やさぐれ勝の恋 十五
十五
真っ暗な廊下の先にぼんやりとした明りが灯《とも》っている。いくら歩き続けても、手を伸ばしても廊下の先には辿り着けない。
『あや、あや』と懐かしい声が後ろから聞こえた。誰だろう・・女性の声だわ・・
目の前に白い天井が迫っていた。
とっさに自分がどこにいるのか思い出せない。
綾子は船室の二段ベットの上で紺色のスーツのまま仮眠していた。
夢で聞いた声を思い出そうと目覚めてからもしばらく微睡《まどろ》んでいた。
ふと反対側のベットに視線の焦点が合って初めて船室の異変に気が付いた。
慌てて下の段にいるはずの勝を探した。
あ、誰かが通路を歩いて近づく音が聞こえる。それは一人以上だ。部屋の前で止まった。 船室のドアが行き成り開いた。
「@@@《誰もいない》」男の声だった。
綾子はすぐに男の言葉が朝鮮語であることを認識できた。だが意味は解らない。
この時、綾子は不思議な力に導かれた。
ドアが開く前にベッドから飛び降りるとベッドの下に潜り込んだ。
二人分のブーツが確認できた。
しかし、ベッドの僅《わず》かの隙間《すきま》から二人が完全武装した男達である事は気が付かなかった。
AK47を腰に構えたソルジャーは部屋を一度だけ見回し、胸にぶら下げたハンドレシーバーから状況を報告した。
「@@@《部屋には誰もいない》」
レシーバーのスピーカーから無線の相手側の声が流れた。
「@@@《いないはずはない、紺のスーツの若い女がいる、すぐに確保せよ》」
「@@@《了解》」
ブーツが部屋から入口へ向うのを綾子は見ると、ベッドの隙間から少しだけ顔を覗《のぞ》かせた。
戦闘服にヘルメット、腰のベルトには何本もの手榴弾が括《くく》りつけられていた。
『あの声は泉署長・・』
綾子は何かとんでもない事が進行している予感があった。
『勝と三治は・・』綾子はベッドの下から這いずり出ると、船室のドアに耳を押し当てた。
船のエンジンからの振動だけが伝わってくる。
選択は二つしかない、このままじっと部屋に隠れているか、もう一方は勝を探す事。
『勝がいれば・・』という思いが勝った。
部屋のドアをそっと開けた。
照度を落とした明りが真っ直ぐな通路を照らしていた。人影は無い。
『しかし、身を隠す場所がどこにもない』
先ほどのソルジャーに見つかれば、命の危険がある。
「勝・・」と口から綾子は自分でも気が付かないうちに叫んでいた。
Cデッキの勝と范享は倒したソルジャーを仮眠室の大広間に運び、毛布で覆《おお》った。
范享はソルジャーの腰から拳銃を取り上げた。見た記憶がある。享は拳銃には興味がない、それは拳銃が弾丸を発射するために爆音を発するからだ。暗殺者に銃は不要だ。享の記憶に盲目の暗殺者が一人いる。奴は微かな音を捉《とら》え相手の位置を特定する。工事現場の騒音の中で相手の息遣いを聞き分ける。だから銃から爆音を発せば、発射した弾が的確に命中しない限り、己《おのれ》の完全な死が待つだけだ。
68式拳銃・・握ってみて享は確信した。
『俺はこの銃を明けても暮れてもぶっ放し続けた』
「それは北朝鮮の軍用銃だ」勝は商売柄、賭博の借金の肩に拳銃を持ち込む者がいる。銀蔵は拳銃が大嫌いだったから、よく勝に預かっておけなど言いい、自分では決して触れないようにしていた。拳銃など預かったところで、再び金を積んで取り返すような輩《やから》はまずいない。
「北朝鮮」と享は繰り返した。
「ああ、形はソ連のトカレフのコピーだ。だが、どちらかといえばブローニングの系統だ」
「お前は軍人か」
勝の拳銃の薀蓄《うんちく》をして享にそう思わせたのかもしれない。
闇の世界に足を踏み入れた者はその世界で使われる道具を覚えない限り、自らの命を守るのは少し難しいかもしれない。それはお天道様が煌々と照らす表の世界でも学歴や職歴という人間の本来持ってない能力を磨く事で獲得できるすばらしい世界と同じ理由に発している。
「いや違う、極道だ」
「極道、ヤクザ」
「ああそうだ、なんの役にも立たないヤクザだ」
勝はかって人に面と向って、自ら『ヤクザ』と名乗った事はない。
勝は眼前の長髪、紅顔の美青年の向こうに荒波で揺れる海の潮の香を感じ取った。
「俺はいい、お前がこれを持っていれ」
享は人の事を気にしない。
生きようが死のうが興味が無い。
だが目の前にいるジャージ姿の男に興味を持った。ずっと昔から知っていたとさえ思えた。どっしりとした気が流れている。
享の脳裏に『王の気』という言葉が浮かぶ。
その意味する事は思い出せなかったが、大変重要な事柄に思えた。
勝は享から銃を受け取るとさらにソルジャーの胸から銃弾の詰まったカートリッジを取り出した。
「武装した男達、AK-47マシンガン、考えられる事は一つ、この船はテロリストの襲撃を受けた」
勝は綾子の安否が気がかりだった。
「俺は船室へ戻る」と勝はデッキの出入り口へ向った。
「俺も付いて行く」と享は勝に従った。
甲板にいた三治は武装した集団が操舵室を襲うのを目撃した。銃撃戦が起こる予感があったが、物音一つ起きなかった。
三治の怖い物見たさが恐怖心に勝のは訳がなかった。
『よし、何が起きているかこの眼で見てやる』
と勇気を振り絞ると一気に階段を駆け上がった。
操舵室はマシンガンを構えたヘルメット姿の東洋人八名によって占拠されていた。
三治は身体を蓮《はす》に構えそっとガラス越しに様子を伺った。見つかれば一巻の終わりに違いない。
『無線で連絡を取れ』
白髭を立てた船員、三治の知識では、その船員は『宇宙戦艦ヤマトの沖田艦長』その者に思えたのだが、真鍋船長にAK-47を向けていたのは、李克己《いこっき》分隊長だった。隻眼《せきがん》の李隊長は黒革のアイパッチを斜めに掛けていた。頬が扱け顔色がどす黒く、病人のようにも思えた。
『どこに連絡を取るのだ』
椅子にどっしりとした風貌で腰を下ろす『沖田艦長』は瞬《まばた》き一つせず、マシンガンを構えるソルジャーを睨み据え《にらみすえて》ていた。
『日本国政府へだ』
『なにゆえ』
『我々はこの船を占拠した、それだけで充分、政府は理解できる』
『私にはちっともお前たちのやる事が理解できないが』
三治はなんと肝の据わった船員だと舌を巻いていた。
『お前はこの船に何を積んでいるかを知らない』
もちろん三治などカーフェリーぐらいにしか思っていなかったから、すぐ『車』と連想したのだが、さすがに『沖田艦長』は違った。『国家の明暗を分ける積荷を奪取したという意味か』
『そのとうりだ』
三治にはその意味することを理解するのは難しかった。
『なにを要求する』
白髭の船員は残り二人の片方のマイクとヘッドホーンがセットになったものを装着した船員からマイクに似た装置を受け取った。
日本の緊急無線は電波法第52条に規定されている。世界的にはIMO(国際海事機関)の定める海賊行為等に対応する船舶の規定が定まられている。けだし、日本海においては海賊行為による海難事件は稀有に等しい。MSCには海賊及び船舶に対する武装強盗に対応するように次のように定められている。これは日本においても同じような規定として存在する。
『襲撃が発生し、船舶又は乗組員が直ちに援助を要請すべき重大かつ切迫した危険のある状況にあると船長が判断した場合、船長は、直ちに、使用可能な全ての無線通信手段を使用して、適当な遭難警報に引き続き遭難通信を行わせる』とある。-海賊インフォーメーション
真鍋船長は一息入れてから、
『メーデー、メーデー、こちらレインボーまりも、粟島の北西2マイルを北へ航行中、北緯38度48分58、東経139度102分70を航行中、武装した集団に船を占拠、乗組員並びに旅客の人命が危機状態、関係機関の迅速的な対応を要請、メーデー、メーデー、こちらレインボーまりも・・』
三治は身体を低くして操舵室を離れようとした。
丁度その時、船内からマシンガンの銃声が轟いた。思わず首をすぼめたまま三治は尻餅を付いてしまった。
操舵室から無線の音が漏れてきた。
『@@@《Cデッキの部隊が全滅、応援を・・》』と三治はその内容を理解できた。
朝鮮語だ。
三治はいわゆる三国人を両親に持つ、だから朝鮮語を完璧に話せる。
アイパッチの男の声がそれに答えた。
『@@@《Bデッキ、直ちに応援に向かへ》』
と三治は聞き取れた。
相手の反応が無い。
『@@@《Bデッキ応答せよ》』
『@@@《お前とそこの二人、Bデッキへ向かへ》』
三治の横のハッチが行き成り開き、三名のソルジャーが恐ろしい勢いで飛び出して行った。
三治はすぐに階下で何が起こっているのか理解できた。
「勝、兄貴・・」
勝と范享はCデッキの階段室で金龍《キムロン》と三名のソルジャーと遭遇した。
金は日本語が達者だ。
「お前たち、大人しく両手を挙げろ」
もちろん金は一人が極道者で、もう一人の少年のような男が暗殺者《アサシン》を生業《なりわい》にしている者とは知る由もない。
「そこをどいてもらいたい」と勝は金を睨み返した。
「お前はこれが見えないのか」金はこれ見よがしにAK-47を振り回した。
と次の瞬間、その回転が不思議にも止まった。金と勝の間合いは優に3メートルはあった。剣の達人が踏み込んだとしても、二歩以上は必要なはずだ。
しかし、次の瞬間AK-47は空中高く弾かれ、無常にも無意味な方向へその銃弾を発射する羽目になった。
もちろん金は理解できなかった。身体が妙に骨太気味の男が目の前にいる。自分の前にもう一人いたはずの少年の姿が忽然と消えていた。金の後ろから呻き声《うめきごえ》が揚がった。振り向く事はできない、流石に幾度となく死地を掻い潜ってきた金はすぐにアミーナイフを取り出した。まずこの骨太を遣ると思った。がそれはいままで対峙した敵が弱すぎただけと言う事に納得ができなかっただけである。
ナイフを持つ手がとてつもなく恐ろしい力で捻り挙げられた。それを防ぐためにブーツの先で骨太男を蹴り上げようと思った。蹴り上げようとした足にも恐ろしい力が加わった。
身体が急にふわりと空中に持ち上げられた。
ありえない、二メートル近い体躯《たいく》、体重百三十キロもある金をいまだかってこうも軽々と持ち上げた者はいない。
階段室の天井の高さは優に三メールはある。
金は天井が迫るがまま何もできないまま、鋼鉄製の天井に叩きつけられた。そのまま気を失った。
勝の前に享が三人のソルジャーを倒していた。頚部切断。夥しい《おびただしい》血液が床を染め上げていた。『この少年は恐ろしい』と勝は改めて少年をじっと見据えた。
「お前はすごい」と享はあまり見せた事ない笑みを浮かべた。
三治が聞いたのは金のAK-47から発射された弾丸である。そして生き絶え絶えの金がハンドレシーバーからの無線を聞いた訳である。
綾子が杖術《じょうじつ》と出会ったのは、勝から母の出所を聞いてからだ。武道といえば、柔道、空手、剣道と連想しがちだ。綾子も知らなかった。
あまりにも悲しい母の運命を飲み込むためには幼すぎた。何がなんだかわからない、どう生きるとか生きようかなどすら考えられなかった。じっと部屋に一人でいると涙が自然に流れてくる。
そして杖術に出会った。
何もかも忘れる事ができた。
仗術の歴史を紐解けば、明治初年まで闇の中に閉ざされてきた武術、その祖を夢想権之助という。この者、鹿島神流の流祖、松本備前守について鹿島神流の奥義を究め「一の太刀」の極意を授かった。その後、旅を続け各地の剣豪と戦う事幾多、一度も負ける事無く、播州明石にてその当時無敵の二天一流宮本武蔵と合い対峙す。武蔵二天一流の極意である十字留に敗れ、命からがら太宰府天満宮神域に連なる、霊峰宝満山に篭り打倒武蔵を祈願する修練を始める。ある夜夢の中に童子が現れ、御神託を授ける。
「丸木をもって水月を知れ」
権之助は四尺二寸一分、太さ八分の樫木の太刀を武器としてあらゆる武術を統合する技を会得する。そして終に、宮本武蔵と再び合い対峙し、その二天一流の弱点を逆に武蔵に伝授する。その後、武蔵と権之助は生涯の親交を交わし、武蔵は剣を捨てたと言われる。権之助は黒田藩の師範として召抱えられ生涯を終えた。黒田藩は仗術を藩外不出と定めたため、廃藩置県までこの武術が日の目を得なかったのである。
第十三代統領、平野吉三能栄はこう詠んだ。
「疵つけず 人をこらして 戒しむる おしえは杖の外にやはある」
綾子はこれを知った時、心が定まった。
「人をこらして 戒しむる」
『母の思いを私が代わろう、それが私の命を授かったたった一つの理由・・』
高校生の間、綾子は仗術の道場へ通い続けた。数人の師範代がいたが、誰もが綾子の素質に驚嘆した。
「動きにまったく無駄が無い」と一人の師範代がその素質を直ぐに見抜いた。
綾子高校二年の夏、福岡から当時の統領が川崎までやって来た。
作務衣を着た足袋姿の老人は綾子と対峙した。やせ細った身体から想像もできない早い突きを繰り出してきた。綾子は簡単に受ける事ができた。すでに師範代達から学ぶ事が無くなっていた。
「どうして攻めん」としわがれ声で統領が攻撃を止めた。
「突きました」
統領の作務衣が所々穴が開いていた。
誰もが驚いた。
かってこの統領を破った者はいない。
天才と呼ばれ、四十年近くも仗術界に君臨してきた。
統領の眼から涙が溢れた
夏休に綾子は統領と共に北アルプスの山に篭った。
「お主に教える事は既に何も無い」と統領は山伏のような日々を終えるに当たり次のように語った。
「お主の技を恨み事に使うならば、永久に破門しよう」
「ただし我一門の正統な継承者はお前以外にない、今晩、満月、あの丘の上で俺は篝火を焚いて、お前に奥義を伝授する」
綾子は一糸身に纏わない全裸で丘に向った。
もちろん仗術の太刀さえ身に着けなかった。
統領は煌々と篝火の中に、同じように一糸身に纏わない姿で待ち受けていた。
「生きるとは」統領は大声で叫んだ。
綾子には解っていた。
答えなど無い。
人は生まれ死ね。
そしていつもちょっとした事で悩み、迷う。
羞恥心など動物にはない。
そもそも人間も動物に代わりはない。
『生きるとは迷える心を定める事』と叫びたかった。仗術と出会う前の自分がそうであったように。
「我心に従う事」と綾子は叫んだ。
「眼を瞑《つぶ》れ」
綾子は眼をしっかりと閉じた。
「何が見える」
暗黒を感じた。
夜の帳《とばり》、満点の星々、篝火。
確かあったはずだ。だが、眼から光が失われた時、その姿を全て失い果てた。
「何も見えません」
突然突風が身体を通り抜けていった。
「これではどうだ」
『あ』と綾子は横を統領がすり抜けた感覚があった。
「今、お主は死んだも同然だった」
「いい直そう、何を感じた」
そうか、身体が感じる事・・
『勝が言っていた。目は口ほど物を言う、だがもっと不思議なのは人がどういう状態か身体から全て知る事ができる・・』
急に篝火の向こうに息遣いを感じた。
耳で聞く事ができない微かなものだ。
「篝火の前に統領が立っています」
年老いた統領は愛弟子の能力に満足した笑みを浮かべた。
まったく無音で統領は篝火の台に仕込んでいた鋭利な刃物を愛弟子目掛けて投げ放った。
真っ暗な闇、空気を凛とした緊張した何かが綾子に向っていた。その先にいる統領の動きを感じた。額すれすれまで近づいた物体を綾子は首を横に僅かに避けることでかわした。
綾子は空中に飛翔した。殺到した統領は空しく仗術の太刀を空振りした。
見事と言う他に言葉が無かった。
師匠を超える弟子が現れた時、師匠は引退する。それが武門の掟だ。
「いたぞ」
Bデッキの階段室を降りかけた綾子は後ろを振り返った。なぜ気が付かなかったのか、不思議だった。あの『あや、あや』と夢で聞いた声を必死に思い出そうとしていた。自分が今窮地にいる事さえ忘れていた。マシンガンを背に背負ったソルジャーが近づいてきた。
綾子はスカートのベルトの後ろに伸縮式の警棒を入れたホルダーを下げていた。最小が20cm、伸ばして50cmの長さの警棒である。ソルジャーは女ということで侮《あなど》った。AK-47で威嚇《いかく》すべきであった。ソルジャーの一人が手錠を取り出した。女は直《すなお》に両手を出したように見えた。だが、両手には短い黒いスチールの捧が握られていた。
ジャキーンと金属の音が階段室に鳴り響いた。それは綾子の両手に握られた伸縮式の警棒を伸ばす音であった。
手錠を持った男の頚部に目に止まらない速さで警棒が打ち下ろされた。階段を降りかけていた残り三名のソルジャーは女の動きを目で捉えるのがやっとだった。首に警棒を入れたソルジャーの背を蹴って、女が階段の下から飛び上がってきた。二人のソルジャーは眼に警棒を振り落とされた。眼球から内包した液体が飛び散った。残った一人は階段に腰を付いた。目の前に女が立っていた。
ソルジャーは頚椎に途轍《とてつ》もなく重たい一撃を受けた。
薄れ行く意識の中で確かに聞き取った。
「戦う事でしかわからない」
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