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2010年6月30日 (水)

坊ちゃんに会いたくて 三十四

      三十四

 満月であったが雲は厚く、夜道は雲間から漏れるわずかな明かりを頼りに進むしかなかった。
 夜更けに一台の御者を伴った馬車が井上渋市宅の馬寄(うまよせ)に到着した。
 家人が蝋燭(ろうそく)のランタンを持って現れた。
 羽織袴姿の男が馬車から馬寄に降り立った。
 重厚な声音(こわね)で男は出迎えた家人に尋ねた。
「ご主人はご在宅で」
 腰の曲がった老人は、男の顔を確認するためランタンを一度持ち上げた。
「大久保様、井上は待っております」
 雲が一瞬途切れ満月の明かりが射した。
 大久保利通であった。

 大久保は家人に従い渋市の書斎に案内された。
「夜分ご迷惑をかけもうす」
 と大久保は一度丁寧にお辞儀をすると、渋市と対面する位置に座した。
「いえそれがしもそろそろ一度お会いする必要がございました。大久保様の電報を受け、西郷様の抜き差しならない状況がよく分かり申しました」
 大久保は腕を組み一度ため息と思える息を吐いた。
「薩摩討伐の指示をすることになった」
 渋市はどう答えてよいか答えを見出せないでいた。
 渋市は大久保、西郷の間柄をよく知るものであり、またこのように商売の成功の裏はすべて薩摩と供に歩んできたからと言っても過言ではなかった。
 東征作戦、戊辰戦争、すべて井上商事が英国や米国から武器・弾薬を手配し続けた。負ければ、その代金も未収になり渋市は破産していただろう。
 だが、渋市は二人の未来に賭けた。初めて大阪薩摩藩邸で二人と出遭った時から、江戸という時代の終わりを感じた。西郷隆盛に王の威厳を認め、大久保利通にかの諸葛孔明(しょかつこうめい)の聡明(そうめい)さを見出した時から、ぞっこん惚れ込んだ。
 渋市が信じたとおり二人はやってのけた。
 渋市が当代一の商売人に伸し上がったのも二人の未来を予見できたからである。
 渋市は西郷と袂を分かつ決断をする大久保を前に何の意見もできないでいた。
「薩摩から連絡はありましたか」
 と大久保は視線の定まらないふうで尋ねてきた。
 渋市はこの数日の電報のやり取りについて説明した。
 何も隠す事はないと渋市は考えていた。
 神戸支店に薩摩より武器を求め現れた木村大三についても述べた。
「ほう西郷のご子息?だれぞ」
「沖永良部島で生まれたという話です」
「なるほど、西郷どんは流刑にあっておる。その時のご子息か」
「それは楽しみだ」
「弾薬と供に薩摩へ向かいました」
「薩摩か」
 大久保は佇(たたず)まいを改めた。
「井上殿、ところでおぬしはどちらにつきもうす」
 渋市が予想していた問いであった。
 明治政府に付くのか、薩摩につくのか。
 それは大久保につくのか、西郷につくのかという意味でもあった。
 それをいつ切り出すのか警戒さえしていた。
渋市は大久保の視線を跳ね返すように決断した。
「私の出自(でじ)は土佐の下級武士でございます。武門に生まれた者、誰が主(あるじ)かという問いであれば答えられましょう。だがすでに私は井上商事の主でございます。全国に井上商事は支店を設け、その社員は三千を超えもうす。家族を含めれば、一万あまり。その者達の生活が立ち行かなくなるは、すべて私の責任となりましょう。明治政府が薩摩と争うとも、私は会社を守り、社員を食べさせる義務がありもうす・・・」
 と渋市はお辞儀をした。
 大久保は腕を組んだまま目を瞑っていた。
 外で野犬の遠吠えが聞こえていた。
 書斎の障子に月明かりで照らされた雲が影となり映し出されていた。
「渋市殿、大久保の心を聞いてくだされ、西郷どんはこの乱に巻き込まれた。下野し、かれを頼りに集まった多くの若者は、明治政府のやり方に不満を持っている。誰もが知る事だ。政治というものは実に難しいものだ。特に旧来の勢力が持っていた特権を剥奪(はくだつ)すれば不満も起きよう。だが、日本が彼らを食べさせて行く分けではない、彼ら自身が汗を流し、新しい時代の中でどう生きてゆくのか、彼ら自身の責任ではなかろうか。今薩摩は西郷どんの元に一つだ。紛れもない事実だ。日本が本来こうあるべき姿を西郷どんはやってのけとる。すごかたい。ほんに俺は立場を変えたい。俺が薩摩に下野し、彼に替わりたい」
 厳しい表情の大久保は次を続けた。
「俺は国を預かる者だ。薩摩の民も国民であり、遠く蝦夷の地を開拓する民も国民である。誰隔てなく彼らに平等に接するは、国を預かる者の姿でなかろうか。どんな揶揄(やゆ)や侮蔑(ぶべつ)があろうとも俺は、この国を守らなければならない。それは、井上殿の立場と同じとも言えよう。この乱が全国へ波及したら、この国は再び戦乱に巻き込まれはしないか、まして国力は疲弊し、清朝ごとき侵略さえおきかねない・・・と最初に言い出したのは、他でもない西郷どんだ」
「西郷どんが・・・」
 大久保は懐より一通の書状を取り出し無言で渋市に差し出した。

【大久保内務卿宛
日本ノ一国
愚兄 南州】

 見覚えのある達筆な文字で、たった三行が書かれた書状であった。
 間違いないく西郷の書いたものだ。
 大久保も渋市もしばし無言で、障子を過ぎゆく雲の流れを目で追っていた。

『薩摩は一国にしか過ぎない』と西郷は言うのか・・・・。

 西郷は覚悟を決めた。その覚悟に渋市は知らずして不覚にも涙していた。
 やっと渋市は口を開いた。
「わかりもうした。これだけの覚悟。井上商事はすべて大久保殿のご指示に従いましょう」
 と渋市は平伏した。
「そうか、では暇する」
 と大久保は立ち上がり、障子に手を掛けながら、
「井上殿、残った在るだけの武器・弾薬、すべて長崎まですぐ運んでくれ」
 と言い放った。
 今夜の来訪の目的であったのだろう、渋市は腹の底で舌を巻いた。
『ほんに恐ろしきか男たい』
「は、承(うけたまわ)り申した」
「ではこれで」
 と大久保は廊下を去っていった。
 いつのまにか雲は晴れ、煌々とした満月が庭の池に浮かんでいた。
 馬のいななきが夜空に響き馬車が去る音が遠ざかっていった。

 渋市は庭を一瞥すると障子を閉め、部屋を横断し隣接した襖(ふすま)を開けた。
 襖から渋市の顔が覗き込んだ。
「どうだ、起きていたか」
 隣の部屋は塩原金之助が常時寝起きしている部屋であった。
「はい」
 布団の上に寝巻き姿の金之助が正座していた。
「あれは誰かわかったか」
「大久保卿でございましょう」
「そうか、わかったか」
「何の話か説明できるか」
「はっきりとは、ただ薩摩の西郷どんが何か起こした。たぶん乱を起こした話と思われます」
「たいしたわっぱだ、もう寝てよいぞ」
 渋市は笑いを堪(こら)え地下室の階段に向かった。
『すでに長崎には武器・弾薬を集めておる、俺の読みとおりじゃないか』
 廊下突き当りの秘密扉を開け、渋市は地下の暗闇に消えた。
 暗闇から笑い声がこだましていた。

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2010年6月28日 (月)

坊ちゃんに会いたくて 三十三

      三十三

 大日本評論社の田中耕造(たなかこうぞう)と田之上伸二(たのうえしんじ)は真っ白な雪で覆われた錦江湾を望んでいた。
 三日前、二人は馬車を飛ばし横浜港から鹿児島へ向かう汽船にぎりぎり乗船することができた。
 井上渋市が買収した東都日々新聞の社旗を抱え乗り込んだ。
 甲板のデッキから二人はじっと桜島を眺めていた。
 ハンチング帽の田之上は煙管(きせる)からゆっくりと紫煙(しえん)を吐き出した。
 その煙がまるで白く覆われた桜島からたなびく白煙のように見えた。
 蒸気船海洋丸は元軍船であったものを井上商事に払い下げられた。
 乗船していた乗組員ごと渋市が海軍から買い上げた。
 東都日々新聞がチャータした格好になっていた。
 二人はあらためて井上商事の力に舌を巻いていた。
「それにしても社主の後ろ立てはすごい」
 と田中。
「ああ、軍隊でももったら政府さえ倒しかねない」
 冷たい風でハンチングを抑えながら、田之上は再び紫煙を桜島に向かって吐き出した。
 二人の思惑(おもわく)はどうであれ、井上渋市は鹿児島行き海洋丸の進路を急遽変更する必要に迫られた。
 一昨日、神戸支店支店長から暗号電報が届いた。

【二月十三日 午後六時二十五分
コウベシテンハツ
シャチョウアテ
エンドウハツ
カゴシマヨリキュウシアリ
ナンシュノシソクキタリ(南州=西郷隆盛)
ミッショニサキノブン
シュツゲキモウス
ブキノヨウイネガウ
ハライトウキョウニテ
ナンシュウ
コノダンオトドケ】

 井上商事は当時として珍しい電子無線の装備を商船に配備していた。まだモールス信号が一般化されていない時分に全国の支店と商船を結ぶネットワークを完備した。井上宅の地下にはこの無線の送受信を行う施設があり、二十四時間全国からの情報収集を行っていた。
渋市はすぐに土佐支店へ電報を送った。

【二月十三日 午後六時四十八分
トウキョウシテンハツ
トサシテンチョウアテ
イノウエシブイチハツ
カネテジュンビノシナ
スザキヨリツミコミセヨ
カイヨマルウンパンニアタル
ゲンザイキイオキニアリ】

 突然、井上商事汽船海洋丸は、鹿児島へ向かう進路を土佐須崎港へ変更した。

【二月十三日 午後六時三十二分
トウキョウシテンハツ
カイヨウマルセンチョウアテ
イノウエシブイチハツ
トサスザキコウデヒトトニモツツミコミヲメイズ
ゲンザイイチホウコクセヨ】

【二月十三日 午後六時三十八分
カイヨウマルハツ
シャチョウアテ
シマダヨシカズハツ
ニモツノケンリョウカイナリ
ゲンザイキイオキニアリ】

 この間わずか三十分しかかかっていない。
 東京、神戸、土佐、紀伊沖の海洋丸が無線で連絡を行い、土佐須崎港より荷物と一人の若者を乗せることになった。
 田中はふとデッキに同じように桜島を眺める者に気がついた。
 軍人のオーバーフロックコートを身に纏(まとい)、ゲートルの足下が見えていた。
 田中も田之上も須崎港から乗り込んだその男に興味深々(きょうみしんしん)であった。

 そこに木村大三が佇んでいた。
 神戸で大三は井上商事神戸支店支店長、遠藤開治と面会した。
「お世話になりもうす」
 大三は深く頭を下げた。
 六十を超える歳であろうか、袴姿の遠藤は応接室で待っていた。
 遠藤は係りに伴われ現れた大三を見て驚き、思わず声を上げそうになった。
「おはんは」
「は、西郷の一子、大三でごわす」
 遠藤に説明はいらなかった。
 そこには若き日の西郷吉之助が立っていた。
 遠藤はかつて薩摩造士舘で教鞭を取っていた者だ。
 教え子に西郷吉之助、大久保一蔵がいる。
 かれらにとって師であった。
「尊父にそっくり・・・」
 と遠藤が言うのも肯ける。
 薩摩弁で巨目を『うどめ』と言う。
 凛々しい黒々とした眉がうどめの上に鎮座する。
これほど似た親子もいない。
 遠藤は大三より西郷からの密書を受け取った。
「やはり」
 と発すると、しばらく遠藤は目を瞑(つむ)っていた。
 遠藤は、数日前井上商事社長、井上渋市より暗号電報を受け取っていた。

【二月九日 午前十一時二十五分
トウキョウシテンハツ
コウベシテンチョウアテ
シャチョウハツ
カゴシマフオンナウゴキアリ
スデニセカイノシルコトナリ
セイフマケルノコトフカナリ
フオンブンシイッセイセヨ
センザイイチグウノキカイナリ
ナンシュウヘハントシノブキヲ
カクヤクス
コノダンメイズ】

 遠藤は自席の引き出し奥にしまっていた右記の電報を大三に渡した。
 大三は電報の内容が余りにも不審であるのに戸惑った。
「不穏分子とは薩摩の事・・・」
「大三殿、それは違う、明治政府に異を唱える者すべてだ」
「異を唱える・・・」
「日本は世界からみたら小国にしか過ぎない、その小国で意見が合わず、毎月叛乱が起きている。これを世界はどう思うかな」
「維新の際には、幕府がフランスと手を結び、薩摩がイギリスと手を結んだ。どうだろう、今どこかの国内勢力と外国が手を結んだとしたら」
 大三は遠藤の言わんとすることを考えた。
「国が分裂する」
 遠藤は活目した。
「そのとおり、今日本は一つになる必要がある」
「しかし・・・」
「俺から聞いたと言わんどくれ、尊父は弟子であるが、俺の恩人なのだ・・・」
 大三は無言で遠藤に肯いた。
「西郷どんが引き受けたのだ」
「何を・・・」
 思わず大三は立ち上がった。
「日本を独立国家にする礎(いしずえ)に生(な)る事」

 大三はそれから馬車馬の如く働いた。
 神戸港の外れの倉庫から港まで大八車に弾薬、火器・銃器を積み込み、埠頭に繋がれた商船へ運び続けた。
 遠藤の話では、すでに武器の大半は土佐須崎に秘匿してあるとのことであった。
 父の事を思うと知らずに涙が流れた。
『負ける事を覚悟で戦争などするものか、
あるものか、父がそんな事・・・』
 何度も何度も汗と涙を袖で拭いながら大八を駆った。
 すでに遠藤には、薩摩まで荷と伴に大三が同行する旨を伝えていた。
 出港する前夜、遠藤の自宅に招待され幹侍(かんじ)を受けた。
 二人だけの席で互いに杯を指しつつの宴であった。
「大三殿、必ず生きてここに戻ってきなされ」
と遠藤は繰り返した。酔いつぶれて家人が世話をして奥に去ると一人の若い女人が現れた。
「父が酩酊(めいてい)して申し訳ございません」
 大三は暇を告げようとした。
「それは父が許しません。今夜は拙宅でお休み下され」
「早朝に出港いたします」
「まだ時間はあります。少しお休みください」
 笑顔から白い歯がこぼれていた。
「こちらに湯を用意してあります」
大三は案内されるまま湯殿で汗を流した。
 湯殿の扉がするりと開けられたことに大三は気がつかなかった。
「失礼いたします」
 との声で大三は気がついた。
 全裸で先ほどの女人が入ってきた。
「美緒といいます。背中を流させてください」
耳たぶから首筋にかけ真っ赤に染まっていた。
『これは美(うつくし)か女子だ』
 背を洗いながら、美緒は不思議な事を急に言い出した。
「私小さい時、大三様に会ったことがあるんですよ」
 大三はすぐに気がついた。
「お前は、沖永良部島の鍛冶屋・・・」
「鍛冶屋の娘でした」
 大三はいつも鍛冶屋の倅が背負っていた赤子を思い出していた。
「やっぱり、大三様は美緒の事忘れてしまっている。美緒はずっと思っていました」
 大三はどう答えてよいか窮した。
「今の父の養女となり、神戸へまいりましても、いつも薩摩の友達に大三様の噂を尋ねてまりましたのよ」
 はにかんだ表情で美緒は後ろから抱き付いてきた。
 大三はふと清は今何をしているかと思った。

 明けて大三は早朝家人の起きる前にと思い布団から抜け出した。
 とうに一緒に床に入った美緒はいなかった。
 久しぶりで何か心まで温もりを得た心持であった。
 だが大三には使命があった。
 父の後方の兵站(へいたん)確保は我が仕事と思った。

 遠藤に用意させた陸軍使用の軍服とゲートルを巻きつけ、オーバーコートを羽織、玄関まで向かうとすでにそこには美緒が待っていた。
 美緒は上がり框に手を付き、
「ご無事でお戻り下され、美緒はいつまでもお待ち申し上げます」
 頬を伝う涙が朝陽で輝いていた。
 大三はまたどう答えてよいか窮した。
「待っていれ」
 大三はそれだけ答えると遠藤宅を後にした。
 玄関から続く石畳みを駆ける下駄の音が後方より聞こえていた。
 大三は振り向くことが出来なかった。

 錦江湾は真っ白に染まっていた。
『この船には五十万発の弾丸がある。これでどれだけ戦えるのか、ただ犬死にはするまい』
 と大三は改めて心した。

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2010年6月24日 (木)

坊ちゃんに会いたくて 三十二

      三十二

 大久保卿とは何者か。
『維新三傑』の一人、大久保利通(おおくぼとしみち)である。
 三傑の残りは、西郷隆盛、木戸孝允(きどたかよし)となっている。
 幼少の頃、琉球より鹿児島加治屋町(かじやちょう)に移住する。
 藩校造士舘(ぞうしかん)で生涯の友となる西郷隆盛と出会う。
 往時、大久保は一蔵(いちぞう)、西郷は吉之介(きちのすけ)と名乗った。
 共に下級武士の家に生まれた。
 西郷が島津斉彬(しまづなりあき)の目に止まり、御庭方役(おにわがたやく)という大出世に対し、大久保は記録所書役助(かきやくたすけ)として藩の裏方を務めた。
 お由羅(ゆら)騒動で大久保は、父利世(としよ)とともに連座し謹慎処分(きんしんしょぶん)となる。
 斉彬が藩主となり大久保の謹慎(きんしん)は赦免(しゃめん)され、記録所に復職する。
 この復職を果たすのに尽力(じんりょく)したのは西郷である。
 しかし、斉彬が突然逝去(せいきょ)し久光が藩主となると、元々久光と合わなかった西郷は失脚し沖永良部島(おきのえらぶとう)へ流刑となる。
 大久保は策をもって久光に接近を果たし、藩政に参与し、西郷を流刑より救いだす。
 この二人が出会わなければ、明治維新の姿も確実に変わっていたに違いない。
 大久保は若くして、権力闘争のなんたるかを身をもって経験した。
 西郷が流刑中に、大久保は精忠組を組織し、藩政深く関わりになることで、久光とともに江戸へ勅使を建て、幕府に建議を成す。
 外様の一藩にすぎなかった薩摩藩は江戸幕府に物を申す前代未聞の離れ業をやってのけた。
 すべての筋書きを作ったのは大久保である。
 大久保は公卿岩倉具視(いわくらともみ)より勅使を受け討幕に賭けていた。
 慶応三年(1867)十月十四日、突如(とつじょ)徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大政奉還(たいせいほうかん)を敢行(かんこう)する。
 朝廷にはこれに対応する能力はなかった。
 さあ政権を返すからと言われても、まったく無能に等しかった。
 慶喜の作戦はまんまと成功する。
 大久保が画策した討幕の名分は失われた。
 朝廷は慶喜に当面の政務を委任するしかなかった。
 朝廷工作を行っていた大久保は西郷を伴って帰藩する。
 十二月十九日、薩摩藩、土佐藩、芸州藩、尾張藩、越前藩の五藩の軍勢は御所(ごしょ)を封鎖する。岩倉具視はまだ十五歳の明治天皇を前に、王政復興(おうせいふっこう)の大号令を読み上げる。
 王政復興のクーデタを成し遂げたのは大久保利通(おおくぼとしみち)である。
 このように大久保は知の人であった。
 これに対し、西郷は武の人であった。
 朝廷の御前会議で徳川の辞官と納地が話し合われた。
 土佐の山内豊信(容堂)は反対の意見を述べ、評定もその流れにあった。
 御所を警備していた西郷はこう言ったと言われている。
『短刀一本あればかたづくことだ』
 それを伝え聞いた岩倉は山内と刺し違えるつもりで評定にのぞみ、山内を抑えた。
 だが、だてに三百年間施政を行ってきた徳川側もそう簡単に権力を委譲(いじょう)はしなかった。
 徳川慶喜は京都より大阪城に移り、御所を警備する薩軍を討伐する命令を発するのである。
 明けて正月三日、大阪湾には東アジア最強の徳川艦隊、薩軍三千に対し、徳川軍一万五千あまり。西郷も敗戦に備え、天皇を中国地方に後退させ、ゲリラ戦も考えた。
 翌四日、大久保らの働きで仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命し、錦旗(きんき)の元に出陣させた。薩軍と鳥羽伏見の隘路(あいろ)で対峙していた幕府軍は、薩軍の後方から現れた錦(にしき)の御旗(みはた)を見て総崩(そうくず)れとなる。
 五日、譜代淀藩、六日には津藩が寝返り、七日、慶喜は軍艦開陽丸で大阪を脱出して江戸へ逃亡した。
 西郷は勝った。勝つことで官軍になった。
 剣や槍(やり)の戦いでは、幕府軍に勝てない。
 西郷は薩英戦争で兵隊の数ではなく火器の威力の違いがこれからの戦争では必要と考えた。大砲、ライフルを使った戦闘を工夫してきた。
 鳥羽伏見の隘路で弾幕を張って幕府軍の侵攻を止めた。
 たった三日間の戦いだった。家康がいたら嘆いただろう、『大将が逃げてどうするのだ。』
 三百年間の間に徳川は戦争のやり方を忘れた。
 西郷はここ数年、江戸まで薩軍を引き連れ進軍する作戦を練ってきた。
 端緒でこうも簡単に勝ちが転がり込んできた。
 薩軍の大将として一躍時の人になった。
 錦の御旗は予(あらかじ)め大久保が用意させた密造のものであった。
 この二人だから成しえた。
 他の誰がしたとしても絶対にできなかった。
 大久保と西郷は休む暇も無く、西日本の諸藩を取り込み、京都、大阪の商人の後ろ盾を得た。
 この頃から、二人の間に考え方の違いが現れるようになった。
 大久保は政治家であった。
 それに対して、西郷は軍人であったのだ。
 意見が衝突するのは当たり前の事だ。
『智に働けば角が立つ・・』と後年、塩原金之助(三十節参照)が書いた『草枕(くさまくら)』の冒頭はまさに、大久保の事を言ったのではなかろうか。
 西郷が表舞台を歩くに従い、大久保は常に日の目を見ない裏道を自然と歩んできた。島津久光に近づくために、碁を覚えた。久光の知己を得た大久保は、藩政の中央に取り入った。寡黙で何を考えているか分からないと大久保を知る者は異口同音(いくどうおん)で語った。
 伊藤博文は大久保を恐れていた。
 なぜか、その理由がわからなかった。
 大久保の後ろに西郷隆盛がいる、それだけでも伊藤は大久保の存在がまるで重厚な能楽師のように思えた。
 西郷を自在に操る。
 西郷とも違う、重々しさを容貌に持っている。
 伊藤はすでに知っていた。
 二月九日、海軍大輔川村純義(かわむらすみよし)は鹿児島入りし西郷と会談するつもりであった。
 川村は西郷の縁戚(えんせき)にあたる。
 私学校の妨害で西郷に会うことは叶わなかった。
 伊藤はこの川村の動きが大久保の指示であることを承知していた。
 大久保の政敵は長州藩出身の内閣顧問木戸孝允(きどたかよし)であった。
 前年、大久保は木戸の提出した『鹿児島県政改革案』を受諾していた。
 木戸は鹿児島の暴発をここぞとばかり望んでいた。
 大久保を失脚させる、潜在一隅の機会と捉えていた。
 伊藤も重々承知していた。
 二月七日の朝議で大久保は鹿児島へ派遣の旨を述べた。
 全員が大久保の鹿児島派遣を却下した。
 伊藤も反対した。
「西郷を通じ、私学校の説得をしもうす」と大久保は説明した。
「政府にとって大久保内務卿の命が大切だ」と伊藤。
「大久保さんが鹿児島くんだりまで出張って、もし江藤さんみたいに乱に巻き込まれてはたまらん」と木戸は、何がおかしいのか笑いを堪(こら)えるような表情を浮かべた。
 伊藤は不気味に見えた。
『こいつの下だけには付いて行きたくない、大久保卿のお手並み拝見といこう』
 と伊藤は大久保の表情を改めて読み取ろうと勤めた。
 この後、大久保は京都にて西南戦争討伐軍を指揮する事になる。
 友と袂(たもと)を分かつ決断をするに至る過程に何があったのか。
 島津斉彬は生前、西郷の事をこう言っていた。
『薩摩で最大貴重な宝は西郷一人で、しかし彼は独立の気性が強いので、彼を使うものは私以外にいないでしょう』
 大久保もその言葉を身に染みていた。
『西郷どん、おまんはほんに私の手に負えん』
 大久保は西郷隆盛の三歳年下であった。

 ふとある記憶が大久保の脳裏をかすめた。
 木漏(こも)れ日の中を大久保は山道を歩いていた。
 稚児組(ちごぐみ)の文武の鍛錬(たんれん)帰りであった。
 強い日差しと蝉の激しい鳴き声の中に、隣組の三人の稚児が待ち伏せしていた。
『一蔵まっていたぞ』
 三人は木剣を構えていた。
『なんぞ用か』
 と大久保は先日の武道会の事を思い出していた。
 近隣の稚児組が集められ、藩から師範代級のものが定期的に指導にやってくる。
 三人の内に一人見覚えがある顔があった。
 へんな癖のある剣を使う、下段から上段へ切り上げる技を持っていた。
 二三度手合わせして、大久保は左側からしか切り上げ無い事にすぐ気がついた。つまり、下段側に立てば、一切の攻撃を受け流すことが可能になる。
 大久保はくるりくるりと回り、相手の足を止めた。
 相手は目が回り、ついには座り込んでしまった。
『お前は先日、竹刀を合わせた奴だな』
『そうだ、お前が卑怯な手を使ったせいで俺は恥をかいた』
『ほう恥をかいた。それで今日は意趣返(いしゅがえ)しか』
『ほざいたな』
 大久保は寸鉄一つ身に着けていなかった。
 郷中同士の者で乱闘を行い、それが藩に知れた場合、家そのものが取り潰しになる恐れがあった。
 大久保も武門に生まれた。逃げる事はできない。
 対峙するにはかなり不利な状況であった。
 自ら怪我をして人に知れても地獄、まして相手を殴り倒し、怪我をさせても地獄。
 大久保は逃げたい気分に襲われていた。
 そこに駆け足で現れた者がいた。
 西郷であった。
『吉之助、助太刀いたす』
 三人組みは三歳年上の二才組の吉之助と知るや一目散に逃げ出した。
 大久保と西郷は肩を並べ帰宅の歩みを始めた。
『一蔵、喧嘩は大志を抱く者がすることではない』
 と西郷は言った。
『大志とは、吉之助どん、なんぞや』
 西郷はじっと大久保を睨み、
『天下を取る事に決まってる』

 四十年も前の話だ。
『吉之助どん、もう二人で歩くことも無いな』
 と大久保は電報を握り締める伊藤博文を改めて見直した。
「伊藤卿、鹿児島はおいどんに任せてください」
 と大久保は頭をペコリと下げた。

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2010年6月14日 (月)

坊ちゃんに会いたくて 三十一

      三十一

 早朝、神戸港の新しく整備された埠頭の一つに商船飛騨丸が接岸した。
 艀(はしけ)が掛けられ、沢山の港湾労働者が我さきを争い、船に駆け上がってきた。彼らは、荷卸した品物の数で賃金が支払われる。だから急ぐ。一つでも多く運べば、それだけ金が手に入る。大三は何かに追われる亡者(もうじゃ)の集団のように見えた。
 大三は父の密書に書かれた商人に会う前に、神戸を探歩(たんぽう)するつもりだった。
 神戸港は平安時代の末期、平清盛が修復した大輪田泊港を起源として各時代の交通要所として栄え発展しきた。
 王政復古とともに開港され、外国人居留地が整備され、町には沢山の異人が闊歩(かっぽ)していた。
『そうか、横浜ともまた違う雰囲気だ』
 と大三は思った。
 倉庫が続き、沢山の人夫が大八車に荷の積み込みをしている。
 しばらく何をつんでいるのか足を止めて眺めていた。
 木製でできた円形の大きい歯車に被覆されたロープ状の物が巻き付けられている。
 そこに積み込みを終えた人夫の一人に尋ねた。
「これはなんでごわす」
 腰にぶら下げた色あせた手ぬぐいで汗を拭いていた陽に焼けた男はこう答えた。
「電信線だ」
「電信線?」
「あれ、あそこに見えるだろう、電信柱(でんしんばしら)、あそこにぶら下がっている線だ」
 コルタールが塗られた丸太が遥(はる)か港から延々と等間隔で神戸の市街地へと続いていた。丸太の先端に、横にやはり短い丸太が二本取り付けられ、下段の丸太に、電線が掛けられていた。(郵便局のマークは実はここから来ているのでないかと筆者は疑っている)
『そうかこれが電報の電信線なのか』
 当時まだ鹿児島に電信局が設置されていなかった。
 それというのも、鹿児島の特殊な事情によっていた。中央政府から一種独立行政がおこなわれていた事による。
 二月七日の私学校の弾薬庫強奪事件は、熊本鎮台がおかれた熊本城内の電信局から発信されている。

【二月七日 午前十一時十五分
ナガサキハツ
コウベ ナガサキキタジマケンレイドノ
カワウチショキカンハツ
カゴシマケンナイノシゾク、サイゴウ、キリノヲショウトシ、
フジツボウハツスルノモヨウアリ】(フジツ=近々)

 大三自身、東京で勉強をしていたので、電信柱はたくさん見ていた。
 ただその電信柱に架かる線の違いを知っていた分けではない。
 上段が電気を通す電気線であり、下段が電信線とは知らなかった。
 これだけの電信設備が整っていれば、薩摩の動静など逐一、中央政府に状況報告されるに違いない。
『急がなければならない』
 と大三は知らずの内に懐奥(ふところおく)にしまった西郷の密書を握り緊めていた。

【二月十二日 午前九時三十五分
クルメブンキョクハツ
ケイサツショショチョウドノ
コジマショウイチ
カゴシマイヨイヨセッパクノイキオイ
セイフソノタヨリハイリコミシタンサクニン
ニジュウヨメイアマリホバクセシヨシ
フジツコトアルベシ】

【二月十二日 午前十一時四十五分
トウキョウチヨダキョクハツ
クルメブンキョクコジマドノ
ケイサツチョウチョウカン
ホバクノイサイチョウササレタシ】

【二月十二日 午後一時十五分
クルメブンキョクハツ
クマモトチンダイドノアテ
ケイサツチョウチョウカンハツ
カゴシマホバクノジョウキョウイサイレンラクコウ】

 白い軟石(なんせき)でできた洋風の建物の玄関に井上商事神戸支店と看板が掲げられていた。
 いわずもがな、前節で登場した井上渋市が経営する井上商事の神戸支店である。
 大三は入口で、密書の宛先遠藤開治(えんどうかいじ)という者に案内を請(こ)うた。
 広い事務所を仕切る腰高の棚(カウンター)が入口に面して置かれ、土足のままで室内に入る事ができる。受付の女子は洋装の一枚布を頭から被り(ワンピース)、頭は焦(ちじ)れていた(パーマネント)。大三は異人かと思ったが、受け答えは流暢(りゅうちょう)な日本語であった。
「いらっしぃませ、どちら様でございますか」
「木村大三と申す、こちらに遠藤開治様というお方はご在籍されもうすか」
「はい、支店長の遠藤でございます」
「ただ、今しがた所用で出かけております」
「では不在ということでごわすか」
「はい、お待ちになりますか」
「どのくらいでお戻りになるかの」
「それが、聞いておりません。まことに申し訳ございません」
「それではでなおしもうす」
 と大三は、受付の女子の指示にて来客者名簿に以下の内容を記載した。
『鹿児島より火急により、木村大三参上』
 大三は井上商事から外へ出ると、宿を求めて元町方面へ道案内を請いながら歩きだした。
『夕方また来るとしよう、今日は船旅の垢(あか)でも落とすとするか』
 と大三はすれ違う異人を物珍しそうに眺めながら元町までぶらぶらと町に溶け込んでいった。

【二月十四日 午後五時十分
クマモトハツ
イトウコウブキョウドノ(伊藤博文)
カワイヨシヤ マツムラノボル
トウチサッコンノケイキョウ
シチュウオダヤカナカラズ
ショニモツカタヅケルモノオオシ
チンダイハショウコウノコラズツメキリ
ヨウロヲトメルショウヘイヲオキ
ソノホカヨウイアリ
サクジツリュウキュウオヨビカゴシマヨリ
ユウビンカキトメチャク
ソノタハカイフウニテオンシンナキユエ
ユウビンキョクヘサシモドシタリ
カキトメホカハミナカイフウニテ
オンシンナキユエナリ
コノダンオトドケ】

 この電報を受け取った伊藤工部卿は内務省へ馬車を飛ばした。
 内務省の事務方一同が執務する三十畳ほどの片隅に伊藤は大久保を認めた。
「大久保内務卿、これを、薩摩は動くぞ、どうだ」
 と伊藤は電報を内務卿の座卓に広げた。
 大久保はその内容を一瞥(いちべつ)すると、
「伊藤卿、西郷は動きもうさん、わしにはよくわかる。あいつはそういう薩摩隼人たい」
「大久保卿、桐野や篠原はどうじゃ」
 最初の内閣総理大臣となる伊藤博文は座卓を挟んで、大久保卿へ詰問(きつもん)を続けた。
「海軍大輔(たいふ)の川村に鹿児島へいかせてくれんか」
 と大久保は伊藤を見据(みす)えるように言い放った。
「今更(いまさら)」
「西郷は私学校の暴発で身体去就(しんたいきょしゅう)に迷っていることだろう、川村に説得させる。如何(いかが)なものか」
「なぜそう思う」
 と伊藤はふと大久保の厳しさの中に何かあるのか知りたかった。
「西郷と大久保は一心同体でごわす」
 と大久保は立ち上がると伊藤に背を向け、窓から差す午後日の中でこう読んだ。
「二つなき道に我が身は捨て小船、風吹けば吹け、波立てば立て」
 それは長岡監物(ながおかけんもつ)が西郷隆盛に送った国風であった。

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2010年6月10日 (木)

坊ちゃんに会いたくて 三十

      三十

 垣根越しに恨めしそうな眼で覗く少年がいることにさきほどから気がついていた。袷(あわせ)の絣(かすり)姿(すがた)に草履(ぞうり)を履いた少年だった。
 草花が生い茂り、庭の中央に岐阜から取り寄せた巨岩の周りに池を掘らせ、鯉(こい)や鮒(ふな)を飼っていた。生垣の周りを孫娘が賑(にぎ)やかな声を上げ騒いでいた。あの年頃はなんでもおかしいのか、ちょっとした事で大げさに笑う声が響いていた。
 庭に面した廊下を、大日本評論社の井上連治が足早に現れた。
「あら、お父様よ、きょうちゃん」
「あれま、ほんと、かくれて、後で驚かしましょうよ、まさよお姉さま」
 二人の娘は柴垣の後ろへ慌てて隠れこんだ。お下げ頭にスカート姿の二人が隠れこむのと同時に、連治が渋市の書斎の前に佇(たたず)んだ。
 早朝より、井上渋市は自宅で書類の整理を行うのを習慣としてきた。
 前日の各支店、営業所からの報告を電報で受け取っていた。
 売上高、仕入高、何が売れているのか、またどのような注文があったのか、数行の電報の電文にその発信した営業所の状態を確認する。各地で起こる出来事も新聞より早く渋市は情報を掴(つか)んでいた。
 情報が漏れないように暗号が取り決められていた。
 簡単なものであるが、渋市はそういう商売のちょっとした拘(こだわ)りをもった男だった。
 商社にとっては何が売れるのかが重要な情報になる、売れるものを安く仕入れて、高く売る。人より先んじて情報を掴むことは、人より確実に利益を上げられる。
 この頃、垣根越しに小学生だろうか、早朝より、庭から渋市の様子を伺う少年の存在に気がついていた。最初は孫娘の学友かと思ったが、襖越しに眺めると明らかかに少年の目は、渋市の書斎に向けられていた。
「社長、連治です。よろしいでしょうか」
 三女の婿養子の連治であった。陸軍士官学校時代に目に掛け、三女の婿に選んだ。陸軍のパイプの目的もあった。陸軍に顔の利く者を身内に作りたかった。士官学校を卒業して、すぐに渋市は連治に出版社を作らせた。渋市の諜報活動機関として役に立つと考えて金を出した。この時、渋市の頭にはこれからの日本が歩む道がすでに出来上がっていた。
『商売は必ず大陸に移る』と渋市は当時誰も考えなかった事を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた。
「入りたまえ」
「は、失礼もうす」
 渋市は座卓の前に沢山の書類に囲まれて、熱心に何かを書き綴っていた。
 連治の後を追うように、家人が茶を持って現れた。
「あら、連治さん、ようお越しで、その辺に、お嬢さんがたがいらっしゃいませんでしたか」品のよいお女中だと連治は思った。
「はて、見ませんが」
 渋市は笑みを浮かべて、
「大方、親父を見たもんで、叱られると思って、どこぞに隠れたのだろう」
「ところで、朝から連治君は何の用でござる」
「はい、新聞社を一つ買いたいと思います」
「新聞社?」
「鹿児島で不穏な動きがあるのをご存知で」
「西郷どんか」
「すでに二名、鹿児島に派遣しました」
「はて、それと新聞社がなんぞの関係がある」
すでに渋市は連治の話の概要が分かっていた。一応念のために確認した。
「井上商事の電信網を使わせていただきたいと思っています」
「それで何をやる」
「戦争の戦況報告を日々新聞に掲載します」
「なるほど、現地の戦況を電信で東京へ送る。そして新聞に掲載すれば、確かに新聞はよく売れるだろう」
 渋市はすでにこの話に別の興味を持っていた。
 往時、すでに数紙の新聞社が存在していた。 新聞は世論を形成する。広告や宣伝など大量に情報を伝える事が可能である。商売上の損得を考えると間違いなくプラスがある。
 連治は渋市が興味を示したのを確信していた。
「新聞を印刷するには、印刷機が必要だ。連治君、面白い事を教えよう、わしの所の支店すべてに印刷機が用意してある。記事を全国に送り、同時に大量に新聞を印刷して売れるぞ」
「印刷機?」
「私は米国から支店用に印刷機を購入した。商品取り扱い、商品広告、色々と便利なものだ」
「買う新聞社とは」
「東都日々新聞という新聞社です」
「東都日々新聞」と井上渋市は、座卓に広げた手帳に書き入れた。
「私がすべて段取りする。連治君は夕方、その東都日々新聞まで来なさい。安生良く手配しておくから全部まかしときなさい」
「では、夕方東都で」連治は立ち上がり、庭に面した廊下へ踏み出した。
「わ」と娘達の声が俄(にわ)かに起こった。
「はて、だれぞ」もちろん連治は相手の正体はわかっていた。
 長女の雅代、次女の響子である。渋市の所でお嬢様教育を受けていた。ここに住み、小学校に通っている。沢山の習い事に通うには、渋市の住まいが最適であった。小学校入学と同時に祖父母宅に厄介になっている。週末に連治宅に戻るが、両親の目が届かないのと祖父母の甘やかしのせいか、天真爛漫(てんしんらんまん)に育っていた。
 けらけらと庭から笑い声が聞こえる。縁側から庭に降りるように石段が用意されている。その一番上段に男物の下駄がある。たぶん渋市のものだろう。連治はそれを引っ掛けて、庭に降りた。
「さて笑い声はどこのどなたかな」
 またけらけらと笑い声が聞こえる。
 池の中心にある巨石へ渡る橋がある。その欄干から響子のスカートが覗いていた。
 ふと連治の視線の先に一人の少年がいるのに気がついた。
 何かに怯えたおどおどした表情に見えた。
 不審に思い連治は道路に面した柴垣へ近づいた。
「おんし、何か用か」
 少年は金縛りにでもあったようにその場に凍り付いていた。
「名前は」
 少年はようやく口を開いた。
「塩原金之助(しおばらきんのすけ)」
「あらきんちゃん」
 いつのまにか雅代が連治の横に来ていた。
「知り合いか」
「うん、同じ学級よ」
「なんかよう、きんのじ」と響子が連治の袖を掴んだまま尋ねた。
「俺、ちょっと話があって」と金之助は下を向いたまま顔を真っ赤にした。
 連治はこの少年が何を言いたいのか察したが、次の瞬間驚くことを話始めた。
「ここの井上渋市さんの書生になりたいのです・・・」
「書生か」と井上渋市本人がそこに立っていた。
 市ケ谷柳町市ケ谷学校の塩原金之助という少年が渋市宅にやってきたのは、西南戦争の三日前だった。おでこに疱瘡(ほうそう)の痘痕(あばた)が目のように付いていた。後で響子から聞いた話で、『一つ目の鬼瓦』というあだ名が付いていた。
「お前は何ができる」渋市が問いただした。
「物を書けます」
「ほう、これはおもしろい、物が書けると、これはいい、新聞屋をやるには物が書ける者が必要だ。どう思うかね連治君」
「はい、確かに、しかし・・・」連治は年端もいかぬ少年にと思った。
「私も小さい時、物が書けたらと何度も思った・・・」
 と渋市は少年に近づいた。
「私の所での修行は厳しいぞ」
「はい、がんばります」
 少年はようやく上を向いて渋市と視線を合わせた。
『そうか、この少年は私を見つけた。師としようとしている。おもしろい』
 この少年が明治の文豪となるとは、この時そこに居合わせた誰も想像だにできなかった。

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2010年6月 7日 (月)

坊ちゃんに会いたくて 二十九

      二十九

 朝一で勇が号外を握り締めて牛舎から戻ってまいりました。
『薩軍決起す』と見出しが刷られていました。
『ああ、ついに大三は明治政府に弓を弾いた』と清は恐れていたことが現実になったのを実感しました。
 寄宿していた官吏も号外を回し読みして、事の重大さに慌てて宿を後に開拓使へ出かけていきました。
 当時、日本もようやく主要都市間を結ぶ電信通信が整備されつつありました。
 すでに戦争必死の予感のあった東京を本社とする新聞各社は薩摩に記者を派遣し、私学校の動静を逐一電報で東京へ知らせていました。六十年ぶりの大雪の朝、薩軍が北上した事が、電報ですぐに中央へ伝えられました。 明治政府の対応もこの電報があったおかげで迅速な指令が各地へ飛びます。箱舘にも東京を本社とする箱舘日々新聞がありました。 その新聞社から連日、戦況を伝える号外が配られました。箱舘市民も毎日、新聞社の前に集まり、はや刷りの半ぴらを奪い合う有様でした。
 それは、江戸時代では考えられない情報伝達の早さでした。
 1869年に東京と横浜間で初めての公衆電報が開通しました。
 1874年の佐賀の乱、同年の台湾出兵の際には電信兵が逐次、東京・大阪に戦況を報告していました。日本全国の出来事が翌日には知れ渡るような時代に変わろうとしていた時でもあったのです。

 大三を乗せた商船飛騨丸が神戸港へわずか二十海里ほど迫った時、艦内の一部で騒ぎが起こりました。二十畳ほどの客室の畳の上で本を読んでいた大三は、たまたま通りかかった船員に問うた。
「なにかおきなさったか」
 その船員は興奮ぎみにこう答えた。
「西郷大将がまた上野へ向かった」
「西郷とは、薩摩の西郷どんのことか」
大三はいつのまにか立ち上がっていた。
「西郷といえば、薩摩の西郷以外に誰がおる」
「あいわかりもうした」
 船員はまだ興奮さめやらぬ風で小走りに駆けていった。
『ついに、起(た)ったか・・・急がねばならぬ、なんとしても武器を調達するでごわす』
 この飛騨丸にも電信無線を利用した情報が届いていた。
最期の武士(もののふ)の戦いは、近代へと向かう歴史の産物との戦いでもあった。
 槍や刀をぶら下げ、野山を駆ける戦など遠い昔の話になろうとしていた。
 戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)で戦った薩摩隼人自信がよくわかっていることだが、近代戦は火器の威力が勝敗を決すると言っても過言では無い事を肌身で知っていた。
『大阪で奪われた弾薬に見合う弾薬を調達する』と大三は誓った。

 ここで数日前の東京に時間を戻す。
 場所は神田神保町界隈(かいわい)。もちろん現在のような書店が立ち並ぶ町並みではない、江戸時代から続く屋敷町で、その一画の小路に『大日本評論社』という看板を掲げた平屋造りの建物があった。
 三人の男達が平机を囲んで喧々諤々(けんけんがくがく)と議論を繰り広げていた。
 黒髭が社主の井上連治(いのうえれんじ)、タバコを銜(くわ)えたまま唾を飛ばしている白髪が田中耕造(たなかこうぞう)、そして一番若く見えハンチング帽を被ったのが田之上伸二(たのうえしんじ)であった。
「しかしですな、西郷が起つとどうも思えんです」
 と田之上。
「何言っておるか、政府が武器や弾をごっそりもっていきよった。もう火に油を注ぐようなものじゃないか。西郷が起てばじゃ、九州一円の士族が一斉に決起しおる、そう思わんか」
 と田中。
「ここ一両日中には何か動きがありもうす。どうだ、いっその事。鹿児島へ行って直接、桐野や村田から話を聞いたほうがよかじゃなか」
 と井上。
「しかし、社主、金がありません」
「わしの嫁の実家から少し出させる」
「そうか、井上財閥がいれば、鬼に金棒だ」
 この井上財閥とは、社主が養子縁組した先の実家であった。明治になり政商となった井上渋市が起業した井上商事によって陸軍・海軍の購入資材は一手に独占納入するようになった。あれよあれよという間に、一大財閥となりつつあった。三人の娘がいた。連治が二十二で陸軍士官学校の予備役で偶然、井上渋市と同席する席があった。
「おんし、女に興味があるか」とその陽に焼けた番頭のような男が連治に聞いてきた。
「わしは女というものは知らん」と連治は答えた。
「これは失礼した。女に興味と聞いたのは、嫁はどうかという意味じゃ」
「嫁」
「そう、お見受けしたところまだ、独身でござろう、これからお国を守ろうとする人が家庭を持たなくては、一人前とはいえ申さぬ、よければ、わしのところのばっち娘(こ)など如何なものか」
 振袖姿の千代子が食事の給仕に現れた。
 連治も知らなかった。最初、井上商事にお前を引き合わすとだけ聞いてきた。だが、どうも最初からお見合いをさせる段取りになっていた。
「千代子ともうします」とまだ初々しいおでこを出し、慣れない丸曲げを結い上げていた。
「年は」と連治はぶっきらぼうに聞いた。
「はい、十六になりました」
「そうか」と連治はうなずいたが二の句が出なかった。
「連治さん、よろしければこいつをもらってください」
「よろしくお願い申し上げます」
 と初々しいおでこを畳みにこすりつけるように千代子は頭を下げていた。
 千代子は多産であった。三年で男二人、女一人を生んだ。
 連治は陸軍士官学校を卒業すると井上の応援でこの出版社を設立した。
 もっぱら井上財閥の宣伝活動が主で、井上の人物伝なども出版してきた。
 だが最近、連治は新聞に興味を持つようになっていた。
 それというのも、井上商事が政府から一手に受注していた電信線工事を知り、電信という情報の伝達方法を知った時、より早く地方から情報、いや国外からも情報を伝達できるのであれば、だれよりも早く新聞に記事を書ける。
『この電信を使って、西郷の動きを逐一新聞に掲載してやる』と連治は思った。
「たしか田中さん、あんた潰れそうな新聞社知ってたなもし」
「ああ、東都日々新聞」
「それだ、すまんがあんた走って、その新聞社を買い叩いて来てくれ」
「買い叩く」
「そうたい、井上商事が買い上げると言ってくだされ」
「社主、なにをするのです」
「おいどんは、義父(おやじ)にあってきもうす」
「田中と田之上はすぐ鹿児島へ向かえ」
 連治は懐から、厚い札入れをそのまま平机に置くと、
「これだけあれば、向こうでうごけるじゃろう、足りん分は長崎の井上商事から引っ張れるように連絡しておく」
「さあいそがしごたる」
 この三人が実は西南戦争の勝敗に絡んでる来るとは、ついぞ誰も想像できなかった。

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