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2011年2月27日 (日)

108物語 「石を積む男」

 雑踏の中、早朝の電車の混雑にもすでに辟易しなくなった。
『この鈍感な感覚はなんなんだ』
 と鈴木務は目を瞑ったまま吊革をさらに強く握り締めた。
『もう限界じゃないか』
『俺はいったい何をやっているのだ・・・』
 腐った果物の匂い達に囲まれ、その匂いに身体中が蹂躙される恐怖を、なぜ我慢するのだ・・・

 真っ白い壁、黒渕眼がねの白衣の紳士。
「鈴木さん、これでいかがでしょうか」
 私は退社後、耳鼻咽喉科を訪れていた。
「嗅覚過敏症の原因は様々ですが、鈴木さんの場合、鼻にまったく異常がありません、あなたのおしゃるように、人体から出る様々な匂いを嗅ぎ分けられる能力はある種の能力かもしれませんが・・・」
 井上耳鼻クリニックに通うようになって1年ほどになる。
 定期的に鼻の嗅上皮をレーザーで焼いてもらい、嗅覚を鈍らせてもらっている。
「苦痛はありませんか」
「いいえ大丈夫です」
 白い診察室はアルコールと医師、そして若い看護師の匂いで充満している。レーザー治療は精々三日も持てばいい、それ以上は今日の通勤列車の状態になる。
「鈴木さん、次は来週でいいですか」
 屈託のない看護師は私の予定を尋ねる。
 彼女は月経臭で満ち満ちている。
 私は女の月経臭を嗅ぎ分けられる。
『もし私が朝の通勤列車の女性専用車両に乗ったとしたら、いったいどうなるのだろう・・・』

 草臥れた顔のサラリーマンがプラットホームに疎らに立っている。
 一日を終え彼らの背広はその日を象徴する体臭がしっかりと染み出し、まるで空中をまっ黄色に染めかねない。
 もしすべての匂いに色があるとしたら、私は確実に色を識別できるだろう、たとえそれが意味のないことだとしても・・・

 数年前の秋口だっただろうか、私は上司の勧めである女性とお見合いをすることになった。白い肌、ゆったりりた頬の曲線、それと一対の胸や臀部の曲線が振袖を通して十分想像できた。婚期を迎えた女特有な匂いを放っていた。
 花々が昆虫を誘い、受粉する仕組みは生物すべての基本になっているのではないか、と私は思う。もしそれがフェロモンというホルモンの匂いだとすると神は実に匂いに特別な意味を与えたことに、私は敬意を払わざるを得ない。
 先天的あるいは後天的に、人間を含め生物は脳に匂いとその意味を解決する記憶が刷り込まれる。枚挙に暇がないが、靴下の汗が蒸れた匂いに発情する女、ゆで卵の匂いを嗅ぐと便意を催す者、鉄さびの匂いで唾液を垂らす者、車の排気ガスを嗅ぐと勃起する者、などなど、そして私は・・・

「鈴木さんは・・・」
 はにかんだ表情、纏めてはいるが十分長くその若さを象徴するつややかな髪、少し下膨れの瞼は幼さを表すが、愛らしくも私を見つめていた。
「ご趣味とか・・・」
 それだけを話すだけで精一杯だった。
「特に趣味と言えるものはありませんが、読書と映画鑑賞が休日の過ごし方ですかな」
 と私は彼女側の仲人を見た。
 明らかに私が興奮するにおいの持ち主だった。
 お見合いの和室に通された時、その仲人の中年の男は一度私を値踏みする視線を投げかけた。次の瞬間、私の鼻腔を通して鋭利な刃物が脳に刺さる感覚を覚えた。ああ忘れて久しい匂い・・・
「島崎と申します、本日はお日柄もよく、・・・」と口上を述べると、私とお見合い相手の簡単な経歴を説明した。
 お日柄がいいかは別として、私は男に『死臭』を嗅ぎ取った。
 彼自身が今どういう状態か知りえた。
 私は女などちっぽけも興味がなかった。
 いかにも健康そうな身体、病気ひとつもしたことがないという感じであった。
 見合いを終え、私は島崎と近づくために、女と付き合う旨を島崎に伝えた。
「いいお嬢さんです。私でよければ、お嬢さんにお付き合いをさせていただきたいとお伝えください」
「それはそれは、先方様もお喜びなられると思います」
 と島崎は見るからに腰の低そうに、何度もお辞儀をした。
「島崎さんの連絡先を教えてください」
 と私は名刺入れから自分の名刺を取り出し、男と名刺交換した。
『島崎土地開発株式会社 専務取締役 島崎 巌』とあった。
 なるほど私が所属する会社の下請会社の役員ということを確認して、その席を去った。

 次の日、私は島崎を誘い出した。
 どこのオフィス街にでもありそうな居酒屋の席で私はこう切り出した。
「大変失礼ですが、最近あなたの周りで死んだ人がいらっしゃるでしょう」
 と私はいった。
 しばらく島崎は私を見たまま硬直したままだった。
「なぜ・・・」
 島崎はうなだれたまま押し黙った。
「その死体の始末、私の処理させてください」
 と切り出した。
「・・・」
「島崎さんにはいっさいご迷惑は掛けません、それどころか日々の苦しみから解放してあげます」
 と私は言い切った。

 真夜中に島崎と私は島崎の会社が管理するマンションへタクシーで向かった。
 最階上の部屋の浴室にブルーシートに包まれた若い女の死体が転がされていた。
 ほろびゆく腐敗臭と白く丸々と肥えた蛆がのた打ち回り、浴室中を銀蠅が飛び回っていた。
 鼻を突く異臭に私は気が遠くなる感覚を覚えると共に、島崎を振り返り、こう言った。
「凶器はなんですか」
 島崎は浴室に近づくことなく、口をハンカチで覆ったまま怯えあがっていた。
 島崎はようやく口を開くと、
「首を・・・」
「首を手絞めた?」
 私は背広のポケットから軍手を取り出し、両手に嵌めた。
「いえ、私のベルトで・・・」
「そうですか、それはずいぶんひどいことをされる」
 私は島崎の後ろに回ると、自身のベルトを音も無くはずし、そっと島崎の首に掛けた。
「うっ」
 島崎は口を押さえていたハンカチを床に落とした。
「どうですか、苦しいですか」
 と私はさらにベルトを絞り上げ、島崎の首を締め上げた。
 さして抵抗も無く島崎は静かに床に崩れ落ちた。
 そのまま男をベルトで床を引きずり、押入れまで運んだ。
 押入れの柱と天板の間に男のズボンからベルトをはずしてかけた。
 押入れの中段まで男を持ち上げ、男の首を丸く輪を作ったベルトに通した。
 男の身体を外すと、男はそのままベルトに首をいれたまま空中にぶら下った。
「これで楽になったでしょう」
 と私は男から徐々に滲み始めた死臭でエレクチオンせずにいられなかった。
 ズボンを膝まで下ろして素早く手淫を終えると床に散らばった白き飛沫を軍手で綺麗にぬぐい終え、その場を後にした。
 帰宅の途中で私は警察に密告した。
「○○町の△△マンションの部屋から叫び声が聞こえました」
 翌日の夕刊に島崎の自殺の記事が載っていた。
『会社役員不倫相手絞殺後、自殺か』

 私の欲望は鼻腔をレーザーで焼くだけでは収まらない。
 あの時、島崎から紹介された女が今の妻、佐織だ。
 佐織は島崎の件で縁談を断られると思っていたらしい。
 私は縁を大事にする。
 沙織にも同じ匂いを見出した。

「ねぇあなた、ちょっと・・・」
 佐織が私を呼んでいた。
 私は親から譲り受けた庭付きの戸建住宅に沙織と居を構えていた。
 家のブロック塀の四隅の一つに、私は石灰の平べったい石を積んでいた。
 雨に当たると光り輝く。
 時々、一枚その石を追加する。
 理由は島崎と同じだ。
 昨日、妻の高校時代の友人が泊りがけでやってきた。
 妻の話だと一番の友人とのことだった。
 妻の寝室に盗聴器を仕掛け、夜二人の寝話を聞いた。
「沙織、かずゆきくんのこと忘れた」
「まさか、あんたこそ・・・」
「一生二人だけの秘密よ」
「ええ誓うわ」
 私にはそれで十分だった。
 妻から漂う匂い、その正体に光が見えた。
 今日、私は二枚石を積み上げるかもしれないと思った。
 ずいぶんこの石積も繰り返した。
 すでに、三十枚を超えている。

 昭和四十五年三月四日の北海タイムにこんな記事を見出した。
 『北海道道立□□高校三年の柏木和幸君は体育館で何者かに指され、出血多量により死亡
  道警は当日学校近辺の不審者の聞き込み捜査を行っている模様、清水校長は卒業間じかの不幸に同級生一度悲嘆に暮れているという談話を発表』

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