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2008年8月24日 (日)

やさぐれ勝の恋 十八

      十八

「見える、見えるぞ」
 巫女が纏《まと》う白装《しろしょうぞく》姿の岩淵克子《いわぶちかつこ》は狂ったように立ち上がった。
 これでもかというぐらいに眼《まなこ》をカット見開き、赤い鉢巻に灯が点いたままの百目蝋燭が暗闇の中で揺れていた。口角に溢《あふ》れた唾《つば》か涎《よだれ》か区別のつかない液体がゆっくりと下へ垂れ続けていた。
 彼女の放つ狂気が八十畳の大広間を埋め尽くした人々にどよめきを促《うなが》した。
 もっともここでは克子という名では呼ばれてはいない。
『瑞人《みずと》の巫女《みこ》』と信者から呼ばれていた。
『瑞人とは瑞穂《みずほ》國の人を意味する。瑞穂とは古来日本の旧称だ』
 説明するまでもない、勝の直ぐ下の長女が克子である。
         *
 生まれ育った土地を離れ兄弟八人が保護された宮城県内の児童養護施設で克子は朝から晩まで兄弟妹の面倒を見て暮らした。
 施設は敗戦後、戦中兵舎だった建物の払い下げを受けた山本園長一家によって始められた。元々農家であった園長一家は農地改革で僅かな荒れ果てた農地を国から払い下げを受けたが、それだけで腹いっぱいにならなかった。そんな時、戦後繁華街を徘徊し窃盗や暴力を行う少年達の愚連隊が問題化した。ほとんどの少年は戦災孤児であった。彼らを保護し一箇所に押し込め更生する施設の整備が求められた。どういわけか山本の元へ施設の管理人の話が転げ込んできた。県からかなりの援助が出ると担当者から聞いたとき、山本はひとつ返事で答えた。山本は幼い時に脚気を患い長い闘病生活を余儀なくされた。性格に問題を生じた。鬱屈した心が表情に表れ、自らの子供を殴ったり蹴ったりするような男だった。警察に逮捕監禁された少年が次々と園へ連れられてきた。どの少年も一筋縄でいかぬ者達だった。山本は鼠をじりじりと甚振《いたぶ》る方法を用いた。一人づつ個室に閉じ込め、性格の矯正をする事を始めた。水以外いっさい彼らには与えない。二三日はそれでもなんとかなる。口も利けぬ衰弱した身体になったところで大部屋に引き連れてくる。そこで先に入園している少年達に命じて暴行を加えさせる。死なぬ程度と命じたが数人が命を落とした。もちろん外に口外することはご法度だ。この方法は彼らを恐怖で支配するのに成功した。
 山本が数十人の愚連隊を制するにはこれ以外になかった。自らの陰湿な性格が成せる技だったかもしれない。
 そんな園へ勝兄弟姉妹8人が連れられて来た。児童福祉法では乳幼児(一歳未満)は乳幼児院に預けられる事になる、実際は行政への報告だけで済んだ。
「お前たちは今日からここにお世話になるんだ」と母方の叔父が勝達へまるで自分の手柄でもあるかのように話した。
 山本は十二歳という勝の身体に驚いた。どうみても六尺はあろう身体をしている。腕の筋力は山本やこの園に入所している者達の比ではない。
 克子は勝の二つ離れた長女になる。
 さらに次男の光男が二つ下。それ以下の兄弟妹は何れも五歳以下でそれも年子という年端もいかぬものばかりだった。
「お前はこの園の農場で働いてもらう」と山本はすぐに決めた。
 勝は中学校へ通いながら園の農場で馬車馬の如く働いた。克子も同じように園から小学校へ通ったが、ほとんど通うどころではなかった。彼女は専《もっぱ》ら小さな兄弟の母親役である。食事の後片付け、洗濯と休まる暇もない。背中に美智子、胸に平助を縛り着けたまま朝から晩まで忙しく立ち働いた。
 兄弟全員の朝食の後始末を終えると、勝の元へ朝食と昼の弁当を届ける。克子も自分の朝食を下げ勝を訪なう。
 何も話す事はない、ただ弁当を畦《あぜ》で広げ、麦飯に僅《わず》かな野菜と干魚の弁当を食すだけで克子は幸せだった。
 弁当を運ぶ途中で出会う少年がいた。
 いつも少年は土手に寝転がって空を眺めている。克子はこの辺の農家の子供だと思っていた。
 克子はたまに目が合うと会釈する。小学校の高学年、そう克子よりは年上に思えた。
        *
 夏の嵐の夜に事件は起きた。
 その日の朝、山本園長は新しく入所した少年を折檻部屋と呼ばれる納戸に押し込めた。
 年長の者にいたずらされて廊下で喧嘩をしていた所を山本に見つかった。なぜか山本は一方的にその少年を折檻部屋に押し込めた。
 夕方になり夕食の時間にその少年が欠けている事に克子が気がついた。
  年長の者が手分けして園を探して回ったが見当たらない、山本園長に問うたところ折檻部屋に押し込めたと説明した。
 勝に従って克子も折檻部屋に向かった。
 折檻部屋の鍵は掛かっていた。
 後に従っていた園長が腰にぶら下げていた錠前の束を取り出し鍵を開けた。
 部屋に少年の姿形は無かった。
 真っ暗部屋に唯一ある天窓から弱い月明と激しい風が発《た》てる音が狭い部屋にあるだけだった。
「おかしい、だれもいない」
 園長の容貌が見る見る変わるのを克子は見逃さなかった。何かに囚われている奇妙な輝きが両眼にあった。
 誰にも言われずとも勝と克子は園内を探し回った。
 廊下の向こうに仄《ほの》かな明かりがあった。
 その光が偶然屋内に紛れ込んだ蛍の放つ弱弱しいものだと克子は黙って見つめていた。
「かつ、この蛍は何かを現している」
 と勝《まさ》が言ったが、その意味する事は克子《かつこ》には分からなかった。
 さらに強くなった風雨が今にも窓ガラスを破って廊下に侵入しようとしていた。
 その時、克子はあのいつも弁当を届ける途中で出会う少年が園の庭を駆けて行く姿を偶然捕らえた。
「まさ、今いつも話してるあの男の子が庭にいた」
「どうやら行方不明の者は外へ出たらしい」
 と勝は玄関へ向かい、玄関先の物いれから雨合羽と長靴を取り出すともう一組を克子に手渡した。
 叩きつける雨の中を勝の広い背中に隠れるように克子は後に付いていった。
 時々身体を押し返そうとする強風で一歩も前に進めなくなった。
 園の畑に向かうのに林を抜ける近道がある。
 朽ち果てた人家の横を流れる川に粉引きの水車小屋があり、川の水が増したためいつものゆっくりとした水車の動きではなかった。
 暗天に向かって帯びただし川の水を噴き上げていた。林の中を抜ける強い風が『ぴゅー、ぴゅー』とまるで笛をこれでもか、これでもかと無茶苦茶に吹き続けていた。
「まさ、あそこ」と克子は急に立ち止まり風雨の真っ暗な闇を切り裂くように人差し指を真っ直ぐに指し示していた。
 一段高くなった丘の下に何かが立っていた。
 その立っている・・・その姿を際立てせるかのように何か無数の光の群れが乱雑な動きで回りを覆っていた。
 克子は急にそこへ駆け出したい衝動に襲われた。
「お前はここに」と勝は光の正体を確かめるため丘の下へ急いだ。
 酷い腐乱臭が辺りに充満していた。
 夏の高温が腐敗を早めたのは明らかだった。
 すでに眼窩は落ち窪みその周りを丸々と肥えた蝿の幼虫が動き回っていた。その蛆《うじ》を狙って死出虫《しでむし》の夥《おびただ》しい数が蠢《うごめ》いていた。
 勝はその虫達の餌食になっている正体がまだ背丈の揃《とと》わない少年である事を確認した。下半身は一糸纏わず、むき出しの未熟な陰茎を無数の蛆が白々とのたうつ。
 勝は後ろの克子が気になって振り返った。
 強風と雨の中に合羽姿の克子の横に光の渦が見えていた。克子は誰かと話していた。
 勝には見えない何者かと・・・
『男が子供と遣《や》ってきた・・ベルトで子供の首を締め上げた・・』
 蛍が飛び交っているのでは無かった。
 克子は小さい時から突然独り言を話した。
 みな兄弟はそれを知っている。
「まさ、この男子の話から園長が・・」
「かつ、園に戻って警察に連絡しよう」
 と勝は克子の手を確りと握り締めた。
「まさ、どうしたの」
「ああ、俺はおかしくなりそうだ」
 確かに狂った夏の夜だ。
 宮城県警に連絡が入ったのは午後八時を回っていた。連絡を受け取った係りの者の話では、大人からの電話ではなく少年からだったという。非番の村末和正《むらすえかずまさ》警部補が現場に到着したのはすでに午後十時を回っていた。先に現場に到着していた部下の話から、ホトケは成和園の園児、戦災孤児、氏家清直《うじいえきよなお》八歳。
 園長の山本からの聞き取りで子供同士の喧嘩があり、以前から氏家の粗暴が激しいため、鍵の掛かる部屋に閉じ込めたが夕食時に部屋に行ったところもぬけの空だったという。山本は閉じ込めてから一切部屋には行っていないとの話だった。
「その園長と、そうだ連絡を入れた少年を連れてきて欲しいのだが・・」
 と村末は電話を掛けて来た少年に興味を持った。
 狐目の男だと村末は山本の第一印象で感じた。
「あの氏家は乱暴でよく年少の者を殴る蹴るような子供でした・・」
『そんな言い訳じみた事は聞いていない・・・』
「園長はその後一度もその少年を閉じ込めた部屋に行かなかった」
『この猛暑の中で水も与えず、年端もいかぬ者を』
「ええ」と言ったきり山本は所在無いように下を向いていた。
 はっきりとは断定できないがこの男は何かを知っていると村末は直感した。この場で詰問しても証拠が少なかった。
『どこから落とすか』と村末は激しく叩きつける風雨が窓ガラスを突き破ってくるのではないかと思った。
 山本の聞き取りを終え、身体のがっちりした少年が部屋に通された。
 園の教室の一つを借りうけて聞き取りを行っていた。
「そこに座りなさい」
 少年の肩越しに雷《いかづち》が走ったように村末は錯覚した。次の瞬間教室の裸電球の明りが一瞬で失われた。実際は園のごく近くに雷が落ちた。翌朝、送電線の鉄塔に雷が落ちたために停電になった事が判明している。
 蝋燭《ろうそく》が用意され、わずかな明りの中で村末は少年の話に聞き入った。
「俺の妹のかつと発見した」
 と勝と名乗った少年は淡々と事実を語った。
 村末はその話に事実と一点の相違も無いと確信した。
 村末は遺体のあった場所を確認していた。すでに遺体は片付けられていた。園から数キロは離れている。この嵐の中でまして大人でさえ探すのは困難な状況でよく発見できたと村末は感心していた。あの場所へ行くには何かが必要だと思っていた。
「君はどうして氏家君があの場所にいると思ったのか教えてくれないか」
 少年の顔の丁度真下に蝋燭台があり、少年の顔を下から仄かな明りが照らす恰好になっていた。
「見ました」
『何を・・』と言葉にしなかったが、そう言ったとでもいうように少年は答えた。
「蛍が飛び回っていました」
「蛍・・」
「はい、蛍です」
 なぜこんな嵐の夜に蛍が飛び回る。
 村末は蛍の習性をよく知っていた。
 彼自身生まれ育った宮城の山や川で繰り返し繰り返し夏になると蛍狩をやった。
 その経験から蛍は風の少ない夜飛び回ると知っていた。
 雄は雌を求め精一杯に腹部後方の発光器から発光する。雌はじっと雄の求愛行動を草むらで待ち受ける。とても雨や風が強い夜は飛び立つ事もままならない。
 だから嵐の夜はじっとどこかで雨風を凌いでいる。
「蛍に導かれて氏家君を発見した・・」
 また雷鳴が窓ガラスを通して教室を白日のように照らした。
 大人と寸分変わらぬ体躯を持つ少年が窮屈そうに教室の椅子に座っていた。
「かつが丘を指して教えてくれました」
 と勝はつい口を滑った事を後悔した。
「かつ・・克子さんが見つけた・・」
 村末の脳裏にある興味深い記憶が蘇りつつあった。
「克子さんは目が悪いのでは・・」と村末は言ってから、恐山でのイタコを巻き込んだ残忍な殺人事件を思い出していた。
 イタコとは生まれながらに盲目もしくは半盲目の幼い少女が恐山のイタコへ弟子入りしそこで修行することで、死んだ者の霊と会話する能力『口寄せ』を得た者をそう呼ぶ。職業かと問われれば、それで生活の糧を得るのであるから仕事には違いない。
 克子は生まれながらに全盲であった。
 だが家人はだれも気がつかなかった。
 克子が話しが出来るようになって、初めて克子が違う物を見ている事、そしてあらゆる物の色が目の見える者と違いがあることがわかった。だが克子は物が見えてる者と寸分違わぬように歩く事もなんでもやる事ができた。
 だれも盲目とは気がつかなかった。
「克子さんは、その・・」
 村末は一度言いよどんだ。
 村末はイタコが人知を超えた能力を持っている事を誰よりも知っていた。
『克子は蛍に導かれて少年の元へ辿り着いた』
 勝の真剣な眼差しがそう語っていた。
 山本園長の聞き取りで村末はこう聞いていた。
『勝とめくら[#「めくら」に傍点]の克子が見つけました』
 目が見えない者が見つけたという事に引っかかっていた。だがその答えを村末は漸《ようや》く見つけたのだ。
『克子さんは人は違う物を見たり、感じたりできるに違いない・・』
 村末は思い直したように、
「勝君、もし君さえよければ、克子さんからも話を聞きたいのだが、よいかな」と村末は丁寧に勝の同意を求めた。
「おれはかまわねえ、かつを呼んで来る、ちょっと待っててくれ」
 勝が教室を飛び出していった。
 勝は兄弟が寝る二階へと駆け上がっていくと部屋の前に克子がじっと立っていた。
「かつ、どうした」
「まさ、またあの少年が庭に来ているの・・」
 勝は廊下の庭に面した窓から暴風の漆黒の闇をじっと目を凝らして見たが、何もそれらしき姿を捉える事はできなかった。
「何かを話たいと思うの、まさ、いっしょに付いて来てくれる」
「その前に、警察がかつの話を聞きてえと」
「そう、でも・・」
 克子は嵐の中を遣ってきた少年が気がかりだった。
 村末は勝に伴われて遣ってきた少女に稀有な物を感じ取った。線の細い顔立ち、目がとても見えないと思えない円《つぶ》らな瞳、勝と兄妹と感じられないほどほっそりとした身体付き。
「あの、刑事さん」と克子は困ったように、村末に話した。
 克子の透き通った声がまるでひばりのさえずりのように心にじっと染み入った。
「なんだね」
「庭に・・」
 克子も話してはいけない物を感じたが、話せずいられなかった。
 村末も克子が何かを話したがっている事を感ぜずにいられなかった。
「誰かが来ている・・」村末の直感だった。
 だが、克子はそれに答えるようにこう話した。
「氏家君のところまで連れててくれた男の子が、また園の庭にいるの・・」
 村末はあの時と同じだと思った。
『死人に口なし』という言葉がある。
 だがイタコの前では無意味だという事をいやというほど思い知らされた。
 彼女等は死人と会話できる。
 死人を見る事ができる。
 それが事実以外にありえない事を村末は過去の事件で経験した。
         *
 雷鳴と風が弱まり、雨がしとしととまだ降り続いていた。
 克子を先頭に、勝、村末警部補、山本園長、そして三名の警官が同行する奇妙な一行が深夜の森を進んでいた。いづれも雨合羽に長靴という出で立ちだ。
 山本園長を同行させたのは村末の考えだった。
「もうしわけないが保護者として来ていただきたい」と山本に村末は同意を求めた。
 激しい雨の後なので、酷い泥濘《ぬかるみ》を長靴を両手で引き抜きながら進むような状態だった。
 克子にしか見えない少年をたよりに一行は川沿いを進み、それに平行するように続く雑木林の切れ目で漸く林へと方向を変えた。
 勝は時々克子の先に何かの光が見えるような気がしたが、それをはっきりと確認する事はできなかった。
 克子は少年と一緒に歩いていた。
 それは克子だけが持つ能力だ。
 少年は時々後ろを振り返り何かに怯えた。
『だいじょうぶ』と何度か克子は少年の心に訴えた。
『うん、だいじょうぶだね、警察がいる』
 林の中にぽっかりと穴の開いた空間があった。
 笹が鬱蒼と処狭しと埋め尽くされていた。
 少年が笹を掻き分けて進みだした。
 誰の目にも笹を掻き分けて進むのは克子しか写らない。
 ダケカンバの幼木が一本だけ、あたかも誰かに植えられたまま忘すれさられたように笹から顔を出していた。
 少年は下を向いたままじっと動かなくなった。
『ここにいる』と克子は聞こえた。
 何度も何度も、少年と田んぼの畦道で出あったのだろう、一度でもちゃんと話を聞いてあげればよかったと克子は思った。
 少年は克子に何かを話したかった。
 聞いてあげられなかった・・
 克子は人差し指で真っ直ぐにダケカンバの幼木を指し示した。
「ああ」と突然声が響いた。
 勝が振り返ると笹薮《ささやぶ》を一目散に駆け出した者がいた。
「捕まえろ」村末の声が漆黒の闇に鳴り響いた。三名の警官は泥の中で転げまわる山本園長を難なく取り押さえた。
 少年が手を振りながら笹薮を掻き分けてさらに林の中に消えていこうとしていた。
 一度軽く頭を下げるとそのまま姿を消した。
 勝にもはっきりと聞き取れた。
『ありがとう』   
         *
 村末の取調べで、山本園長は自白した。
 二人の少年を殺害した事実を認めた。
 山本が小児性愛者(ペドフィリア)であることが後でわかった。養護施設を始めてから目を付けた少年を折檻部屋なる部屋に監禁し、異常な行為を行っていた挙句に殺害した事を認めた。
 笹薮で発見された少年は宇津木和ということが分った。山本から県への報告書には脱走して行方不明となっていた。
 その後、山本園長の死刑が確定する。
         *
 小さい時はそれでもよかった。
 彼女が成人してから、日常当たり前にある事が人と違う事に対し、克子は長い間固い殻で自らの心を閉じてしまった。
 誰にも自分の能力について語らない、そう心に誓った。
 だが、いつも耳から微かな雑音が聞こえる。
 特に意識していない時に、人の話声が聞こえる事がある。意識していない時の方が多い。
『私は井波和義と申します』
  克子がいくら辺りを探してもその声の主はいない事が多い、しかしはっきりと姿を現す者もいる・・あの少年がその例になる。
『やはり、貴女は聞くことができるのですね、私の仲間が話していた記憶があります。現世にいる者でたまに私達と会話ができるものがいると・・・』
 それが日常茶飯事であった。
 銀蔵の宿舎で飯炊きや雑事をやって一生を過ごす、そして勝と一緒にいる。
 と自分で決めてきた。
 だがある時人生が変わった。
         *
 岩淵道三《いわぶちどうさん》というひとりの政治家と彼女は出会ってしまった。
 人がどのような人生を歩むかなど誰も分らない、しかし人は人に出会う事によって確実に運命が変わる。
 土建屋を一代で一流企業に築き上げた岩淵は銀蔵の賭場の常連であった。彼は五十歳で家督を息子に譲り政界へ打ってでるという野望を持っていた。
「人生五十年、後は御国のために身を粉にするだけ」と岩淵は事ある毎にそう言い続けてきた。この海千山千の叩きあげの男はよく宿舎の食堂にひっょこりと現れた。
「ねえさん、あのうまい水を一杯くだせえ」
 克子は水道水をガラスコップに注ぎ入れて出すだけだ。
 どっぷりとした体格の岩淵は身体全体で水を飲み干すようにコップから水を並々と喉へ注ぎ入れた。
『なんて水をおしそうに飲む男なのかしら』
 もちろん全盲の克子にはその姿は見えない、だがはっきりと岩淵の一挙一動が手に取るように分る。
「入れる人が入れるとただの水もこんなにうめえや」と岩淵は豪快に笑い飛ばす。
「ねえさん、失礼だがあんた独身なんだってな」と急に岩淵の声のトーンがダウンした。
「はい」
「世の中は本当にあきめくらばかりだ、おっといけない、すまん」
 岩淵が何を言いたかったのか克子には手に取るように分った。おかしくて噴出しそうになった。
 急に岩淵が床にひれ伏した。
「何も言わないで、聞いてください・・」
「俺は十年前女房を失った・・俺は見ての通り男ぷっりはまったくだめだ、だが人一倍、女を大事にする・・」
 食堂に現場から帰った労務者が固唾《かたず》を呑んで見守っていた。
「一緒になるにははずいぶんと歳が離れているが、あんたの生涯、生活に不自由は一切させない・・」
 丁度裏から賭場の仕度を終えて銀蔵と勝が食堂に現れた。
 克子の前で頭を床に擦り付ける岩淵を認めた。
「えい、めんどっちい、克子、俺のかかあになっちめえ」
 誰が最初に話すのか銀蔵も固唾を呑んだ。
 静けさを破ったのは克子だった。
「私は目が見えないのよ・・」
 岩淵が政界に打って出れたのは実はしゃべりが達者だったからかもしれない。
「克子さん、俺はずっとあんたという人を見守ってきた。銀蔵の賭場のアイドルが綾子さんなら、あんたは女神だ。俺にはそうとしか考えられない、あんたの一挙一動の寸分の狂いのない所作は目の見える者でもかなわぬ正確な動きだ。俺の考え違いでなければ、あんたは心眼というやつですべてを見ている。と俺は確信している」
 克子は無言だった。
「俺のために一生を仕えてとは言えない、だが俺はあんたの入れるその一杯の水に惚れた。惚れて、惚れ抜いた。こんなうめえ水など飲んだ試がねえ」
 最後は岩淵の声は涙声になっていた。
「条件があります」と克子は答えた。
 誰もその意味を理解するのに少し時間が必要だった。
「私はここ以外の世の中を知りません、わがままを許していただけるのなら、私は仕事というものをしたいと思います」
 岩淵は不思議な顔で克子の目をじっと見た。
「仕事といっても私ができる事は限られています」
「何をする」
 銀蔵や勝も興味深く成り行きを静観していた。
「私は小さい時から、将来何かになるのなら、これをやってみたいとずっと思ってきました」
「なんだ」岩淵は再び口を開いた。
「占いで生計《たっき》を立てます」
「占い・・」
 勝にはその答えが実に克子らしいと思った。
 克子が小さい時から繰り返し繰り返し読んできた擦り切れた点字の本を思い出していた。「易経」だ。中国の四書五経の一冊である。克子が諳《そら》んじている事も知っていた。
「私を信じていただけなら、私は貴方に仕えましょう」と克子は言い切った。
「ああ、お前のいいようにしな」と岩淵は言った。
 そこで今現れたとでもいうように銀蔵が、「さて俺がお前たちを添い遂げさせよう・・」とその場をどうにか納めた。
 その晩、宿舎の食堂で岩淵と克子の簡単な祝言を銀蔵が取り持った。その子が昔着たという着物を克子に着せさせ、どこからか調達した羽織袴を岩淵に着けさせ、賭場の客や労務者の見守る中で三々九度の固めの盃を銀蔵が取り仕切った。実に見事な式であった。勝の兄弟妹全員が末席を占めていた。
「かつは綺麗だね」と次女の美智子が涙声で勝に言った。
「ああ、綺麗だ」
 その子が克子に白粉と紅を指し化粧を施していた。
「ねえちぇん、どこかいくのか」何も知らない平助が今にも眠り落ちそうな顔でぼーっと克子の花嫁姿を見ていた。
 初夜の床で岩淵はとんでもないすばらしい女房を手に入れたのを実感した。
「俺は政治家になろうと思う、お前が占いというものをやるのであれば、占ってくれないか」
「はい、あなた」と克子は床に三つ指を突いて頭を傾《かしが》せた。
「先達より貴方に近づいている男と縁を切りなさい、その者の心が金に執着するあまり膿んでいます」
 克子は岩淵の後ろに立つ老女をじっと見ていた。そう話してくれたのはその老女であった。だが、岩淵にはその老女の事は話さなかった。
「あなたの母上はご存命で」と克子は問うた。
「俺の母か、ああ、俺が小さい時に生き別れてしまった」
「生き別れ・・」
 その一言で克子は岩淵の傍を離れずにいる老女が誰なのか納得した。
『お母様、克子は今日から岩淵の妻に成らせて頂きたいと思います』
『願ってもない、そなたのような娘を貰う、こいつこそ果報者だ』
『そんなめっそうもない』
『お前の性根はあいわかっておる、どうかこの馬鹿者を守っておくれ、わしからの願いじゃ』
「かつ、なにをぶつぶつと言っておる」
『せっかくの初夜じゃ、野暮はしない、克子殿頼んだぞ』といい終えると老女はすーっと障子の外へ消え入った。
         *
 あれから幾年《いくとせ》が過ぎ、岩淵道三は与党の中核議員として内閣入りを果たしていた。
 これもすべて克子の占いによるおかげであった。
 今、この大広間を埋め尽くした信者はすべて克子の占いでなんらかの恩恵に預かった者ばかりだ。彼女の占いは一度も彼らの期待を裏切った事はない。誰も彼女の持つ本当の力を知らなかった。
 克子は月に一度信者を集め祈祷会を開催していた。彼らの安寧を祈るという名目を掲げていたが実際は寄付集めを行っていた。岩淵のブレーンの勧めもあり、数年前に組織を宗教法人化した。集めた金の大部分は岩淵の選挙資金や活動に資された。
 克子はそれでいいと思った。自分の能力の一部を使って夫を助ける。こんな恵まれた人生は無いと思ってきた。
 祈祷会が始まってすぐに克子は異様な光景を見た。 
『あ、勝』と勝が兵隊のような恰好をした者達と戦っている場面が一瞬浮かんだ。
 何かあったとすぐに克子は勝の周りで異変が起きたのを感じ取った。
 祈祷会を終えると取る物もとらず、克子は次女の美智子が運転するベンツで川崎へ向った。
「ねえちゃん何かあった」
「勝の身に何か異変が・・」
「勝に・・」
         *
 陽が完全に上がった海原を一隻の巨大なフェリーがゆっくりと切先で波をかき分け進んでいた。激しい銃声が船内全体を覆っていた。
 瞬間、克子の脳裏にその光景が浮かんだ。
 カーラジオからアナウンサーが臨時ニュースを読上げていた。
「本日未明、北海道へ向っていたカーフェリーがシージャックされました。船には核物質が搭載されている事が犯人側から通告されています。船員ならびに乗客が約百名ほどが人質になっている模様・・、繰り返します。本日未明・・」

 作者注:
 文章中に現在では差別用語として扱われる不適切な語を用いた箇所が数箇所あります。作品の趣旨と意図は決して差別としてその語を用いたつもりがない事を断っておきます。これに対してなんらかの不愉快な思いをされる方にこの場をお借りしてお詫び申し上げます。

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