やさぐれ勝の恋 十七
十七
「・・・ひとりぐらいは
こういう馬鹿が 居なきゃ世間の 目はさめぬ・・・」
『兄弟仁義』(昭和四十年)作詞:星野哲郎 作曲:北原じゅん
唄:北島三郎
今岡隆二は一人ぼっちだった。
生まれて物覚えがあるくらいから一度として人に愛された記憶がない。
もし勝に会わなければ・・と時々思う事がある。どこかの道端で喧嘩の末に野垂れ死にしていただろう。
それがどういう風が吹いたのか、今や西岡組の跡継ぎに推挙される運命が訪れていた。
川縁の掘っ立て小屋に生まれた。
母の顔も名も知らない。
もちろん父も同じだ。
いわゆる父無し子。
その日暮らしの祖父だと名乗る老人に拾われた。それ以外の生い立ちはわからない。
歩けるようになった頃から、店先に並ぶ菓子や食料を盗み始めた。大人に追いかけられ路地裏に逃げ込む。毎日それを繰り返した。
ある日、社会福祉士が現れた。
『お宅のお子さんは犯罪を犯している』
と寝たきりになった老人を責めた。
少年法の第二章第一節第三条にこの下りがある。
次に掲げる少年は,これを家庭裁判所の審判に付する。
1 罪を犯した少年
2 十四歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年
3 次に掲げる事由があって,その性格又は環境に照して,将来,罪を犯し,又は刑罰法令に触れる行為をする虞のある少年
イ 保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。
ロ 正当の理由がなく家庭に寄り附かないこと。
ハ 犯罪性のある人若しくは不道徳な人と交際し,又はいかがわしい場所に出入すること。
ニ 自己又は他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。
罪を犯した少年・・誰も彼の生い立ちを聞き同情はすれども救ってはくれない。
それが世間と言う奴だと隆二は冷たいコンクリートの壁に囲まれた少年院に収監されて感じた。
一際背が高かった。だから目立った。すぐに年長の者の目に留まった。
収監される前の隆二を知る者はモヤシのような身体をした子供だったという。
二年後、川縁の老人が逝去したとあの社会福祉士が遣ってきた。
獣の子供を獣たちの中で育てるとどうなるか、その答えがそこにあった。
十歳の少年の姿形はそこには無かった。
研ぎ澄まされた刃物が剥き出しで向けられている。社会福祉士はそう感じた。ギラギラとした眼差しで彼は座っていた。
隆二の少年院での二年間はある意味生活が保障された暮らしだったかもしれない。
集団生活をするのは初めてだった。
隆二にとってすべてが物珍しく新鮮であったが、彼を待っていたのは暴力という試練であった。
口に堅く絞った手拭を詰め込まれ、次々に部屋にいた少年達が隆二を殴りつけて来た。
人生のなんたるかなど知らない。
殴られ蹴られる度に立ち上がった。
命の危険さもあった。
だが、隆二は挫《くじ》けなかった。
独居房に放り込まれる度に隆二は素手ゴロに磨きをかけた。
相手の動きを目だけで追っていては後ろにいる敵に対応できない。
前後左右同時に攻撃される危惧もある。
いかに相手にダメージを与え反撃にでるか・・
効果的なのは相手の目を狙う、また足の動きを止める事だ。それが、できればこちらの思うまま殴り放題になる。
ああそうかそんな簡単な事と思える。
だが喧嘩はどんな場所でもどんな時にも対応できなければ勝てない。
廊下を歩いている時、入浴中、就寝中、いついかなる時も気を休めない。
腕力があるだけはもちろん勝てない、武器を持つ者にも対応できなければいとも簡単に遣られる。武器というものはそこいらじゅうに転がっている。なんでも凶器になりえる。堅い灰皿で頭に打撃を受ければ昏倒する。箒《ほうき》の柄《え》を折、そのささくれた木の先で目を突かれれば、視力を失う。
一瞬で勝敗が決する恐れがある。
やるからには必ず勝、そう自分に言い聞かせ、鼓舞しなければ、戦う前にすでに滅んでいる。
『攻撃は最大の防御なり』という言葉さえ知らなかった。
弱い者は大声を上げ掛かって来る。
相手を怯まさせるためだろうが、その時点で襲ってくる方向を特定できる。後ろで大声が上がれば後ろに私がいますと宣言しているようなものだ。素手ゴロは必ず無言で相手と対峙する。大声をだせばそれだけ体力が奪われる。
たった三分ほどでも死闘を行った者だけが知る。恐ろしいほどの酸素不足に陥り、肩で息をつくどころか、呼吸困難にさえなる。
負ければ死が待つ可能性がある。
喧嘩とういものは常にそういうものだ。
十歳に満たない少年は自らの経験を通じ、そして体得した。
相手の身体を捕まえて取っ組み合うのはこちらもダメージを受ける可能性がある。ましてたっぱや腕力に違いがありすぎる。
蝶のように跳ね回り、そして相手の急所に的確に突きや蹴りを入れる。一撃必倒、素手ゴロの極意を身に着けたとき、隆二に歯向かう者は居なくなった。暴力が支配する世界。上は十四歳から下は八歳が押し込まれれた少年鑑別所、そこでわずか十歳二ヶ月の少年が数百人の頂点に辿り着いた。
やりたい放題・・世界は隆二のためにあるとさえ思えた。
「隆二、君はここを来月出所する」
会話を記録する刑務官が隆二の後ろで筆記をするためにペンを走らせていた。
ガラス越しの向こうに、眼鏡顔の草臥れた中年の社会福祉士が座っている。隆二は出所する必要が無かった。ここは俺の王国。またあの暮らしが待っている。
「そうか」とだけ隆二は答えた。
前とは違う、隆二は考えた。少年院に入る前は大人に歯向かうなど考えられなかった。
今は違う、自分がとてつもなく大きく感じる。この素手ゴロで俺は世間というやつを渡ってやろうと決めた。
膝の上に揃えられた両拳を隆二は振り上げたい衝動をぐっと押さえつけた。
『この俺を生んだ世界を滅茶苦茶にしてやる・・』
春の陽射しが眩しい朝に隆二は社会福祉士の出迎えで退院した。
バスと電車に揺られ川崎駅に降り立った。
華やかな景色に思えた。毎晩、グレーと暗褐色の院の壁に向かい正拳を突いた。半年で厚さ二十センチのコンクリートの壁に穴が開いた。刑務官は見て見ぬ振りをした。
幸せ顔の若いやつ、背を丸め早足で歩く中年の男、厚く塗りたくった化粧の顔を歪め大笑いをしている中年の女達、華美な服装の若い女、こいつ等、全部をこの場で殴り倒したい衝動が襲った。馬乗りになり衆人監視の中で拳が潰れるぐらい殴ったら、笑うことや呆けた顔など二度とできなる。
「ここだ、隆二が働く工場だ」
嗅いだ事の無い匂いが充満していた。
恰幅のよい禿げあがった頭にわずかに残った幾本かの髪を撫で付けた作業服の男が現れた。
自ら自分はここの工場長でお前の面倒を今日から見るからと隆二を睨み付けた。
それが灯油ということをその工場長から教えられた。クリーニングという言葉さえ知らなかった。人様の衣類を洗濯してアイロンを掛ける商売がある事も初めて知った。まして石油で衣類を洗うことに驚いた。
「親方の言う事をしっかり聞いて働くんだ」
と社会福祉士の何某がそういい捨てると隆二を一人その工場に置いていった。
隆二は工場長と名乗った男に連れられ裏手にある木造二階建の瓦屋根のアパートの一室に案内された。
「お前は今日からここで寝泊りする。明日の朝五時に工場に来い、今日はどこかで飯を食って来い」と男は懐から札入れを取り出すと聖徳太子の札を二枚隆二に押し付けた。
「当座の生活費だ、大切に使うんだ」
金など持ったのは初めてだった。
後でその金の出どころが実は隆二が鑑別所の作業の報酬として本来受け取るものだったと知った。
つまり金のほとんどはその工場長にせしめられた。
四畳半一間、そこが隆二の出発点であった。一人手に握り締められた聖徳太子に頬伝う涙が零《こぼ》れた。誰にも涙など見せた事などない・・自分の部屋、生まれてこの方、自分のやさなど持った事はなかった。咽び泣いた。気がついたら夕暮れになり、窓ガラスを通してしゃ婆の街灯が部屋に差していた。
『ああ、俺は何者だ・・』
少年院へ入る前と後で隆二は明らかに世界感に変化があった。
何かに怯え、道の端を人目を避け歩いた。
だがどうしたことだろう、部屋から出た隆二は道の真ん中を堂々と歩き、道を譲らない、地元の高校生が隆二の前に立ちはだかった。
彼らに災いした事が二つあった。夕闇の中で、隆二は小学生ぐらいにしか見えなかった。実際年齢は小学校四年生でしかない。そして、彼らは十人という大人数で柔道部の練習帰りだった。
一人が足払いで目の前の少年を投げようとした。明らかに驕《おご》った気持ちがあった。少年が彼の身長より高く飛翔した。肩透かしを食らった高校生は目の前の少年を見失った。だが次の瞬間、顔面に強烈な蹴りが決まった。隆二は高校生の顔を滅茶苦茶に殴り始めた。異常な光景だった。今にも崩れ落ちそうな高校生を下段の突きで上へ跳ね上げる。微妙なバランスでどうにか高校生は立っていた。他の柔道部の部員が止めに入ろうとした。目の前の少年が軽く脚を胸に引き寄せた瞬間、脚がすばやく繰り出された。ほぼ同時に四人の高校生の鳩尾《みぞおち》に突きが決まった。一瞬で四名が気を失い歩道に倒れた。いつのまにか人だかりができた。
隆二は確信した。
『俺は強い』
止まったような動きで残った高校生が殺到した。問題では無かった。
命のやり取りをした者と中途半パンな武道をかじった者、その違いは明らかに天と地の差があった。誰か十歳の少年が人間凶器という事を知ろう、彼の拳をよく見ろとは誰も言わない。まだあどけなさが残る頬と裏腹な拳を見たものは驚愕する。身体を鍛える場合、拳を鍛えるほど難しいものはない、硬い石を叩けば、皮膚が撚れ、すぐに骨がむき出しになる。何度皮が剥けたら隆二のような硬質化した拳になるのか、達人のみが知る領域に十歳の少年が達していた。
クリーニングの工場で勤まるはずが無かった。二日目に隆二は工場を滅茶苦茶にした。あのわずかの髪を撫で付けた工場長の顔を殴り続けた。
彼は許しを請った。
「金は返す・・」
そんなものなど問題ではない。
『俺は世界を征服する・・』とさえ思えた。
夜の川崎の街に出向く。
喧嘩をする相手など枚挙に暇が無い。
次々に大人達を半殺しにした。
警官が駆けつける前にやさに戻る。
クリーニング工場からは何も言っては来ない。なぜならそこに恐怖が住んでいる。
やられた大人達は口を揃えて子供にやられたとは言わない、中には地回りもいた、彼らの沽券にかかわる。
さすがに一週間目に隆二の前に金バッジが現れた。
「あんちゃん、名前は・・」と磨き上げられた黒革をこれ見よがしにした老人だった。
背後に二人の長身の背広姿のボディガードが付いていた。
隆二にルールなど無い。生まれた時からだ。
老人はあっと言った。
隆二が老人の目を指で突いた。
血飛沫が飛んだ。
慌てたボディガードが隆二を捕まえようとした。空中に高く飛翔した。両足で二人の背広の男の鼻をこれでもかという力で潰した。
毎日が流血の日々。
誰も俺を止められる奴はいない。
何度か弾丸が頬をかすめた。
その度に弾いた相手の歯という歯が折れるほど殴りつけた。
「さあ、殺してみやがれ」
露明けに、川崎駅前のロータリーで地回りのチンピラに囲まれた。
隆二も何かにウンザリしていた。
やってもやっても限《きり》が無い。
「おいお前たち、俺をやるには人数がたりねぇ・・」
いつもと違う事が起きた。
そこに勝いた。
人呼んで『やさぐれ勝《まさ》』
もちろん隆二の与り知らぬ事であった。
不思議だった。
自分の動きが手に取るように分かるのか、その男は隆二の蹴り、正拳、いづれもまったく簡単に受けられた。
隆二は何かとてつもなく巨大な怪物と戦っているような錯覚に陥《おちい》った。
肩透かしを食らった隆二はアスファルトに自ら転げまわった。
世の中に『極道』という生き方がある事など知らなかった。
所詮《しょせん》、この世は仮のやさ《宿》。
どんな生き方があろうと自らを曲げない、そんな生き方があるはずはないと諦《あきら》めていた。
行くあての無い隆二は勝に従い、銀蔵の元にやってきた。
銀蔵はこう言った。
「俺達ゃ血の繋《つな》がりなんか一切無い、しかしそれ以上の物で結ばれている・・」
隆二には全く見当が付かなかった。
「なんだ」
「心てやつだ」
と白髪を短く刈り込んだ目つきの妙にきつい男が自らの胸を人差し指で指した。
「心・・」
「人は心が離れれば、必ず去っていく、だが心と心が繋がっていればこんな強い絆はない」
「お前が父親無子《ててなしご》で親や兄弟というものを知らないというが、血を分けた親子、兄弟で諍《いさか》いが絶えないのは、悲しいかなこの心の結びつきが切れた結果にしか過ぎない」
夏が近づこうとしていた。
宿舎の庭に一本の老梅がある。
いつ倒れてもおかしくない老梅が一輪だけ花を咲かせていた。
「あの梅をよく覚えておくんだ」
「人の一生がどうなるなんか誰にもわからない、いつまで待っても花を咲かせる事無く終わるかも知れない、それでも今日を精一杯生き抜く事で明日が遣って来る、その結果、きっとあの老梅のように季節違いでも花を咲かせられる」
「俺はお前に何もして遣れねぇ、でもほんのちょっと背中を押す事ができる」
「今日から、こいつぁ、勝てぇやつだが、お前の兄と思い、面倒をみてもらえ」
その日から隆二は銀蔵の若衆になった。
一般の家庭や学校とはかなり違いがある。
理不尽があれば一切の容赦がない。
一晩中麻縄で締め上げられ、軒下に吊るされる事もある。
世間から後ろ指を指される社会だからこそ行儀作法というものに実は厳しい。
便所を清掃するのにさえ心構えがある。
便所を『ご不浄』とよく言ったものと隆二は関心した。戦後進駐軍が本土にやってきた時、農作物の肥料に下肥を使用しているのを知って驚いたという。不浄なるものは土に還り、そして自然の浄化作用で作物の栄養となり、再び人様の口に納まる。
「不浄なる物を収めるからこそ一点の汚れがあってもいけない」
この一見矛盾した言葉を聞いた時、隆二は身体に稲妻が走った。
隆二は銀蔵に拾われて自分がいかに『無知』であったかに気が付いた。
いつのまにか勝をほんとうの兄のように慕った。いつも勝ならどうする、どうやる、と自分でも知らず知らず内に勝を手本にするようになった。
なぜ勝があれほど腕力があるのか隆二がそれを知った時、涙が止まらなかった。
早朝床にあった隆二は宿舎の庭で何かが風を切る音を聞いた。まだ夜が明け切らぬ庭の片隅で黒い棒のようなものを懸命に振り回している勝の姿を見出した。
呆然と立ち尽くす隆二は時を忘れてその姿を眺めた。その動きに一糸乱れがない。田や畑に鍬《くわ》を入れる時、力加減を入れるタイミングが重要になる。隆二にもその動作が、鍬を入れる動きそのものであることがわかった。
黒光りする鋼鉄の柄だけの棒がまるで竹のようにしなやかに頭上から振り下ろされ地面すれすれでぴたっと止まる。それを片手だけの素振りで左右と交互に繰り返す単純なものだ。
勝は汗ひとつ掻く事がない。
勝は素振りを終えると納屋に鋼鉄の棒を仕舞い入れた。その様子をじっと伺っていた隆二は納屋へ駆け足で向かった。隆二は片手で棒を持とうとした。だが持ち上がるどころか納屋の中に引き込まれそうになった。
「八貫(30Kg)ある」
勝が立っていた。
「お前が覗いていたのに気が付いていた」
「これで喧嘩に備え鍛えているのか」
「たしかに鍛錬をしている、だがちょっと意味が違う、兄弟を守るためだ」
「俺は田や畑を耕す事しか出来なかった。それが出来なくなったら俺達は立ち行かなくなる。その思いから俺はいつでも鍬を振り続けてきた。今は鍬を振る田畑は無くなった、だが俺はいつまでも振り続ける。お前も守る」
勝は洗面所へ向かう道すがらこんな事を言った。
「生きるて事は一人だけで生き抜ける奴なんてまずいない・・銀シャリを食べられるのは銀シャリを作る百姓が命を掛けて田に鍬を入れ、稲を植え、夏の炎天下も丹精に育て、そして刈り取る。どの作業を端折っても俺達が銀シャリを食べられないどころか自らが飢える」
『ああ・・』いつしか隆二の頬を涙が伝っていた。
喧嘩をして殴られようが泣いた事などない。
東北の田舎から上京したと聞いた。
兄弟姉妹八人の長男、勝の人生すべてがわかったような気がした。勝が望んで得た腕力ではない幼い兄弟姉妹を守るため、そして生きるため・・
無知を自覚する隆二にさえわかった。
声を出しておいおいと泣きたい気持ちだった。学校へ行く前に勝の兄弟が朝餉の手伝いをしていた。この家に無駄飯を食う奴は一人としていない。
「隆、そこの薬缶もっておいで」勝のすぐ下の克子だ。気性の激しい克子は隆二を平気で怒鳴りつける。姐さんのその子が忙しく立ち働いている。朝餉の味噌汁の香ばしい匂いとまな板を叩く包丁の音、それに連れられ労務者が食堂を埋め尽くす。
「お前か喧嘩チャンピオンは」と言いがかりを付けられた。
「まだ子供だぜ」
「お前達、隆に手だしたらあたいが承知しないぜ」克子だ。その一言で誰も文句は言わない。肥満気味の克子は食堂の主だった。彼女の機嫌を損ねると疲れて帰って来た労務者のどんぶりの盛りに直接影響が出る事を彼らは痛いほど知っていた。だから逆らわない。
銀蔵一家に溶け込むのに時間は掛からなかった。賭場の下足番から合力になるまで隆二は渡世の修行を怠らなかった。
人に土下座しても信念を曲げない。
隆二は任侠道というものがすーと身体に染み込むように身に付いた。
自覚した時、銀蔵に旅の願いをした。
「間違っても人を殺めちゃいけねぇ、そんな事はお前がよく知っているだろうが」
と銀蔵は快く旅出させてくれた。
三年間旅の空にあった。
どういう因果か旅で知り合った男から川崎の西岡組を聞いた。勝の傍にいたいと考えたからかもしれない。
『勝兄ぃ・・お前さんの人生はそれでいいのかい・・』
隆二は誰にも言ってはいけない勝の秘密を知っていた。どんなに鈍い隆二にさえわかった事だ。
あの日、隆二は銀蔵の使いで真由美の入院先へ向かった。勝が朝から工事現場で事故騒ぎがあってその手伝いに出ていた。勝に変わって真由美の元へ荷物を届けるように命を受けた隆二は入院先の病院へ着いた。
真由美という妾《めかけ》が銀蔵にできてから何度か隆二も会う機会があった。線の細い色白の女だ。
看護婦から個室の番号を聞き部屋まで近づいた時、部屋から会話が聞こえた。
小さい声だがはっきと女の声がした。
『まあ、ねえどうして私達・・最初から出会わなかったの・・』
それは真由美の声だった。
隆二にもその会話の意味する事がわかった。
『あやは私達の子供・・』
動けなかった。
親分の女と・・
永遠の秘密にするつもりなのか・・隆二には勝の気持ちがわからなかった。綾子をまるで自分の子供のように育てながらも、銀蔵の子供として育て上げた。
川崎の西岡組組事務所に隆二は戻った。
事務所には各地からの電話がひっきりなしに入り電話番の組員が忙しく立ち回っていた。
「お帰りなさい、本家から兄貴に連絡が欲しいと」若衆の一人が告げた。
隆二はたぶんあの件だろうと思った。
事務所脇の応接の横にある据え置きテレビを入れた。
どのチャンネルを回しても日本海を航行するカーフェリーがシージャックされたニュースを報道していた。
『シージャックか・・』と隆二は一瞬ブラウン管を眺めたが意識は他にあった。
『葬儀を滞りなくおこなう』と隆二は考えた。
その後は盃事が待っている。
『俺が組長・・』
自分でも何がおかしいのかわからずに笑みが零れた。
シージャックされたフェリーに勝、そして綾子が乗船している事はまだ隆二は知らなかった。
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