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2007年11月25日 (日)

やさぐれ勝の恋 十

      十

 藤本巌《ふじもといわお》はこの組を継いで間もなかった。前の組長が脳梗塞で倒れ、実質組を仕切っていた藤本が跡目と目されていた。しかし、組長の嫡男《あとつぎ》がいた。もちろんその女房の姐《あね》さんが目を光らせてもいた。元々、藤本は組の存亡などに興味のある男で無かった。今日まで生きてきたことさえ奇跡、と自分で思える人生を歩んできた。
 そんな時に一本の電話が入った。
『あんたが組ついだらいいじゃないか』と酔った姐さんからだった。
『今からあんたのやさへ行くから』と電話が切れた。姐さんの性欲が凄い事は若衆から聞いていた。この世界に生きるものとして藤本とて嫌いではない、
『旨いもん食って、いい女を抱く』これこそが極道の道と思った事さえある。
 姐さんは組長の後妻である。どこかの島のクラブのママだったと聞く。どういう過程で本妻を蹴落として組長の下《もと》に下ったかは不明だが、まだ四十を超えたばかりだった。
 藤本の般若を中心とした彫り物の背中を見て姐さんはこう言った、
「般若に観音様とはぴったりだね」
 姐さんの背中には観音様の周りを龍がとぐろを巻く彫り物があった。
 藤本のやさで姐さんはベッドに組み敷かれて追い討ちを掛けるようにこう言った。
「あんたと私でこの世界を〆てやる」
 藤本は姐さんの欲望の深さに驚いた。
『姐さんが組長になれば』と思ったが流石に口には出さなかった。
 根回しと対外外交を姐さんが仕切って、藤本は後釜に納まった。
 もちろん藤本にも女は何人かいた。
 どいうわけか姐さんは全部自分の家に住まわせるように藤本に命じた。
 世話をしている若衆から教えられた。
「姐さんは女も食います」
 なるほどと思った。確かにとんでもない性欲があった。
 千葉でちょっとした揉め事があって、藤本は話《な》しを付けに出ていた。その場を何とか治め、工事中の湾岸道路を黒のベンツの中に居た。その当時まだ珍しい、車載電話がコールされた。
「頭、本部の代行です」
 運転していた若衆から受話器を受け取った。
「川崎の西岡が弾かれました」
『また面倒な・・』と藤本は一瞬思った。
「どこの奴だ・・」
「それがどうも西の奴等らしいと事務所では言っているらしいですが、あの島の銀蔵一家という博徒をご存知で」
 藤本は受話器をぎゅっと握り締めた。
 予感めいたものを感じた。
「その博徒一家にいる勝を見たというんです」
『やっぱり』と藤本は思った。
 藤本がこの世の中で怖い物は無い、と生きてきた。藤本がその怪物を一目見た時、こんな生物があるはずはないと感じたほどの男が存在していた。
 身長は六尺ぐらいだろう、顔を見ようによっては何か親しみやすい感じがするぐらいだ。
 ただ何か得たいの知れない威圧感があった。
 拳が異常に大きかった。拳の大きさはそのまま心臓の大きさを現す。
 いくつか勝に関する伝説を聞いていた。
 暴走族相手に喧嘩をした。
 相手の排気量が強大なバイクを止めただけではなく、両手に二台のバイクのハンドルを持って振り回した・・
 人間が百キロを超える重量のある物を片手で持って回す・・
 警察が駆けつけた時には全員がアスファルトに伸びていたと聞いた。
『川崎か・・』と藤本は思った。
 確かあそこのどこかの警察署長の悪知恵で川崎の博徒を府中へ送った覚えがある。
『けじめを付けるか』
 藤本は再び車載電話を取ると胸ポケットから手帳を取り出し、アドレス帖を開き電話番号を確かめるとプッシュ式のボタンで電話を掛けた。
 呼び出し音が続いたが、相手の電話は繋がらず、乾いた男の声の留守番電話の案内が流れた。
『只今、留守にしております。発信の音、伝言をお入れください・・』
「藤本だ、本家に来てくれ、何時でも待っている」

 新宿の裏通りに酷《ひど》くよれよのトレンチを着た長髪の若男がビール瓶を入れるプラスチックのケースに俯き加減に座っていた。一見、酔客が休憩しているようにも見える。しかし顔立ちといい、その中に輝いた眼《まなこ》に湛えられた光は決して尋常なものではなかった。誰もその男が殺気を一切発しないように細心の注意を払っている事には気が付かない。
 たまたま通り掛ったサラリーマン風の二人組みがその若者を恰好の獲物として勘違いした。
「おいここに便所があったぞ」
「おお」
 と二人組みは股間から男性自身を取り出した。たぶん尿意が限界に来ていたのかもしれない。酩酊しているとはいえ空間に放り出された肉体の一部は経験したことのない冷たさを感じた。
「あっ」と二人は同時に叫んでいた。
 夜目にもギラギラと輝いた鋭利な刃物がそれにいつの間にか当てられていた。
「動くな」
 とても低い声音《こわね》だった。
 若者の両手には刃渡り二尺もある刃物が握られていた。
 いつどこからそれが抜かれたのか、二人の目には捉えることができなかった。
 男達はきりきりとする酷い痛みを感じた。明らかに刃物はじっと一点に刃が当てられていた。しかし彼らの一物は恐怖のために徐々に萎縮《いしゅく》した。細く赤い線がゆっくりと引かれていく。
「ひぃ」と一人の男がアスファルトに崩れ落ちた。それに続きもう一人が尻餅をついた。
 コートの若者は男達の頭上を飛翔した。
 不夜城と言われる新宿ゴールデン街。
 深夜になっても道路を埋め尽くす人々の群れ、その間を真っ直ぐに歩く事は難しい。必ず避《よ》けながら歩く必要がある。しかし、路地から飛び出たコートの若者のステップは社交ダンスをしているかのように緩急を含んみ、ただ只管《ひたすら》真っ直ぐに歩いていた。
 その筋の者が見たら、その歩みが中国武術の達人のみが会得《えとく》出来ると言われる技の一つであることがわかるかもしれない。
 若者が溢れた深夜のコンビニエンスストアーで若者は牛乳パックを買った。昼間のように明るい店内の中で若者の顔立ちがはっきりと白日に晒《さら》された。
 目鼻立ちがはっきりした精悍な表情はどこか憂いを含んでいた。長髪が表情を隠していたが、店内でレジ待ちをしていた少女達は若者に釘付けになっていた。
 銀幕でしかお目にかかれない映画スターが空間を占めていると思えた。
 どの少女も生唾を飲み込むことさえ忘れ、貪るように若者を眺める。
 悪びれた感じの少女が声を掛ける。
「あんたこれから暇かい」
 若者は俯《うつ》いたままクスリと笑みを浮かべる。答える事無く、若者は清算を終えると店内を出る。何人かの少女がぞろぞろと後に従う。残念ながら少女達の誰も若者に付いて行く事はできない。道路を埋めた人垣が彼女達の行手を阻《はば》む。若者はその人垣を通り抜けているとしか考えられなかった。
 少女達は駆け出した。しかし若者の姿はどこにも見出せなかった。
 ひたひたと冷たい雨の滴る軒下に黒猫がひっそりと蹲《うずくま》っていた。
 黒猫がうっすらと瞼を開けると若者が立っていた。
「生きていたか」と若者は黒猫の横に置かれていた変形したアルミの皿へ牛乳パックから牛乳を注《そそ》ぎ入れた。立つのがやっというふうに黒猫は皿にそろそろと近づくと舌でちろちろと休み無く飲み始めた。若者は残りの牛乳を自らの喉《のど》に流し込んだ。
 次の瞬間、若者の身体がふわりと浮かび上がった。その上に若者のやさがあった。下はもう畳《たた》んだ鉄工場がある。
 部屋の明りが点いていた。
「りょう」と留美が部屋に既に戻っていた。
 二人は会うべきして出会った。
 冷たい国から留美は遣って来た。
 暗く何も無い世界、生まれた時からじっと息を潜《ひそ》め、耐《た》えることでしか生きられなかった。留美は二親を知らない。
 気がついた時には施設の中で毎日いじめの嵐の中で育った。誰も守ってくれる者など無かった。より強い者が弱いものを遣る。それが人間の宿命なのだと小さい留美は思った。だから誰の命令にも従った。全身をみみず腫が走るような拷問があった。頭から冷水を掛け続けられた。少女になると施設の大人から性的ないたずらを常に受け続けた。
 ある日、留美は施設から逃げた。
 外の世界をまったく知らなかった。
 興味があった。
 走り続けた。夜明けの海岸に辿り着いた。
 そこにもう一人辿り着いた者がいた。
 波際に人間が倒れていた。
 留美は全裸でその男を暖め続けた。
 男は青ざめていたが心臓が鼓動を打ち続けていた。
 やっと朝陽が昇った時、留美は男の腕の中にあった。目覚めた男が留美を起こした。
 名前を范享《はんりょう》とだけ言った。
 それ以外は何も覚えていないとも言った。
 男の両腿《りょうもも》に短剣を入れた鞘《さや》がバンドでしっかりと結わえられていた。
 二人は町へ出た。ネオンに誘われるように繁華街に足を踏み入れた。飢えていた。何かを食べなければならなかった。
 地回りが二人をやさぐれと取り違えた。
『おまえら、付いてきな』
 二人は言われるまま中年の男に従い、飲食店が雑居するビルに連れ込まれた。
『これを着な』と男は留美に下着のような服を差し出した。
『お前はこれだ』とスーツを差し出した。
 そこで留美は風俗の仕事を与えられた。
 享は黒服として働き出した。
 ある日、極道が留美の店で暴れた。
 敵対する組の若衆だった。
 留美の叫び声を聞いた時、享は部屋へ殺到した。両手にはすでに刃渡り二尺の剣-それが青龍刀であることは当時あまり知られていなかった。
 留美は享がまるで鳥のように舞う姿を見た。
 とても綺麗だと思った。
 留美を組み敷いていた全身に彫り物を入れた男の首から噴出した血しぶきが部屋を真っ赤に染め上げた。その若衆と一緒に遣ってきていた三人の男達が部屋に駆け込んできた。享は天井まで飛び上がるとそのまま男達目掛けて舞い降りた。そして次の瞬間には二人の男の首筋を断ち切っていた。残された男がドアから逃げようとした。それは不可能だった。享は壁を横に走るとやはり同じように男の背中に深々と刃物を差し込んだ。男の口から凄い勢いで血を含んだ嘔吐物がドアに噴出された。
 後始末にその風俗店を経営していた組の幹部が遣ってきた。部屋の惨状に驚いた。人間がやった仕事とは思えなかった。
 若い男が立っていた。その男に縋り付く様に全裸の女がいた。
『お前がやったのか』とだけ遣ってきた男は言った。若者が只者ではない事がすぐわかった。本家へ連絡を入れようと思った。ただの気まぐれではない。男はその若者が刺客として生きてきた者ということを見抜いた。
 店を任せていた店長から来る前に話を聞いていた。
『名前以外、一切記憶がないそうです。奴は中国人です。しかし、日本語も完璧に話します・・』
 留美は享と共に東京へ出てきた。
 相変わらず留美は風俗店で働いていた。
 だが毎日享と一緒に入られる。
 それだけで十分仕合せだった。
 享に毎晩抱かれて眠る。
 享とは一度も性交はしたことがない。
 留美の喜びは享の温もりだけなのだ。一度、享に性交を教えようと思った。留美がしたかった。だが、享は軽く留美の頭を叩くと全裸になって剣が縛り付けられた両腿を顕《あらわ》にした。
『禁じられている』と享は言った。
 それからいつも留美は享を全裸にすると自分も同じように全裸になって抱きつく、それだけで世の中の全てを忘れて眠る事ができた。
「享、本家から来るようにて」と留美は留守番電話の件を伝えた。
 確かに部屋に享が入って来た。
 留美は振り返るとそこには享の姿形が無くなっていた。

 藤本巌は予感があった。
 たぶん奴は部屋に既にいるだろう・・
 こんなに厳重に警備された本家の建物に容易《たやす》く忍込める者は享以外にはいない。赤外線による警報システム、テレビカメラであらゆる角度が見張られていた。
 組長室のドアノブを回し藤本は部屋の明りを点ける為にスイッチを入れた。部屋の中央の応接椅子にコート姿の若者が座っていた。
 藤本はある恐怖を禁じえない。
 この世の中には触れてはならない幾つかの物がある。
「来ていたか」とだけ藤本は言うと享の向かいに座るとマルボロを一本取り出し火を点けた。
「西の者を一人やる」と藤本は言うと、書棚からターゲットの組長の顔写真と住所の記載がある名簿を取り出した。
 藤本は既に誰をやるか腹を決めていた。
 たぶん享に依頼すれば、西のトップすら訳がないだろう、しかし、それではバランスが一挙に崩れる。この世界で生きてきた者として急激な変化は望まない。警察もそうだろう。西岡組長と貫目が釣り合う者をやる・・
 手提げ金庫のダイヤルを回し、中から二つ札束を取り出した。
「半分は始末を確認してからだ」と応接テーブルに札束を載せた。
 享は札束を鷲づかみにするとコートの胸ポケットに納め、そのままベランダから雨脚が強くなった外へ出て行った。
 ベランダはそのまま開け放たれていた。
 静かさの中に雨の音が響く。
 残された藤本はふとこん事を思った。
「奴と勝を咬み合せたら、どちらが勝つだろうか」

作者注:
 幾つか青少年に与える影響のある過激な表現があります。このため原文の一部を落としましたが作品の雰囲気を最低限残す部分を掲載いたしました。ご了解ください。

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2007年11月17日 (土)

やさぐれ勝の恋 九

      九

 光と影、街を行く車の放つヘッドライトがネオン渦巻くイルミネーションの中に消えようとしていた。どうして人間というものはこの明りに誘われ短い時間を費やすのだろう・・過去の記憶がフロントガラスに浮かんでは消えて行った。綾子の中でそれはネオンと共にフラッシュバックしていた。
「その答えは絶対に発見できない・・というアイロニーですね」と綾子は泉署長に答えた。
「なかなかやるね」とまだ身体のどこかしこが痛みに時々襲われるらしい泉は不思議そうな顔でルームミラーに写っていた。
「僕たちの向う先・・」泉は一度、生唾をごくりとやった。
「君はその真実というやつを知りたい、そして、僕はこの世界とおさらばしたい・・そのためにはこの心に押し込めたすべてを解放する時・・が遣って来たようだ、さすがにこれを胸に仕舞ったまま、この世界からはお暇《いとま》できないだろうしね」
 また雨がポタポタと遣り始めた。間欠ワイパーから連続にスイッチを切り替えた三治は綾子に問うた。
「お嬢さん、どこへ向います」
「できるなら・・」と泉は勝を改めて眺めた。
「こんな事を言える立場にはない、それはよくわかります。だがこの世に遣り残した・・二つの事があります」
 勝は泉の目の中に名状しがたい叫びを感じ取っていた。
「話してみな」と勝は泉に返した。
「函館へ行きたい」と言うなり泉は急に嗚咽《おえつ》し始めた。
「何度も帰ろうと思った。私の人生の始まり、すべては其処から生じた」
「じっと怯えてきた。たとえば・・」一度泉はしっかりと瞼《まぶた》を閉じてからかっと見開いた。
「同じクラスに嫌いな奴がいるとする。そいつは自分の席の左側にいる。そのため、視線は常に左側を見ないようにする。するとどうだろう、左側に何か恐怖が潜んでいる感覚が生まれる。ちょっとした物音が左側から聞こえるだけで飛び上がってしまう・・自分自身で創り上げてしまった恐怖。それが『函館』にある」
 綾子はルームミラーに写る泉署長の苦悶の表情を読み取ろうとしていた。
「とてもそこまで辿り着けない・・」綾子はそう言うとふとあることに思い当たる。
「なぜ、函館なの・・」
「ほんとうに君は懸命だ。実は僕自身、事件について真実を知らないのだ」
 綾子には泉が何を言っているのか判らなかった。
『真実・・』
「たぶん僕が犯人である推測が成り立つ、しかし、それはそこに僕がいたという事、そして、僕は確かに美沙の子供を振り回して玄関に投げた覚えがある・・」
「しかし、その後の記憶がはっきりとしない」
 綾子は祖父が残した黒革の手帳を残らず暗記していた。何度も繰り返しそれを読んだ。祖父の目撃した若者は泉のはずだ。亡き母もそう考えたに違いない。
 だが、その若者のはずの泉から直接に聞いた内容には『たぶん僕が犯人である推測が成り立つ・・』とはどういう意味。
 勝は泉に対して真剣にそして憤りともにこう言った。
「お前が遣ってはいないんだ。ただ怖くて逃げた、逃げて逃げて逃げ回って生きてきた、と言うことだな」
『ああ』と嗚咽と共に泉は泣き崩れた。
「僕は・・犯人を捕まえるために・・警官を目指した、そして一生懸命、勉強したんだ。一日だって忘れた事はない、あの日の真実を暴きたい」
 綾子は呆然としていた。
『この男は何を言っているの・・』
 泉は急にこんな事を言い出した。
「兎に角、ここから北へ向かわなくてはならない・・非常警戒が幹線道路に引かれる。そうなっては身動きできなくなる」
 確かに泉署長の言うことに一理あった。
 もし、泉が西岡組長殺害で逮捕されたらとしたら、過去の罪状など泉が告白する事は永遠に訪れない危惧《きぐ》がある。
 こんな人数でどうやったら函館に辿り着けるというの・・
 泉は自分が警察署長であった事に気が付いた、それからは的確な指示を出し始めた。川崎駅西口でジャガーを捨てた一行は最終の立川行きの国鉄南部線に乗り換えた。
 妙な一行だった。
 妙齢の婦警と警察署長、パンチパーマに赤いジャンバーの三治、雪駄履きに黒の着流しを着た勝。まったく可笑しな一行だ。
 酔客でごった換えした車内は誰も勝と三治とは目を合わせなかった。その二人に守られるように乗り込んだ泉と綾子。
 確かに乗客は狭い空間にその一行と隙間を開けるためにさらに狭い空間に押し込まれていた。
 川崎駅から何番目かの駅で一行は下車した。そこから徒歩で署長の家へ向った。
 駅前のコンビニエンスストアーでビニール傘を買う必要があった。
 雨が降り続けていた。
「本降りになっちまった」と三治はテラテラと駅前の明りに反射するビニール傘を差した。
「服装を変える」
 たぶん逃亡者がよくやる服装の交換を誰もが想像した。泉は南部線沿いにある署長の自宅に全員を案内した。
 誰もがその平屋の家屋の質素さに驚いた。
「寝に帰るだけだ」と泉は言うと苦笑いした。
 泉は家屋に隣接した車庫を開け、黒のセダンのエンジンに火を入れた。
「幸いここには二人本物の警官がいる。この事は非常に有利だ」
 綾子は泉の真意を推し量っていた。
「これから僕たちは犯人を函館まで護送する担当者と犯人の役を演じる」
「警察手帳が物をいうのね」と綾子は自らの職業を最大限に生かせる逃亡方法について泉署長の聡明さに驚いていた。
「犯人は?」と三治が言うや誰もが勝ほど適任者はいないことに頷いていた。
「俺しかいないだろう」と勝はそっけなく答えた。
 アスファルトを濡らす漆黒と悲しい光がどこか凍てついた悪寒を綾子は禁じ得なかった。
『どこかが違う・・ずっと憎しみだけでここまで生きてきた・・どうしたことだろう、この男の闇は益々深くなる一方』
 さらに冷たい雨が激しくなっていた。

 西岡組事務所に残った隆二はこういう筋立てに決めた。
 敵対する組の襲撃があった。そしてその一行が泉署長を浚《さら》った。綾子と勝の事は一切出さない。事務所に残った若衆にこう言いくるめた。
「組長をやったものが逃げた。お前たちはこれから一切口を噤《つぐ》め、それが盃を貰う条件だ」
 暗黒街の掟など持ち出さなくても、こいつ等が行くところなど無い。
「へい」と直《すなお》に奴等は頷《うなず》いた。
 救急車が呼ばれた。既に西岡組長はこと切れていた。パトカーが到着する前に隆二は救急車に同乗して組事務所を脱出した。
 奴等が口を割るのは時間の問題、兎に角、矢面《やおもて》に立たない事だ。本家から連絡が入るだろう、『組長の傍に付いていた』それだけで充分な言い訳が立つだろうと隆二は考えた。仮にも関東を中心とする組である。まして神奈川最大の川崎を〆ていた組長が射殺されたのだ。間違いなく報復が成される。理由《いいわけ》や犯人《ほし》などまったく必要がない。早朝にはヒットマンが神戸のどこかの組事務所に鉛の熱い弾をぶち込む。西岡組長と釣り合うだけの貫目の組長が襲われる。そして、どこかの有力な任侠団体の組長からの休戦の話《な》しが来る。そしてどういうわけか手打ちの儀式が取り持たれ、少々縄張りの切り張《ば》りが変わる。後の残された隆二達は西岡組長亡き後の後継者争いに巻き込まれる。この辺りはまったくのお決まりの筋書きだ。だが、隆二はこう考えていた。『こんなチャンスはない、俺が西岡組を継承しようじゃないか』
 今夜、隆二は西岡組長に破門を言い渡してもらうつもりだった。それが、どいう具合か向こうからこっちへ転がり込みやがった。
『まず、頭《かしら》を病院に呼びつけようじゃないか・・』
 隆二は西岡組長の冷たくなった手を握力の限り握り締めた。『冷たいぜ・・』

 警視庁捜査一課特殊班のチーフ本村恒孝警部補の携帯が鳴り響いたのは深夜二時を回っていた。御前様でやっとの思いで実家の二階のベッドに転がり着いていた。黒のずぶ濡れのコートを椅子に投げ捨てて、倒れこむように横になっていた。
「この野郎」率直な思いだった。
 携帯からこう聞こえてきた。
「本村警部補、川崎の○○署の署長が誘拐されました。犯人は川崎西岡組組長を射殺して、現在逃走中です。緊急招集です」
『ああそうかい、どこかの署長が極道との逢引中にその組長が射殺されて誘拐された、自業自得《じごうじとく》』と思ったが流石《さすが》に口には出さなかった。
「は、了解しました。直ちに本庁へ向います」
と言ったのはよいが、とても宿酔いで身動きが取れなかった。
『馬鹿野郎・・』と思ったが、本村はずぶ濡れのコートをやっと身に着けた。
 部屋のドアが開いていた。母親が立っていた。
「こうちゃん、タクシー呼ぼうか」
 本村の父親も警官だった。既に退職している。市井で一巡査を三十以上勤め上げた。本村は今年本庁に上級職で採用された。父と同じ道を歩まない。そうずっと思い続けて生きてきた。だから、東京大学に入った。キャリアになって父を超える、それが夢だった。しかし、実際入庁してから、本村は荒れ捲くっていた。
『こんな組織いつか必ずぶっ壊してやる』という思いだった。
「かあさん、タクシー呼んでくれ」
 タクシーが到着して、階下に下りると、玄関に寝巻き姿の父親が待っていた。
「こう、頼んだぞ」
 死ぬまで警官を辞めない父親に取って本村こそ自分の生きた証《あかし》なのだ。邪険にはできない。本村は敬礼をすると、
「は、本村警部補本庁へ向います」と答えた。
 幼い頃から父親の真似をして育った。
 初登庁の日、所属長から『本村君の敬礼は堂にいっている』と言われた。
『当たり前だ、生まれた時から、本物の警官に教えられてきたんだ』とその時、いつも交番の前で警邏捧を支えに立っている父親の姿が浮かんだ。雨の日も風の日も、彼は立っていた。何度も通学の途中でその姿を目撃した。しかし、一度も本村は面と向って声を掛けたことは無い。何かとても神々しい姿だった。『市井を支える警官の存在があることを組織の幹部は何も考えていない・・』
『悪い奴等は根こそぎ遣っ付けてやる』が本村の身上だった。
 タクシーは全てを流してしまうような勢いの雨の中を駆け抜けていった。
 ぼんやりした光の渦がどこか疎らな暗闇と入れ違いに本村の目に飛び込んでくる。
 タクシーのラジオから、
「今夕、川崎市内の西岡組組長が射殺され、現在川崎市内に警視庁が警戒態勢をしいています」と流れた。
『俺が全部遣っ付けてやる』と本村は独り言を言った。

作者注:
本村警部補は「恋愛小説依存症候群」に登場する本村警視正と同一人物です。
この「やさぐれ勝の恋」はその前の物語になります。

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2007年11月 8日 (木)

やさぐれ勝の恋 八

      八

 その夜、西岡組組事務所当番担当の若衆三人は組長室からの銃声を聞きつけ駆け出そうとした矢先、その音を超える激しい音で一瞬金縛りになった。
 玄関の擦りガラスが入った格子戸にダンプカーが飛び込んだ・・と思った。
 振り返った三人はそこに巨大な熊が仁王立ちで立っていると錯覚した。
『うぉ』と確かにそう聞こえた。
 次の瞬間、その人の形をした鬼の形相の生き物が三人の横を眼にも留まらぬ勢いで駆け抜けていった。
 誰も動けなかった。
『この世の物ではない、もののけ・・』
 勝は脳で嗅いでいた。そこに勝の命より大切な者の放つ気を感じ取っていた。それは今まで感じたどの憎しみより激しい嘆きを伴うものだ。
 ほんの数分前に組長室でこんな遣り取りがあった。
 それまで怯えきっていた泉が下を向いたまま急に笑い出した。
「くくく、僕はあの夏の日、とても愉快だった」
 綾子と西岡組長は泉署長の急変に気が狂ったと思った。
「僕の獲物・・君のおじいちゃんがじゃまをしたんだね、あの女もそして子供、僕が飼っていたんだ」
「あの夏、警官が家に遣って来た。下着泥棒の捜査で、でもそれは美沙にさせた狂言だったんだ。警官は美沙の誘いに家に上がってお茶を飲んだ。僕は前から奴が気に食わなかった。そうさ奴は僕を駅前で辱《はずかし》めた。不良連中を使ってかつ挙げをさせていたんだ。そこに聖人顔の奴が現れた。不良連中は逃げたけど、僕は逃げ遅れちまった。道端で僕の詰襟《つめえり》をぎゅぎゅと締め付けやがった」
「くくく」泉は両手で口を押さえ笑いを堪える仕草をした。
「美沙にこう教え込んだ。奴に犯されろ・・」
「くくく」
「警官は・・」
「いい加減にしろや」
 耐えかねた西岡が口を開いた。
 泉はいきなり背広の内側のホルスターからS&Wのリボルバーを取り出すとなんの躊躇《ちゅうちょ》も無く西岡組長を弾《はじ》いた。
 実に滑らかな動作だった。
「塵虫《ごみむし》は黙っていろ」
「お嬢ちゃん、そんなおもちゃで遊んじゃいけないよ」
 眼の前にいる泉署長は別人のように笑みを浮かべていた。
 隆二は銃声と共にドアに肩から飛び込んだ。しかし、簡単に隆二は跳ね返され廊下に転げ落ちた。組長室のドアは襲撃に備え、中に鋼鉄の鉄板が仕込まれていた。通常弾ではビクともしない頑丈な造りだ。さらに内側からしっかり施錠されていた。隆二は立ち上がろうとした矢先、何かとんでもない気配を感じた。
隆二の天性の獣性がそれを感じさせた。その矢先、事も無げに何者かがドアを破壊して組長室に飛び込んだ。
「兄貴・・」
 勝は虎の水墨画をあしらった屏風を蹴倒して部屋に飛び込んだ。
 部屋に背広姿の男と綾子がいた。
『やはり綾子だ』と勝は脳で感じた気配が正しかったことを改めて知った。
 泉は飛び込んできた男を西岡組の者と判断した。
「お前、この女がどうなるかわかるか」
 泉は綾子が携行してきたベレッタM92を取り上げていた。両手で拳銃を弄遊《もてあそ》んでいた、引き金に入れられた人差し指を中心にぐるぐると回っていた。
「チンピラが・・」
 綾子は思わず声を上げそうになった。
 目の前に居る筈のない男が仁王立ちでいた。
「ほう、お前の知り合いか・・」
 勝は背広の男が普通ではないことを覚った。
 顔が妙ににやけている。
『うぉ』と泉は確かに聞こえた。
 次の瞬間、まさかが起きた。
 数メートル離れていた男が泉の両腕を押さえつけていた。何が起きたのか理解できなかった。身体が裂けるような酷い激痛が全身を走った。骨がメキメキと砕ける音がした。身体が熊のような男によって高く持ち上げられていた。
「勝やめて、この人は警察署長よ」
 綾子はなぜ止めたのか自分でも判らなかった。
 勝は綾子の声でこの世に戻ってきた。
 綾子が止めなければ、泉署長の身体は半分に裂けていたかも知れない。
 勝は泉署長をペルシャ絨毯に放り投げた。
 華奢《きゃしゃ》な身体をした泉は絨毯の上で激痛で悶えていた。背骨がバラバラになった感覚があった。息をするのでさえ困難だった。
 ドアが押し倒された組長室の入口で隆二は勝が管轄署の署長泉を持ち上げているのを目撃した。
 横に綾子が立ち竦《すく》んでいた。
 そして、応接のソファに西岡組長の遺体があった。
「あや」と隆二は組長室に駆け込んだ。
 綾子はそこに隆二がいることに不思議な驚きがあった。
「隆二・・」
 ある意味不可解な偶然が積み重なり、その場は、綾子を中心とする運命の糸車に巻き取られた人間模様に彩られていた。
 遠くからパトーカーのサイレンが聞こえてきた。綾子は二つの選択肢に迫られていた。この状況で泉を司直《しちょく》の手に委ねる。『だめ・・』と綾子は考えた。泉は例え西岡組長の殺害を自白したとしても、正当防衛を主張すればそれが通る恐れがあった。彼は仮にも警察のキャリアなのだ。この場にいる証人の誰にその証明ができようと綾子は勝、そして隆二の顔をため息混じりに眺めた。彼らが悪い訳ではない、一人は博徒一家の強力、片割れは極道なのだ。まず泉の証言が通る。そういう世界だ。
 もう一つの選択、泉を浚《さら》い、真実を聞き出す。そうしなければ、綾子の気が修まらない・・お母さんもそしておじいちゃん・・泉から聞きだすチャンスは永久に来ない。綾子、勝、そして隆二も闇に葬られる可能性がある。
「隆二、この場を任せる。そして勝、私達をどこか安全な場所へ連れて行って・・」
「綾子、それはどういう意味だ」勝が呆然自失した表情で綾子に問うた。
「ふふ」と絨毯でのた打ち回る泉から聞こえてきた。泉は仰向けで綾子に微笑んでさえいた。
「僕が知っている」
「君の望むようにしよう、そこの大男、この女の言う通りにしなさい」と泉は今までの苦痛が嘘のようにすくっと立ち上がった。
 綾子は何か背筋を冷たい物がすーっと通り過ぎたのを感じた。
 隆二は色々な男を見てきた。勝もその中の一人だ。恐ろしく頑丈な身体の持ち主だ。だが、至ってシンプルな性格を持っている。どうだろうそこに立っている、一人の男、いまだ過って知らぬタイプ・・蛇のような滑《ぬめ》りを禁じえない、心の底から得たいの知れない悪寒が身体全体を襲う。
 隆二は綾子の暴走を止めるべきと思った。
 これ以上はとんでもない事が起きる。もうすでにとんでもないことが起きているには違いない、しかし、これ以上の傷口を広げる必要はない・・
「あや、この男を警察に突き出そう」それが隆二の答えだ。隆二は綾子の事情を知る者ではない。
「隆二・・」と勝はじっと隆二を睨みすえた。
勝の腹は定まった。俺は真由美に約束した。綾子を守ると・・それは勝のたった一つの嘘を守る事でもあった。
『勝、あやをお願い・・』今わの際の真由美の願い、そう綾子はこのために生まれてしまった・・と勝は改めて我心を静めた。
「隆二、綾子の言う通りにしてくれ」
 隆二は勝の顔を穴の開くほど眺めた。
 綾子の瞳に薄っすらと涙が浮かんでいた。
 隆二の与《あずか》り知らぬ勝と綾子の心の機微を隆二は感じ取った。隆二は返事もせずに絨毯に転がり落ちた二挺の拳銃を拾おうとした。
「お前、それを触っちゃいけない、お前の指紋がつく、ほんとお頭《つむ》が悪いな」泉だ。拳銃に伸びかけた手を隆二は引っ込めた。確かに泉署長の言う通りだ。今、拳銃には泉の指紋がべったり付いている。状況証拠から言ってもそれは重要な点だ。それを自ら守ろうと泉はした。その不自然さにその場にいた全員が改めて不気味な笑みを湛《あたた》えた泉の不敵さに尋常でないものを感じた。
 壊れたドアの向こうに腰の引けた事務所当番の若衆が恐る恐る聞き耳を立てていた。
 サイレンがさらに近づいていた。
「綾子、出る」勝の決断だった。
 これからどうなるなんか先は見えない、だが、きっとこの先に何かある。人生なんてそんなもんだ。全部先がわかるようじゃ何も生まれない、そう勝は思った。隆二が残った。西岡組の若衆に見守られ事務所を綾子を先頭に、泉、そして勝が続いた。
 壊れた玄関先に隆二に預けるはずだった三治がいた。
「あやお嬢さん・・」
 三治は事務者から綾子が出てきたのに驚いていた。
「三治、お前そこの車を運転できるか」と勝は顎《あご》で駐っていたジャガーを指した。
「へい、あっしの唯一できる事が転しだけでさ」と三治はジャガーの運転席に転がるように入るとイグニッションキーを回し、冷めかけたエンジンに渇を入れた。
「さあ、綾子」と勝は泉と共に後部座席に滑り込んだ。助手席に収まった綾子が一度後部座席の勝を振り返った。その瞳はどこか憂いを含んだものだった。生まれた時から一緒に居た。手に取るように心の内が分かる。
「砂を砂漠に隠すにはどうするか分かるか・・」泉が突然不思議な事を話し出した。
『砂を砂漠に隠す・・』
 バックガラス越しに寒々として青白き満月が顔を覗かせていた。

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2007年11月 4日 (日)

やさぐれ勝の恋 七

      七

「隆二じゃねか」銀蔵が入口の隆二を認めた。
 クラブ『再会』は水を打った静けさの中にあった。そもそも銀蔵を府中へ送った原因の一つが隆二が草鞋《わらじ》を脱いだ組にあると考えられていた。
「隆二そんなところで立っていないで中に入りな」
 とその子が花束を抱えたまま身動きできない隆二を店に誘《いざな》った。
 隆二は銀蔵のボックス席に足早に詰め寄るとフロアーにしゃがみ込み、
「親分、おめでとうございます・・」
「俺はここに来れる人間ではない、だが、一言言わずにいられない」
 クラブにいた子分等の顔の何れも怒りに似た表情を浮かべていた。
「俺は一切、親分の捕まった件に係わりがねぇ・・と言っても、信じられねかもしれない、あの日・・ちょっとした事で外へ出ていた・・」
「まあそんなとこに居ないで、ここにお座り」
 その子がボックス席に一人分の隙間を作った。丁度、銀蔵とはクリスタルガラスのテーブルを挟んだ位置だ。隆二はその子に花束を渡すと改まって、
「言い訳なんぞしません、俺は俺の生き方でそれを証明する・・」
「なに言ってやがる」と三治という蓮っ葉な若衆が横から口を挟んだ。
 銀蔵は片手を上げ三治の物言いを止めた。
「兎に角、隆二の言い分とやらをじっくりと聞こうじゃねぇか」
 勝はカウンターからじっと隆二の背中を眺めていた。一度は親子の盃を交わした者である。
「俺は組を割って出ます」
「お前の男を磨くというのはもう成ったとでも言うのか」
「まだ道半《みちなか》ばです。俺はどうも現代極道社会というものと水が合わないようです」
「何かい、水が合わねぇからといって、すぐに割って出るとはあまりにも辛抱が足りねぇのじゃねぇか」
「俺は親分から仁義の何たるかを教えてもらった。しかし、今の組には仁義の欠片《かけら》の一片さえありゃしない、そこで修行するのは意味などありゃしない」
「隆二」銀蔵が今までの温和な顔付きが一変した。
「この世の中にこれぽっちも意味の無ぇ事なんかありゃしない、雨がふりゃ傘を差す、その傘を作っているのは人だよ、そしてその傘を作って生きている者がいる、隆二、ほんとうに旨い具合に世の中というものは回っている、そこでどう生きようがてめぇの勝手だが、・・」
「辟易しちまった俺の心はもう限界をとうに越しちまった。若い馬鹿な女をキャバクラに落とし込み、馬鹿な客から金を巻き上げる、馬鹿な女達の末路はお決まりの馬鹿な男に捕まり、最期は野垂れ死に、通っていた馬鹿な男共はサラ金に金を借り捲くり、最期は破産宣告、家族も家も失い、駅を寝庫《ねぐら》の宿無しがお決まり、その道筋を付ける肩捧《かたぼう》を担《かつ》ぐどこに道を極める行き方などありゃしない」
「聖人君子のような世界など最初から無いんだよ隆二、どんな生き方をしようが、その中で全力で生きる、必ず明日がある、そう信じて、皆生きているんだ」
「確かに明日が何か良いことがあるかもしれねぇ、だがそれに満足なんてできないんです。銀蔵親分」
 隆二はすくっと立ち上がると、自らを鼓舞するように、
「俺は俺がいいと思うような組を創りたい、誰にも後ろ指を差されねえ、一点の曇りもないあの青空のように誤魔化しがない世界をこの手でこさえたい」
「そんな綺麗事ができる訳がねぇ」とまた三治が横槍を入れた。
「三治、お前は黙っておれ、隆二、よくあいわかった。これからどんな事になろうが、俺はただの傍観者になろう、そしてお前が本当にそれを成し遂げた時、俺は認めてやろう、初代今岡組組長、今岡隆二を・・」
 隆二は頭を垂れ暇《いとま》を告げるとカウンターの勝を認め遣って来た。
「兄貴、お騒がせしやした。この通りです」
 と再び頭を垂れ、スーツの内ポケットから祝儀袋を取り出した。
「些少ですが納めてつかあさい」
 どうみてもその厚みは百は下らないようだった。勝は一度銀蔵を見ると銀蔵は軽く首を横に振ったのを見取った。
「隆二、気持ちは確かに受け取った。お前の門出だ博徒にとって出銭は縁起が悪い、それを納めてくれ」と勝は言った。
 銀蔵の出所祝いに駆けつけた隆二の馬鹿者も銀蔵の気持ちも全部、勝は手に取るように判った。これから何かと物入りの隆二にとってその金は決してはした金どころではない、命を振り絞った末にやっと手に入れたものに違いなかった。
「すまねぇ」と隆二は祝儀袋を胸元に納めると店を出ようとした。
「ちょっとお待ち」とその子が呼び止めた。
 その子は両手に火打ち石を携えていた。
「あんたの門出だ。さぁ」とその子は火打ちをカチカチと打った。
 隆二がクラブを後にしてから勝は銀蔵の席に呼ばれた。
「あいも変わらず馬鹿な生き方しかできねぇ奴だ。勝、俺はちんけな渡世にあいつを出したつもりはこれっぽちもねぇ、これからあいつが何をやるか手に取るように判る。あいつが五体満足のまま人生を送って欲しいと思う、
あいつの行き先は決まっている。そこへ行ってどうか治めてくれ、そして、三治、お前にはまだ盃を授けていない、しかし、おれはお前を旅に出そうと思う・・隆二のところで男になれ」
『ああ、と勝は思った。一度は傍観者と言った銀蔵だったが、やはり・・』
 勝は三治を従えその子のクラブを後にした。
 カウンターに残った、銀蔵強力衆の本村正次郎が「川崎に血の雨が降りやす」とため息をついた。

 秋の寒々とした町並みに薄ぼんやりとした月が雲間から覗いていた。
 銀柳街からわき道に入った所にその組事務所があった。 
 入口に白のダブルスーツの隆二が現れたのは既に夜十時を回っていた。この金看板が入口にある組に隆二は五年ほど草鞋を脱いだ。この組の歴史は古い、戦前から一代で築いた伝説の博徒がいた。しかし、もはや往時の任侠道は廃れ、その暖簾《のれん》は名ばかりとなり、今では上納金集めに躍起となる大小様々な組を締め付けるだけの組織としての機能があるだけだ。入口に組長の送迎に使う黒のジャガーが道を堰き止めるように駐車していた。
 事務所に当番の若衆が三人いてテレビを見ていた。
「お疲れさんです」と三人が起立した。
「おやっさんはいるかい」
「へい、客と一緒に奥にいますぜ」
「客?」
「署長と若い女です」と髪を真っ赤に染め、耳にピアスを着けた若衆の一人が答えた。
「若い女?」
「こ一時間ほどなりますか」
「それが、妙なんです・・茶を運んだ時、女が組長の机にいました・・」
 隆二はいやな予感がした。
 隆二は奥の組長室へ向った。
 微かに人の話声が聞こえる。
 何度か会った事のある警察署署長の声のようだ。
 話は途切れ、途切れのように聞こえた。
 それはまるで独り言のようでもあった。
 隆二はそっとドアに近づき聞き耳を立てた。

 ドアを開けるとすぐに虎の水墨画をあしらった屏風がある。
 部屋の床は厚い高級ペルシャ絨毯が敷き詰められ、調度品のどれもマホガニーの家具で統一されていた。遮光性の厚手のカーテン生地が外の明りを一切遮っている。
 綾子はこの部屋で一際重厚な雰囲気を与える一枚板の机にいた。
 しっかりと握り締められた拳銃の標準が二人の男に向けられていた。
 スタンドランプだけが灯されていて部屋全体が暗闇のようであった。
 綾子の手にある銃は警察支給のリボルバーではない、イタリアのベレッタM92である。
「お前が・・」憔悴しきった署長はネクタイを緩めきった姿で黒革の応接椅子に座っていた。その隣に胸元から赤いハンカチーフが覗く黒のスーツに身を包んだ男がこの組の組長西岡一雄だった。
「それで殺したの・・」と綾子は銃を持つ手が思わず震えた。
「署長よ、あんた仇持《かたきも》ちかよ」
 西岡組長は他人事のように言い放った。
 今夜、綾子は署長をこの組事務所に来るように連絡を入れた。何度か脅迫めいた手紙を送りつけた。署長の泉重一《いずみしげかず》はその送り主が自分の署のそれも婦人警官とは思わなかった。組長室に入るなり拳銃を構えた綾子がいた。組長と遣って来たという。
 女は函館の事件を知っているといきなり泉に話した。
『そんな馬鹿な話があるか、すでに・・』
 泉は心の奥に隠し続けてきた昨日が突然顔を出した思いがした。
 ドアの外に隆二がいる事を綾子が知る訳がなかった。
 そして西岡の組事務所の前に三治を従えた勝が漸《ようや》く到着した。
 勝は確信していた。
 今晩、ここで何かが起きる。
 それはこれまでじっと地中で眠っていた蝉《せみ》がやっと幼虫から成虫へと変わる時が遣って来たのだ。
 一発の銃声が事務所の中から夜空に向け鳴り響いた。

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