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2007年10月30日 (火)

やさぐれ勝の恋 六

      六

 スナックが雑居する古いビルの二階にその子のクラブがある。その子に従い勝と銀蔵は階段を昇り始めた。階段室辺りから花輪《はなわ》が処狭しと並べられていた。どの花輪にも全快祝いと熨斗《のし》が掲げられていた。
「おいこりゃ俺のか」と銀蔵は花台に書かれた贈呈主を丹念に確かめていた。いづれも同じ業界の親分衆からのもので、いかに銀蔵がその筋で顔が広いかが判る。
「あんたにきまってるじゃない」とその子はそのまま二階に上がりきった。二階の薄暗い廊下に辿り着いた時にはその子はすでに店に入ったらしい。銀蔵は、紫の行灯《あんどん》に『再会』とある店の扉を開けた。
 店の中は間接照明のため廊下に比べさらに薄暗かった。
 突然、ポンポンと音が響いた。シャンパンを開ける音だ。
 店が急に明るくなると、
「親分お疲れ様」と一斉に和唱が迎えた。入口で立ち止まっていた銀蔵は面食らっていた。
「さあ親分、皆が待ってますぜ」と勝は銀蔵を促《うなが》した。
 二十坪ほどの広さの店内に所狭しと銀蔵を祝うために子分達が待ち受けていた。
 銀蔵と勝は一番大きなボックス席に納まった。銀蔵は席に着くと一同を見回した。どの顔も銀蔵がこの世で縁を結んだ者達であった。
「さて、乾杯でもしようじゃないか」とその子が感激で声の出ない銀蔵に代わった。
「勝、あんたが音頭を取りな」
 とその声で皆のグラスにビールが注《つ》がれた。
 勝は立ち上がり、
「それでは、親分の全快を祝して僭越《せんえつ》でありますが、乾杯の音頭を努めさせていただきやす」
 勝の音頭で一本締めが終わるとクラブの中は邂逅もそっちのけで乱痴気騒ぎとなった。子分にとって親に当たる親分の出所で箍《たが》が外れたようだ。古株の強力衆二人がカウンターで店のホステス相手に一杯遣っていた。勝は席を引くとカウンターに合流した。
「おう勝か」と短く綺麗に五分に刈り上げた胡麻塩頭の本村正次郎がコップで乾杯する仕草をした。その横が銀蔵の幼馴染の横川為吉である。二人とも銀蔵と鉄火場を越えてここに存在する。あの浅草の伊地知栄治と渡り合ったことを勝は駆け出しの頃よく二人から聞いた。
 勝は強力の為吉に会うと大映映画の市川雷蔵最期の主演映画を連想する。桜田丈吉という名前の博徒が義理掛けで北陸まで命を賭けに行く、どこかその主人公と為吉は重なると常々思う。この世界の者同士、触れてはならぬ闇の一つや二つぐらいは必ずあるものだ。
「あやは来ないのか」と正次郎が問うた。
 至極《しごく》当たり前の質問かも知れない。親の出所祝いに実子がいないのは筋が通らない。
「へい仕事だと聞いておりやす」
「まあ堅気になった事だし、しょうがねえ」
 と為吉が助け舟を出す。
「警官といやまったく棲《す》む世界が違うぜ」
 と正次郎も相槌《あいずち》を打つ。
 勝は銀蔵に綾子の所在について説明をしていなかった。綾子を呼んで会わせることを躊躇《ちゅうちょ》していた。
「おらてっきり銀蔵があやを緋牡丹《ひぼたん》のお竜に仕立て挙《あ》げると期待していたんだが・・」
 と為吉はすっかり角氷が溶け切った水割りを一気に喉《のど》へ流し込んだ。
 その時、入口を勢い良く開けた者がいた。
 いままで騒ぎに加わっていたクラブの黒服が慌て蝶ネクタイを直しながら入口へ駆けて行った。

 今岡隆二という銀蔵一家の金看板の強力がいた。
 勝は隆二との出会いを今でもはっきりと思い出せる。川崎駅のロータリーで数十人のチンピラに絡《から》まれていた隆二を・・
「おいお前たち、俺をやるには人数がたりねぇ」
 長雨が嘘のように晴れ渡った六月だった。
 銀蔵に世話に成る様になって数年が過ぎていた。賭場の下足番《げそくばん》から客への世話係りぐらいになっていた頃だ。
 どうみても中学生ぐらいにしか見えない少年が、その当時辺り一帯を仕切っていた組の子分等を相手に啖呵《たんか》を切っていた。
 勝はその少年の眼に尋常《じんじょう》ではない何かを感じ取った。
 獣としかいえない凶暴な性格を生まれながらに備えてこの世に生まれてくる者がいるとしたら、それは隆二なのかもしれない。
 捨てゴロが旨い奴は多かれ少なかれ、人生は太く短くなる。
 少年は蝶のように舞、喧嘩慣れしたチンピラを翻弄して次々と薙ぎ倒す手管《てくだ》は熟練した喧嘩師のそれだった。
 当《とう》に駆けつけていた警官等も鎮圧するどころか、静まるのを傍観していた。
 勝は少年を制止しようと思った。この生き方を止めなければならい・・
『奴は死にたがっている』
 突然少年の前に優に六尺を超える巨漢が立ちはだかった。
 少年はその男の急所に蹴りを入れたが、男は逃げるどころか方手で足を止め、そのまま釣竿で吊り上げられた小魚のように少年を持ち上げると振り回し始めた。そして少年はそのままアスファルト目掛けて放り投げ捨てられた。
 そこにチンピラ供が殺到しようとしたが、巨漢が立ちはだかった。
『手出し御無用』と勝はチンピラを睨《にら》み据《す》えた。
 中に勝のことを知っている者がいた。
『こいつぁ・・やさぐれだ』と言うとチンピラ供は蜘蛛の子を撒き散らしたように一目散に逃げ出した。
 アスファルトから立ち上がった少年の目が新しい獲物を発見した狼の眼をしていた。
  勝は振り返り、取り囲んでいた人込みを掻き分け歩き出した。
『おい待ちやがれ、そこの独活《うど》の大木《たいぼく》』
 勝は人込みから少年が殺到する足音を聞き分けていた。軽く体をかわし足払を少年に掛けた。少年は前のめりに激しく再びアスファルトに叩きつけられた。
『行く処が無きゃ、付いてきな』

 あれから十度ほど桜が舞った。
 生き急ぐ若者は少しづつ社会というものを学んだ。徒手空拳の一匹狼はやがて博徒を卒業し極道になると言い出した。
『なげえ間、お世話になりやした』
 銀蔵と勝の前で隆二は畳に額《ひたい》が着くほど頭を下げた。
『訳などは聞かぬ、お前の性根《しょうね》を俺は良くわかっている』と銀蔵は合わせの懐から、折りたたんだ和紙を取り出した。
『勝、そこから硯《すずり》と筆を頼む』
 いわゆる除籍の旨を双方が血判を持って認《したた》め合う回状を、銀蔵は二通作成した。極道のそれとは異なるかもしれない、破門、絶縁、除名と色々な抜け方がある。その中で自らの届けを持って親子の縁を切る場合、もっとも軽いのが除籍となる。極道ならば指の一本も添えるのが筋である。
 隆二は事が成るとダブルのスーツの胸元から紫色の絹袋に納められていた盃を取り出した。
『この重みを俺は誰よりもわかりやす、だが、俺の中にある、消しても、消しても消せねえ、炎がチロチロとこう言いやす、何度も、何度も、それでいいのかと・・俺は親の顔も知らぬ捨て子としてこの世に生を授かった。爾来《じらい》すべてを憎む事が俺にとっては生きる目的のような生き方をしてきた。そんな時に勝兄貴に出会った・・まるで富士山のような大きな男というものを・・俺は初めて知った。この男のようになろう。そう誓った。あれから親分に育てられ、銀蔵強力四人衆の末席に席を置けるようになった』
『だが・・俺はそれに甘んじるような生き方ができねえらしい・・』
 隆二は頭を畳に下げたまま淡々と自分に言い聞かせるように語った。
『このご恩を返さずに返盃をする馬鹿者をどうぞ許してください』
 畳にはうっすらと涙の雫が滑《ぬめ》りを作っていた。
 勝の地獄耳は廊下で聞き耳を立てる息を感じ取っていた。その者が流す涙が廊下の床板に次々と滴り落ちポタポタとする音をはっきりと聞いていた。
 綾子十五の失恋の夜はこうして迎えられた。

『りゅうたん・・』
『りゅうちゃん・・』
『隆二・・』
 綾子は小学校に入る前から隆二を兄のように慕った。隆二もまるで実の妹のように綾子を可愛がった。

 クラブ『再会』の入口に花束を抱えた白のスーツに身を包んだ隆二がいた。
 勝は銀蔵といい隆二といい波乱の予感を禁じえなかった。
 間違いなく止まっていた時計を誰か巻き上げたらしい・・

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2007年10月 7日 (日)

やさぐれ勝の恋 五

      五

 話を元に戻そう・・
 銀蔵が懲役を終え、その子がやっているクラブで出所の祝いを行うこととなった。
 川崎駅からさいか屋の裏側に堀の内辺りまで続く銀柳街がある。戦前、古川という川岸に柳が生い茂る川が流れていた。市が雇用促進を兼ねて川が埋め立てられた。両岸に生い茂っていた柳が商店街の有志によって守られた。それがいつしか銀座という東京の繁華街と柳を掛けて『銀柳街』となった。とても銀座とは比べられないが、彼らの願いが川崎第一の繁華街に発展した。そこから仲見世通りを抜け、ソープ街が続く南町の外れに飲食店が雑居するビルがあった。その子のクラブはその中にある。その子は赤坂で芸者をやっていたと勝は聞いた覚えがある。この生業の者の女房は、ある日、男が懲役に行く、ある意味、契りを交わした時から約定となる。つまり普段『姐さん』と呼ばれる女房連中は旦那の稼ぎを当てにはできない。いかんせん水商売から身体の売《ばい》までやってやさを守る。旦那の帰りを一人で待つ、それ故に男は徹底的に女を大事にする。だから、頭が上がらない。
 男もシャバでかわいい女房が待っていると考えると辛い懲役も我慢ができる。
 その子は銀蔵と所帯を持った時から、水商売を生業《なりわい》としてきた。六年前に銀蔵が再び懲役が決まった時、預かっている子供だけでも二十人を超えていた。預かるとは正式に盃を与えていない未成年ばかりだ。博徒の世界にも親子の固めをする盃事がある。男と女が神殿の前で三々九度を行うことで契りを交わすのと同じだ。まったく血縁関係が無い者同士が親子の契りを附ける。こうして代々縄張りが次の世代に受け継がれていく。だからほんとうの親子の血による継承は逆に少ない。その町を支配する色々な力の中にあっても賭場を開ける権利を有する者は、実は代々受け継がれてきた者だけなのだ。余所者《よそもの》が突然やってきて賭場を開いたとしても、権利のある者によって徹底的に叩かれる。極道が賭場を開くように思えるが、彼らは主催者であって博徒一家の軒先を借りているに過ぎない。彼らの命の掛ける対象がそもそも違う。博徒は博打そのものに命を張る。極道は侠客《きょうきゃく》として己が命を掛ける。損得勘定で動かないのが道を極めた者なのだ。法律上の『暴力団』という反社会的な組織と捉えがちだが、ヤクザともまた違いがある。
 だが世間は同じ『暴力団』としか見ない。
 誰もが見下した見方で彼らを畏怖し、そして無視することでどうにか同じ世界で共存してきた。それでもそんな世界でしか生きられない者達がいる。行き場を失った少年、少女達、『生まれて来なければ良かった』、だがそんな彼らでも生きなければならない。
 身元保証人など存在しない、未成年達。
 どんな理由があるにせよ、銀蔵は彼らに世の中と関わりあうための手を差し伸べ続けてきた。『切欠《きっかけ》』を与えることでしか救えない・・そんな事を銀蔵はポツリと零《こぼ》したのを勝は覚えていた。
 野良犬や野良猫と違って、人間社会に放り出されても『生きる術《すべ》』の持たない者ばかりだ。
 行き着くところは犯罪者のレッテルを貼られるか、世の中の片隅でひっそりと影のように生きる道があるだけだ。
『どんな道があるか誰も先はわからねぇ、だがよ、お天道様《てんとうさま》の下を胸を張って生きてぇと思わないかい』勝が銀蔵から教えられた一つだ。
『お天道様の下を胸を張って生きる・・』
 銀蔵が預かっている子供達は男だけでなく女もいる。中学校から高校ぐらいの年頃の子供を、銀蔵は次々と引き受けて連れてくる。昔と違って札付きの悪は少なくなった。家庭に問題のある者が多い。不登校を続け最期に援助交際をやっていた女子高生の親が相談にやってきた。市会議員だという。
「世に出せない」と脂ぎった中年は娘の頭を無理やり押さえつけ頭を下げさせた。
 その子は怒りで市会議員をどやし付けた。
「うちは児童相談所じゃないんだ、自分の娘の面倒も見れない者が議員とは笑わせるんじゃないよ」
 銀蔵がその場をなんとか取り成し、結局その子は不承不承《ふしょうぶしょう》に女を預かることに同意した。万事がその調子だった。勝は彼らと彼女らの教育係りだった。
 木賃宿の二部屋が男部屋と女部屋に割り当てられ、雑魚寝するだけの部屋だが、そこが彼らが唯一心安らげる場所だ。朝は三時起床。まず男は木賃宿の隅から隅まで掃除、女は朝の炊き出しの手伝い。日雇い達が宿から片付くと男はそれぞれの職場に向い、女は食事の後片付けや寝具などの洗濯だ。宿は季節によって住んでいる数はかなり違いがあるが、ほぼ五十人前後の者が宿泊していた。つまり百人前後の人間が一つ屋根の下に暮らしていた。女達は昼食も済むか済まない内に夕食の炊き出しを始める。気がつけばまた食堂に日雇い達が戻り夕の宴《うたげ》を始める。
 宿の同じ敷地に平屋造りの御堂を思わせる建物があった。
 宿に戻った男達はその建物に集まる。玄関先の納戸を取り払い、掃除を始める。どの男も紺絣《こんかすり》に『丸に銀』の白抜がある半纏《はんてん》を着る。建物の玄関は広く、玄関先に檜《ひのき》を格子に組んだ下駄箱がある。そこを上がり、先に進むと四十坪もある畳敷きの大広間がある。入口の襖《ふすま》を開けて右に番台があり、正面の黒檀《こくたん》の床敷《ゆかじ》きの床の間に『天地一』と巨大な文字で描かれた掛け軸が掲げられている。その隣の部屋に片していた盆茣蓙《ぼんござ》を大広間に用意して初めて男達は夕食にあり付ける。
 博打は奇偶日で掛かる内容を変える。
 銀蔵の賭場は偶数日は『壷』、奇数日『手』と定められていた。説明は省くが壷とは丁半のサイコロ、手は手本引《てほんびき》だ。
 勝は銀蔵一家強力《ごうりき》四人衆の一人である。強力とは盆をコントロールする仕事をする。客に楽しく遊んでもらうように常に盆の成り行きを把握し、進行をおこなう、もちろん客をあおる事もする。配当を計算し勝負毎に配当付けを行う。警察の手入れがあると身体を張って客をすみやかに逃がす。
 銀蔵の子分達は独り立ちすると宿から出て、やさ変えをする。女房をもらう者が多いが一人者も中にはいる。その場合は女が通いで男の世話をする。彼らに決まった手当ては無い。毎日の盆の上がりの半分を銀蔵が持っていき、残りを子分等の役目で分け合う。それでも盆暮れの手当てが銀蔵から出るのでどうにかその年を暮らせる程度の収入だ。
 戦後盛んになった競馬、競輪、競艇、オートレースと公営ギャンブルが花盛りだが、これは主催者側が賭けの二割五分を最初から引いた分を配当するので戻りは少ない。銀蔵一家も戦後まもなくご多聞に漏れず呑み行為を始めた。掛けから一割引いた分を配当するので遊び人は銀蔵のところを利用する。賭け金はほとんどが掛けのため若衆が客に出向き集金する。当たった者はすぐに金を貰いに現れるが、外れた者はまず金を納めには現れない。大体ここがトラブルの元になる。旅烏《たびがらす》が掛けに参加するには何か担保を求める場合もある。まず、流れ者は踏み倒しを計る。
 だがいまだ過って勝から逃れたものはいない。それは勝がやさぐれの立ち回り先を独特の嗅覚で嗅ぎ分けるからだ。それゆえに『やさぐれ勝』と通り名がある。
 銀蔵に言わせれば、『お前には可笑《おか》しな能力がある』になる。
 警察関係者とはある意味、持ちつ持たれつつにある。賭場にも定期的に幹部が顔を出す。指名手配になっている者がひっこりとやってくることが多い、その場合、勝はこっそりと別室に案内し料理を馳走して引導を渡す。
『さてどうしますか』
 逃亡に明け暮れ、やつれ切った男の場合、故郷に帰ることも叶わず、最期は押し込み強盗をやるのが落ちになる。行き場を失った末路といえばそれまでだが、どこまでも逃げ果《おお》せる訳がない。
 しかし中には眼から光の失せない獣のような者もいる。
『些少ですが草鞋《わらじ》銭です』と金を出す。
 犯罪者と謂えど人の子である。
 これで落ちなければ好きにさせるしかない。
 裏で待つ刑事が建物を出たところで声を掛ける。彼らはどこまでも逃げ果せる訳がない事を知っている、だがそれを納得できないだけなのだ、だから賭場のような場所に現れる。今生で散々な目にあった者が行き場を求めて遣って来る。警察もそれがわかっている。
 江戸幕府開闢以来、宿場町を根城にしたこのような賭場も影を失った。
 銀蔵が前回逮捕された時も実に些細な賭博行為だった。新たに遣って来た警察署長と新しくこの地を制圧した極道達が仕組んだ。
 銀蔵一家が目障りに違いは無かった。
 銀蔵がエスケープゴートにされたのだ。
 長い伝統などたった一晩で吹き飛んでしまう事もあると勝は思った。

 その夜、賭場の大広間にその子が子分全員を召集した。
「見ての通り、銀蔵一家は解散さ」と姐《あね》さんは息巻いた。
 誰も反対のしようがない。
 勝は姐さんがそう言うだろうと思っていた。
 客の一人に銀行家がいた。
 銀蔵が逮捕された夜にその銀行家が賭場へ遊びに遣って来た。
「今晩はもう看板かね」
 勝が丁度賭場の玄関先を掃除していた。
 客の素性を聞かないのがこの家業の掟だ。
 その客も一度たりとも名乗った事はない。
「へい、しばらく閉めやす」
「それは惜しい、事情は聞かないが、お前さん達はどうするんだい」
 白髪に和装の紳士然とした男だった。
「まだ明日なんてわかりません」
「そりゃそうだ、でも若い衆がたくさんいて大変だろう」
 勝はその男がいつも賭場の隅で大勝はしないが、僅かの張りで遊んでいく馴染みだと判っていた。
「まあなんだ、困った事があったらここを尋ねなさい」と男は札入れから一枚名刺を出すと勝に渡した。
「実に残念だ」と男は去っていた。
 名刺には○○銀行 頭取の何某と印刷されていた。
 掃除を終えて宿の裏口に綾子を認めた。
 夜目にも泣きはらした顔をしていた。
「どうしたいあや」
「まあ、みんなどこかへいっちまうのかい」
「誰がそう言った」
「だって、とうちゃんが捕まったから、もう全部仕舞だって・・」
 勝は頭を金槌で殴られた思いがした。
『俺たちにはここしかないんだ、行くところなんてない』
 翌日、半纏姿の勝は○○銀行の頭取室に通された。受付嬢の好奇の目に晒されてどうにか取り成してもらうまでガードマンが飛び出してきたりひと悶着があった。
 秘書らしき事務員がお茶を給仕して去ると頭取は急に齟齬《そごお》を崩してこんなことを話し始めた。
「実は私の先代は、清水で博徒をしていました」
 勝はこの一言で、この男のすべての事情が手に取るように判った。
「世が世なら銀蔵親分と同じ立場にあったでしょう」と男は言った。
「私の事業は人の作った法律の中でしか商売ができない、ところが実際綺麗ごとだけでは成り立たない。じつに不自然だ。人間が誕生した時から博打があった。それを力のあるものが自分の都合のいいように法律を作り儲けている」
「人呼んで『やさぐれの勝』まずこの業界で知らぬ者はいない、その勝さんが目の前で頭を下げている、これこそが光栄の極みと言いましょう、もしよろしければ私の方からぜひ一肌脱がさせていただきたい」
 話はすぐに決まった。

「姐さん・・この話、勝に預けては貰えないでしょうか」
 静まり返った大広間に、一際、勝の声が澄み渡り響いた。
「お前にかい」
「へい、あっしに考えがあります」
 そしてあれよあれよという間に一階にコンビにと食堂のある地上十二階立ての賃貸マンションが出来上がった。
 マンション工事の現場で若衆を働かせ、女達には日々の炊き出しに当たらせた。敷地内の一角にプレハブを建て、そこに全員が雑魚寝で八ヶ月暮らした。木賃宿に住んでいた者の一部の助けもあり工期を三ヶ月も短縮することができた。
「賭場を壊さないのかい」と姐さんは何度も勝に尋ねた。その度に勝はこう答えた。
「親分の命ですから」
『俺は仮にも親分から盃を下賜《げし》された者だ、その重みは親子以上なんです』と勝はその度に心でそれを繰り返した。

「あんたの退院祝いを店でやるから出かけるよ」
 漸《ようや》くその子が銀蔵の懲役中の話を終え、ビルの裏口から出る時に銀蔵はよく手入れされた御堂を認めた。
「おい、そのままじゃねえか」
 そこには銀蔵が逮捕された時と寸分変わらぬままの賭場の建物が建っていた。
「あんたがいつ帰ってきてもいいようにと毎日、毎日、子分達が同じように掃除しているからね」とその子が言った時、勝は銀蔵の眼《なまこ》に確かに光る一滴を見取った。

(切れがよいので、ここで次回に続きます)

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