面に転がる襤褸切《ぼろき》れのような骸《むくろ》を乗り越え、私達はその泣き声に向かいました。声がぴったりと止まりました。
 私は茅葺《かやぶき》の粗末な木造の小屋からその声があったのを確信していました。藁の茣蓙《ござ》が入口に掛けられていました。そこから家に入りました。薄暗い小屋の片隅にそっと寄り添う二人の兄妹が生まれたばかりの赤子の口をしっかりと塞いでいました。
 恐ろしい恫喝した眼《まなこ》だけが暗闇の中にありました。
 衛が「出ろ」機銃を向け、その兄妹を外へ連れ出しました。
「親はどうした」と衛はその怯えた兄妹に問いました。
  五六歳ぐらいの男の子がこう答えました。
「ゲリラに殺されました」
 そうこの村を襲ったゲリラに彼等の両親は殺されていました。
「もう大丈夫だ、俺たちがゲリラを殲滅《せんめつ》した」マックが赤子を女の子から取り上げました。
「ああ」マックの悲鳴でした。マックの腕の中でぐったりとした赤子が首を下に向け、黒目の眼《まなこ》を開けたまま息絶えていました。
『俺たちがやったことじゃない』と言いたかった。しかし、結果においてそんな言い訳など通用はしません。気がついた妹がマックに飛びつき赤子を奪いました。
 汚れた着物を捲り上げ、やせ細った身体に申し訳なく付いている乳首を赤子に咥《くわ》えさせようとしました。かつて母親がやったことを覚えていたのでしょう。『母乳など出るわけがない』そう思えても女の子は真剣でした。
「りん、りん、飲んで」
『ああ、こんな小さいものでさえ一生懸命に生きようとしている』
 戦闘が終息《しゅうそく》し、村人が一人、また一人と私達の周りを囲みました。
 私達は村人とその赤子の墓を作りました。
 兄妹の両親もまた同じように葬りました。
 村を離れる時、兄妹が見送りに来ました。
 マックがこう言いました。
「付いて来るか」
 衛も特に反対はしません。彼はすべてを受け入れる男です。運命などどうにでも変わると彼はいいます。
 兄、范荘明、妹、范蓮華は嬉しそうに私達の周りを駆け回りました。
 范兄妹が旅に同行することになりました。
 范兄妹が私の人生の同行者になるとはその時、夢にも考えませんでした。
 道連れしたことでどんな人生になるかなど、誰もわかりません。しかし、彼らがあの村に残りどんな生き方をするのか、想像するのは易いことです。どちらでも過酷な運命を切り開くしかないのです。

 夕立が過ぎ、辛く長い旅の終わりが近づいていました。
 長い年月をかけ、ゆっくり水と空気が作った。この姿形は唯一無二でありながら、どこか見たことのある。懐かしさと悲しさを併せ持ったすべての許しを請うために存在している。切り立った幾重もの山々が空目掛け、天と地の境を際立てさせる。

『心亡き者、入るべからず』
 蔦《つた》が鬱蒼《うっそう》と絡まる石版に刻まれていました。
 ここを訪れる者へのメッセージです。
「心亡き者とは言ったものだ」と衛は関心していました。
「貴方によってこの扉は開かれる」
 一行の前に巨大な石の扉が堅く閉じられていました。

BGM:The Doors - The End

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2007年3月31日 (土)

たまに仕事さぼろうぜ その12

Nec_0013_3 花見としばらくぶりに南州翁に会いたくて、陽気に誘われ上野公園へ行ってきました。いつも訪れると銅像の前にある蕎麦屋に寄ります。池波正太郎先生も大抵はそこで一杯やっていたとか。
残念ながら、ベンチがあるだけで店は跡形も無くなっていました。そういえば、もうかれこれ七八年はきてないね。

Nec_0012_1西郷さんと愛犬『つん』です。あいかわらず、独特な風貌の西郷さんです。
いつもここに来ると思う事があります。
『先生の思い描いた日本になりましたか』
明治という時代を作った人、そして明治天皇に背いて、明治神宮には決して合祀されない悲しい西郷さんなのです..

「坊ちゃんに会いたくて」の構想と報告もしてきました。
西南戦争は調べれば調べるほど不思議です。三万の兵を繰り出してなぜ熊本城を落とせなかったのか...うん、やっぱり南州翁は戦争をしたくなかったんだと思うのですが、もう聞けませんよね。引けなかったですよね、そういう不器用な生き方しかできなかった南州翁はやっぱり巨人です。ゴールデンウィークは熊本城と博多どんたくかな。

Nec_0011_2 つくづく日本人に生まれて、この季節ほど何かわくわくする季節を感じることはありません。上野はこんな感じです。今週末がピークかな..
すでに弁当持参で茣蓙の上で宴会やっている人もいます。
「花を愛ずしてなにを愛ずのか..」誰の言葉だったけ?
「物見遊山」などという言葉はやっぱりこういう景色を堪能するため
にあるんですよ。『桜の咲く頃、二人は出会い、またその季節がやってきます。あの桜の園を覚えていらっしゃいますか?そう、あの木の根元に貴方を葬って三年がすぎました..』誰のミステリーだったけ?うん、物忘れが激しいです。

Nec_0009_3 不忍池の桜一振りです。夕方なので寂しい感じがちょっといいです。ちょうどお日様が沈む頃でした。不思議に思ったのは、昔に比べてずいぶんと鳩がいなくなりました。
ものすごい数がいたような気がします。
どこかへ行ったのでしょうか。ヒチコックの「鳥」を髣髴させる景色を感じたものです。鳥が次々人間を襲うという恐怖、共存している生物が突然襲ってくる。けっこう来ます。

Nec_0007_3 恩賜公園にいた黒猫君です。
かまってもらえなくそっぽを向かれてしまいました。
ウィリアム・アイリッシュというアメリカのミステリー作家がいます。江戸川乱歩が「幻の女」を日本に紹介しました。
そのアイリッシュのトレドマークは私はすぐに黒猫を連想します。
猫は人に元々懐かない動物です。好奇心旺盛な彼等猫族は実におもしろい研究対象です。「ねえ、遊んでよ」て感じなんですが...

Nec_0010_1 そんなわけで一日の終わりがやってきて、短い花の生涯を堪能したわけです。

 

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2007年3月25日 (日)

黒い記憶 意思を継ぐもの

   七 意志を継ぐもの

 倭寇とは、十三世紀から十六世紀にかけて日本沿岸から遠く東アジア諸国を荒らしまわった海賊を指す。一般的に日本人が中心になっていたと言われるが、後期はほとんどが朝鮮、中国の密貿易を目的とした商人達が中心となっているのは衆知の事実だ。明が勘合貿易を認めたのも日本にこの海賊行為を取り締まらせるためだっだ。その流れを汲むものが清代の東アジア海上を牛耳った鄭《てい》一族が特に有名である。しかし、阿片戦争以降、彼らは海上から忽然と姿を消した。もちろん、オランダやスペイン、イギリスなどの艦隊が東アジアの利権を貪《むさぼ》る政策によるところが大きい。清時代の荒廃した領土へ彼らが得た財を用いて陸《おか》へ進出したかは定かではないが、世界中の海賊が次々と滅亡する中で、最期まで生き残ったのは実は倭寇の末裔なのだ。
 そして数百年間じっと息を潜めていた。

 衛森全は私の第二の師となる人でした。
「丹田とは臍《へそ》の少し下に位置する。ここが人間の中心である。ここから『気』を発することができて初めて王への第一歩が始まる」
 私達はこの町第一の遊郭に住み込み、そこをアジトに敗走する日本軍を尻目に足場を築いていきました。上海からイギリス人、オランダ人を始め外交官達に憩いの場をこの戦時中に提供できたのは、私達が経営していた『万漢全』だけでした。衛はいつもこう話していました。
「戦争はどこが勝つかではない、国が敗れようが必ず生きている者は再び復活するために絶え間ない努力をする。その力を利用する。この中国はアジアの血が交じり合った異民族の国だ。幾度となく他国に蹂躙《じゅうりん》され、支配された民はその度に立ち上がってきた。共産軍は必ずこの国を支配する。そして、この大戦の後、世界を支配する者はだれかご存知か」
 端倪《たんげい》すべき恐るべし知力の持ち主、それが衛でした。
「はて、ヨーロッパの連合国でしょうか」
「否」
「亜米利加以外にあるまい」
 もちろんその通りになるのです、後で考えても衛の予言したことは悉く当を得ていました。
 人を見て、何を知るのか、衛は全てを伝授しました。私なりに体得してきた人間の心の動きを察する力など彼の前では、まるで小僧並でした。
「人がいて人が生かされる。人なくして人なし、人は人によって命を与えられ、そして人によって奪われる・・・」
 今思い返しても、その極意こそ全てに通ずるものでした。
 そんな時に亜米利加からM商会の者が遊郭にやってきました。
「あなたがここの主人か」
 大広間に広げられた料理と女達、その中で片膝を立て、盃を口に運ぶ金髪の男でした。
「はい、私が主人の金本です」
 実に酒を飲む手つきが道にいっておりました。その一点で、この男もまた私の扉を開けにやって来た者と確信いたしました。
「私はマックスウェル・レオナルドいいます。マックと呼んでください。日本へ向けて工業製品、いや、正確には、武器を売り込んできました」
「おりいってお話がある」
 ある意味、二人は通ずるところがあったのかもしれません。
「お前たち、下がっておれ」
 女達を処払いして、マックと私は差し向かいで酒を酌み交わしました。
「・・・この国には綿々と国王達が蓄財した大変な金がある」
 マックの瞳が爛爛《らんらん》と輝き、まるで紅顔の少年のように語った話はこうでした。遡る事、漢代までに及ぶ壮大なスペクタクルでした。宝珠印《ほじゅいん》、すべての中国王朝が秘密裏に隠した蓄財を継ぐものにだけ与えられる印、それこそが正統なる王に与えられる印なのです。『玉珠《ぎょくじゅ》』と混同される向きもあるが、『玉珠』は国王の命令書などに押印される印をさす。宝珠印とは、宝そのものを示す場所が印として刻まれているという。それを奪うために各国のスパイが暗躍している、マックは私に宝珠印を探すために力を合わせないかと持ちかけてきたのです。戦争の終わりは近い、この国がどうなるのか、新しい王朝など誕生するはずはないとマックは力説しました。毛沢東率いる『共産軍』が必ず、この地を支配するという。まったく、衛と同じ事を語るのでした。
「その宝珠印はどこにありますか」
 やっとマックは私がその気になったことを知って、
「すぐそこにあります」
と謎めいたことを言いました。
「私から説明しましょう」
 私は振り返るとそこには衛が控えていました。
「宝の封印されし場所はおおよそ判ります・・その宝を守る兵がいます。数千年間も守ってきました。山奥深く、人知未踏の場所です。ただ一つ、宝珠印によってその兵の守りを解くことができます」
「兵ぐらい、どうして?」
「ただの兵ではありません。石でできた兵士達です」とマックは衛を補足した。
「あれをこちらへ」衛は手を二度ほど叩きました。
 中国風の女官の格好をした女が黒い木箱を捧げ持つように現れました。
 衛は私の前に恭《うやうや》しく膝まずき、木箱を差し出しました。心なしか衛の肩が震えているような気がしました。
「これをもって我が一族の使命は果たされました」
「さあ、お開けになってください」
 私は促されるまま、木箱を開けました。
 赤い布に包まれたものが入っていました。
 赤い布ごと木箱より取り出しました。
 赤い布には、金でできた四角形の塊が包まれていたのです。ちょうど上部に穴の空いたでっぱりがあり、そこが印を持つために細工されていることが判りました。その部分を手に取り、四角形の裏側を見ました。
『開宝』と漢字が刻まれていました。そしてその漢字の周りに精密な地図が刻まれているのです。
「その印は貴方が受け継ぐものです」
『ああ、そうか以前、衛が見せてくれた黒服の老人が少年に小枝を渡している絹織物はこの場面を意味するのか・・』
「金本さん、やっぱり睨んだとうおり、貴方だったんだ」
 マックは片膝をやめ、衛と同じように床に平伏していました。
「なにがですか」
『私はほんとうに意味がわかりませんでした』
「この中国の新しい王が誕生しようとしている」
「ここに居合わせた偶然に私は震えを禁じません」マックは床に頭をつけていました。
「日本人の祖先はチベット高原から中原に進出しました。中原とは中国を意味します。あっというまに中原を統一し、最初の王となりました。しかし、北方民族の侵略から王一族は戦いに敗れ、今の日本に辿り着きました」
 衛の頬は涙を綿々と伝えていました。
「私の祖先はかの王の部下でした。そして、この印を預かった。やっとお渡しできたのです」
『なぜ私がという疑問がありました。しかし、衛のような人間離れした知力の者が、判断を誤るはずはありません。それが、彼らが数千年に渡って守られたきた掟なのですから』
「さあ、これを持って旅立ちましょう」

 私はこうして戦争真っ只中の大陸を横断する過酷な旅を始めることになったのです。

BGM:THE HIGH-LOWS - 不死身の花

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2007年3月18日 (日)

黒い記憶 覚醒

   六 覚醒《かくせい》

「大陸へ渡った若者達、彼らが求めた『夢』を実現するには、あまりにもかけ離れた努力が必要ということにたいていの者は気が付きませんでした」

 鰊《にしん》の群来《くき》が押し寄せるが如く、内地から一攫千金を狙って遣ってきた若者達、その現実にすぐ根を上げた。行き着く先は阿片窟に身を委ね紫煙《しえん》の中であるともつかない日常からの逃避。幻想と幻視、幻覚、幻聴、ありとあらゆる逸脱した意識が覆い、外の世界を忘れることが唯一、自己を守る方法だったのです。

「だんな様、これをつねと思って持って行って下さい」
 首から掛ける紐、その先に丁寧に編みこまれた布袋、中にはセピア色に変色した一枚の写真が収められていました。
 つねは当時もずいぶん幼い容貌でした。
 それよりもまだ若い表情、はにかみがちのつねの写真でした。
「ああ、持って行こう」
「いや、肌身離さず。こう首から掛けてけれ」
 つねは無理やり、私の首からその袋を掛け、肌着の中に押し込みました。
 夏の日差しが眩しく、玄関の磨き上げられた上がり框《かまち》に降り注いだ光が乱反射し、辺りの空気に凛とした緊張感を与えていました。

「強、車が来た」
 玄関には女達が屯《たむろ》し、荷物の上で煙草を燻《くゆ》らしていました。
 金本の横でつねはじっと立ち尽くしていました。
 私達は軍が用意したトラックに揺られ、横浜港から海軍の物資輸送船に押し込められました。
 船には海軍に雇われた船員達がいました。この戦時中に戦役を免れてこのような船に乗り込んでいる者は、食い潰しか、国を追われた第三国人のいづれかでした。いづれにしても良からぬ船員達が乗船していのです。
 長い船旅中に女達を巡る争いが起こることはある程度予想できました。
 そこが私の最初の草刈場でした。
 船はそのまま遊郭の感を呈しました。
 ありとあらゆる淫靡な世界を想像してください。それを演出する監督としての私の役割、船を乗っ取るまで時間は掛かりませんでした。
 彼等は金品を持ち込み、女を得ようと遣ってきます。当然、持たざるものの妬《ねた》み、嫉《そね》みが船を覆い、いつしかそれは熱い争いを予感させました。
 撲殺された死体が発見されました。
 狭い限られた船という特異な世界での殺しです。誰もが疑われました。猜疑心から生まれる狂気というものを知ったのはその時です。人間の心を制御する術《すべ》を体得したのはまさにその船の中でした。
 たとえば、気に食わない男がいるとする。女の何人かに閨《ねや》でこう囁《ささや》かせる。
『あいつしつこくて、どうかしてよ』
 これを聞いた男達は女の気を引くために、暴力で相手を捻じ伏せようとする。当然、船上は常に怒号と暴力が溢れる。死体が放置され異臭を放ち朽ち果てていく様子ほど気味の悪いものはありません。眼窩《がんか》が窪み、そこにあった眼球が実は液体を包んだものだったとはじめて知った時、何か得たいの知れない瘧《おこり》を感じました。
 どんな物事もある限界に達するともはや臨界点に達しそれは爆発します。
「火事だ」
 そう船火事が起こりました。慌てて甲板に飛び出した時には、船は天界へ届く如き火柱が夜空を染め上げていました。逃げ場を求め右往左往《うおうさおう》する女達、海へ飛び込む船員達、最初に見た地獄絵図です。
 そのような場に立ち会うと私は不思議な感覚があります。すべての動きが止まっているような感覚が襲うのです。私だけがまるで絵画の中で唯一動く者のようになります。何度も死線を越えるうちに身に付いた才能なのかもしれません。どう動くべきか、今まで一度も誤ったことはありません。
 前から逃げ出す準備を周到にしていました。
 小型のボートを誰の目に留まらない場所に秘匿《ひとく》し、その中に食料、武器、金品の全てを隠していました。商品である女達にも緊急事態の場合、どこへ集まるかを衆知させていました。
 船倉から女達に手伝わせボートを引きずり出し、海上へボートをロープで降ろしました。
女全員を救うのは無理と考えていましたが、どうにか全員をボートに移し終え、燃え盛る船を後にしました。船外機に火を入れ、荒波をかき分けボートは大陸へ向け急発進しました。背には燃え盛る船とぽっかりと浮かぶ満月があるだけでした。

 船外機の燃料が切れ、三日ほど漂流を続けた後、眼前にどこまでも続く一本の黒い線が現れました。朝陽を背にしてそれはかってみたこともない広大な土地、焼土と化した大陸でした。
 漁船に発見された私達はそのまま曳航《えいこう》され上海に近い小さな漁港へ辿り着きました。もの珍しさで私達は人込みに囲まれました。だが、日本人と判ると彼等は蜘蛛の子を散らすように家へ帰っていきました。
 土地の長という者がやって来て、家へ案内されました。女達にボートから荷物を運ばさせていました。二十二人もの日本の若い女を見たことの無い土地の者達は窓からこっそりと羨望の眼差しで覗き見していました。
「私は日本語が話せる」
 長い白髭が顎から木の枝のようにぶら下がった老人でした。
 不思議な老人でした。たぶん私達はやはり会うべき運命によって導かれ、かの地での出会いが約束されていました。
「話せば長くなる。貴方が今日来ることを私はずうと前から知っていた」
 そういうと老人は奥から木製の小箱を恭《うやうや》しく運んできました。
 中から折りたたんだ絹織物を取り出し、私の目の間で広げました。
 女達に囲まれた王子の絵図でした。見るからに小さい背丈の王子に黒衣装の老人が平伏しています。そして、同じように黒衣装の老人の一人が一枚の葉の付いた枝を王子に捧げています。
『あ』と私はすぐにあることに気がつきました。その王子の目の横にある黒子《ほくろ》です。決して絹織物の汚れではありません。織物は艶々と輝き真新しささえありました。
 実は私にもまったく同じ位置、左目の横に黒子があったのです。
「私達は倭寇の末裔《ますえ》です。何百年間もこの地に留まり待っていました」
「何を・・・」
「貴方様を」
 老人は床に平身した。
 老人は衛森全《えいしんぜん》と名乗った。
 この邂逅もまた私の歴史の扉を開けるために用意されていました。
「日本軍はもうこの中国にはいられない」
 私の大陸での第一歩はこうして幕が開かれました。
 それも、かって中国で恐れられた倭寇の王子の生まれ変わりとしての役割が待っていたのです。

BGM:FPM - 戦争と平和の日々

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◎ととしスーパードライ強奪 

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あれれ、『ととし』て熊だったんだ。
『夢×挑戦』の懸賞ビールからついに『ととし』の正体が暴かれました。
「そうなんです。『う抜き』のティディベアーのニックネームなのでした。
『う抜き』て何?
たとえば、『ありがとう』⇒『ありがと』
『さようなら』⇒『さよなら』で『う』を抜かしても通じるよね、
じゃ、『うまそう』なら『まそ』てなるの?
じゃ、『ととし』は?
はい、『尊し《とうとし》』の『う抜き』が正解でした」

「ええ、ととしはどうやら埼玉のアサヒビール工場からスーパードライを強奪!」

※注意 スーパードライの二十四缶入りにティディベアーは同梱されていません。

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2007年3月11日 (日)

黒い記憶 魔界への招待状

   五 魔界への招待状

「人間の欲望というものはどの時代でも変わりません。どんなに聖人君子のように振舞っている人でも、その心の奥底にはそっと仕舞い込んでいる欲望があります。それが、たまに顔を出す。そして、脱線してしまう。だから悲しいか、私は人間を本質的に信じてはいません」
「私の生きてきた道・・・
とても自慢できる生き方をしてまいりませんでした。人の弱みに附け込む、脅し透かし、彼らの欲望を満たす詐欺紛いの歴史であり、仮面と鎧に守れらた『人間』という動物を食い物にすることで成り立つ生き方をしてまいりました」
「戦争という特異な時代背景がありました。その日を生きるのがやっとという経験を持った人にしかわからない事があります」
「昨日までの全てを失う恐怖は筆舌に難くありません。幸福な家庭、すばらしい仕事・・
それを全て失う恐怖を経験した人だけが知る事実があります。
 昭和十八年の夏です。突然、私のもとに『充員召集令状』が届けられました。戦局はすでに国民皆が知る敗戦一色の状態にありました。
 いつ来るかもしれない『神風』を私もどこかで信じていました。
 赤紙と呼ばれた赤色の薄い紙には『充員召集』と黒インクで記載されていました。二十四時間以内に召集場所に記載された連隊へ出頭することが書かれています。
 故郷を捨て、金本姓になった私に召集令状が届くと考えていませんでした。金本和義は戸籍に私を養子として籍に入れていたのです。
 金本は私を疎ましいと考えていたのでしょう。その頃、商売も暗雲が差していました。女を買う男が戦争へ行っているのです。当然、家には年頃の女達がごろごろといます。食べ物も不足する時代に、金に明かして食べ物を手に入れていた私達は何不足なく生活していました。女達の興味は一つだけでした。いかに私と夜を共にする権利を獲得するか・・
 そのために、家にはいくつかのグループができあがっていました。暗黙の了解の上、毎夜、グループから選ばれた女が私の夜伽《よとぎ》にやってきます。江戸時代の『大奥』と同じといってもよいかもしれません。
 金本はこれがもちろん気に食わなかったでしょう。だから、私が召集されて一番得をするのは金本自身だったのです。
 私は戦争に行く気は毛頭ありませんでした。二十四時間以内に出頭する前に、私は陸軍省の武官達と会う段取りを決めました。

「なに、慰問団を結成する。だから、君は招集を免除してもらいたい・・」
「同じ戦地に行くにしても、私が一番得意な分野でお国のためになりたいと存じます」
 これはその無骨一徹の武官の琴線を揺さぶるには充分でした。もちろんその夜は、別に料亭を貸切ました。家から選《よ》りすぐりの女を彼らに侍《はべ》らせ、夜の明けぬ内に召集免除の確約を取り付けていました。
 以前から私は外地へ行こうと考えていました。戦局は明らかに、敗戦です。それに附け込むこそ意味があると算段していました。満州には膨大な人、物、金が注ぎ込まれていました。さらに、満州国民から絞り上げた天文学的な財があると考えていました。みすみす、戦勝国に持っていかれる前にそれを奪う・・
その一点に心が惹《ひ》かれていたのです。
「女を連れて、外地へ行くだと・・」
 額の青筋を膨らませ、金本が幾ら息巻いたとて、私にはもう逆らえない。
「俺はどうすれば・・・」
「この家を守っていてください」
『はっきり言って、貴方とはここで縁を切らしていただく』とは言いません。
 金本には私を育ててもらった恩義を感じるもの、すでにそれは返したと考えていました。
「生活が成り立つように計らっときました」
と口ではいっても、知己のある親分衆に面倒を見させるように金を定期的に送る約束をしていました。この時代、明日がどうなるかなんてまったく読めないのが当たり前でした。
 
 外地へ移動する荷造りを終え、明日旅立つという日でした。手配師(女を買い上げることを専門にしている者)から電報が入りました。青森から一人上玉が上京するので、至急お願いしたい、との内容でした。彼らが上玉というのは幾分女を高く買い上げて欲しいという意味が含まれています。必ずしも美しい女ということではありません。
 すでに家で雇っていた若衆(極道から借受していた若い者)を返していました。迎えに行かせるにしても、人手がいなかったのです。
 しかたなしに私自ら、上野駅まで出向きました。
 図他袋《ずたぶくろ》を背負《しょ》った人々で駅はごった返していました。戦局も悪化していましたが、さらに食料事情も最悪でした。東京で生きるには地方へ出向き食料を手に入れことが全てでした。親の代から持っていた金目の物はこうして農村へ流出していきました。どんにか無理して購入した財も、そのほとんどが泣け無